▼ 01
九条が学校を休んだ。理由は「風邪」だという。言わずもがなその原因はあの雨の日である。
「全くこれでは意味がありませんわ…貴方って本当に役立たずですね」
「死にたいのかクソ女」
一人で作業をしていたはずなのに、いつの間にか中津川が印刷室に入り込んできていた。しかもその手には湯気の立ち昇るマグカップが握られている。お前くつろぐ気満々じゃねぇか。
「九条くんが風邪をひかないようにするために、わざわざ敵である貴方に恥を忍んで頼み込んだというのに」
「敵ってなんだよ」
勝手に俺とお前の関係を規定するな。俺はお前みたいな電波女なんかどうでもいい。
中津川はキッとその目を吊り上げ俺を睨んだ。これが生徒に人気の美人教師だというのだから、世の中たまったもんじゃない。
「敵に決まっているでしょう!私からあの天使を奪い去る悪魔です!」
「別に奪ってない」
あいつが勝手に俺の回りをうろちょろしているだけだ。
「どうせ、どうせ…いかがわしいことをしたに違いありません…!」
「は?」
「水も滴るイイ男という言葉があります。あの日の九条くんは本当に可愛らしかった…!白い肌に艶めく雨粒が、まるで彼の輝きを具現化しているようでした…」
何を言っているんだこいつは。頼むから日本語を話せ。
「そんな九条くんを目の前にして、理性など意味があるでしょうか?答えは否です。藤城先生だってそうでしょう?」
「…お前は本当に頭がおかしいんだな」
「私の話ではありません。貴方が九条くんにいかがわしいことをしたのか、そうでないのかを問うているのです」
あの雨の日のことを思い出す。
指先に触れた感触、掠れた声、跳ねる身体、全てがまだ記憶に新しい。
「いかがわしいの基準は何だよ」
「…それは…」
「言っとくけどセックスはしてないぞ」
「!!!」
「お前の言う天使とやらは俺に抱いてほしいらしいがな」
「そ…っ、そんなこと、あの子が…」
「お前は九条を美化しすぎだっつの」
ドン、と脇にあった机にカップが叩きつけられた。中身のコーヒーは大幅に揺れていたが、零れることはない。
「藤城先生は!」
「声がでかいうるさい」
「あの天使に好かれているという事実を重く受け止めるべきです!そして喜ぶべきです!」
「はぁ?」
「誰かを好きになることは、物凄く勇気のいることなんですよ!そんなことも分からないのですか?」
勇気。
中津川の言葉に、自分の恋愛遍歴を省みる。今までそれなりにいろんな女と付き合ってきたが、そんなものは存在していただろうか。
「教師と生徒というだけでもハードルが高いのに…ましてや九条くんと貴方は男同士です」
「そういう性癖の奴もいるだろ」
「あの子はもともとノーマルです」
「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」
「私の愛を舐めないでいただけますか。中等部のころからずっと見ていたと言ったでしょう」
誇ることではない。
「たった一言。好きという言葉にどれ程の覚悟が必要なのか…もう少し考えてみたらどうです」
「覚悟、ねぇ…」
覚悟や勇気。好きという言葉。
そんなもの、むず痒くて仕方ない。考えるのも嫌だ。鳥肌が立つ。
勿論付き合ってきた女性に対しては真摯な態度で接していたつもりだし、キスもセックスも自然な流れの中にあった。それをするのが当然だと思っていたからだ。
もしかしたら自分が今まで経てきたものは、恋愛なんかじゃないのかもしれない。
「…仕方ないです…不本意ではありますが…」
中津川は一枚のメモを取り出し、さらさらと滑らかな手つきで何かを書きつけた。そしてそれをこちらに向かって差し出す。
「九条くんの携帯のアドレスと電話番号です」
「…ストーカー…」
「失礼な!これはきちんと本人から聞いたものですよ!」
それはそれで問題だと思うが。つーか暗記してんのかよ怖すぎんだろ。九条も九条だ。あいつには危機感というものがないのか。個人情報をこんな頭のおかしい女に簡単に教えるんじゃない。
「で、これをどうしろと」
「もう少し優しくしてあげなさい、ということです」
「優しく?俺が?九条に?」
「彼は今風邪で寝込んでいます。誰のせいですか?貴方のせいですよ?大丈夫かの一言をかけるのは、当然のことじゃありませんか」
「…連絡しろって言ってんのか」
「そうです。九条くんも私より、貴方からの連絡を待っているはずです」
ギリギリと歯軋りをする中津川。その姿は気持ち悪い以外の何者でもない。
「お節介女」
「私は藤城先生と違って、九条くんの幸せを何よりも優先して考えているだけです」
ぐしゃりと手の中のメモを握り潰し、ゴミ箱に放り投げた。何故俺がこの女の言う通りにしなければならない。そんな義理はどこにもない。
「あっ…!」
「そんな暇あるか。俺は忙しいんだ。あんたと違ってな」
「…貴方って本当に最低」
うるせぇよ。
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