▼ 04
「俺はね、巴」
紅茶を入れている母に聞こえないような小さな声で言う。
「強い人になりたいんだ」
「強い人?」
そう、と頷く。
強い人。
大事な人を全員丸ごと支えてあげられるような、そういう人になりたい。
もちろんその「大事な人」の中には巴もいる。母さんもいる。じいちゃんばあちゃんもいる。
「…どうしてそう思うの?」
「人には逃げる場所が必要だから」
辛いときや悲しいときは逃げてもいい。立ち向かって壊れてしまうくらいなら、その方がいい。母さんを見て、俺はそう思った。
俺がもっとちゃんとしていれば、母さんを支えてあげられれば、俺たち家族はきっと今とはまた違った形になっていたはずだ。
「どんなに辛いことがあっても、逃げた先でちゃんと受け止めてくれる人がいたら、また頑張れるようになるんだよ」
俺にとっての支え、俺を受け止めてくれる強い人。それは、忠太に他ならなかった。
忠太は何にも聞かないで、ただ俺を傍に置いてくれた。だから俺は今こうして自分の足で立っていられるんだ。
ただ傍にいられるだけで、それだけで良かった。それだけで充たされた。
「母さんは辛いことがたくさんあって、今逃げてる途中なんだ。だから俺は、そんな母さんを受け止めなくちゃいけないと思う」
いつまでも甘ったれたことは言っていられない。俺はもう、充分わがままを突き通してきた。
「巴も辛いなら、逃げていい。弱音も泣き言も言っていい。兄ちゃんが聞いてやる」
「でも、そんなにたくさん背負ったら、兄ちゃんがつぶれちゃうよ」
「大丈夫」
俺は大丈夫。
忠太のことを想うと、なんだってできる気がする。
ずっと傍にいたかった。ずっと離れないでいたかった。
でも、忠太の世界に俺は入れなかった。俺と忠太は別々の世界を生きている。本当は最初からわかっていた。
怖かった夜が、待ち遠しくなった。彼に抱かれるのが嬉しくて幸せで、涙が出た。こんな身体でも求めてくれる人がいる。俺はいらない子なんかじゃないんだって、そのときだけは実感できた。
忠太と過ごしたあの時間こそが、俺にとっての逃げる場所。また頑張るために支えとなってくれる記憶。
だから、俺はもう、大丈夫。忘れたくっても忘れられない。この思い出はずっと持っていられる。
「俺は巴のことも母さんのことも大好きだよ」
嫌いになんてなれない。見捨てることなんてできない。
二人に必要とされるために、俺はもっともっと強い人になりたい。
――それが、散々逃げた挙句辿り着いた答えだった。
「…あら…?こら巴、お兄さんが困っちゃうでしょう」
ベッドから身を乗り出し、強く俺にしがみついている巴の姿に気がつき、母さんは困った顔をした。
「平気ですよ」
細い髪を梳くように撫でてやると、ぎゅうっとさらに抱きついてくる腕の力が強くなる。
「この子ったらどうしたのかしら…すみません」
「いえ…あ、いい香りですね」
いつの間にか部屋の中に充満する紅茶の香り。具体的な記憶が伴っているわけではないけれど、ひどく懐かしい感じがした。
「家族の中で紅茶は私しか飲まないんですけど、この香りが好きでいつも大量にストックがあるんです」
「そうなんですか…俺も好きな香りです。なんだか懐かしいような」
母さんの顔が綻ぶ。俺も笑う。
「良かった。砂糖はふたつでしたよね?」
「え?」
紅茶のときは、砂糖はふたつ。
それは、母さんだけが知る俺の飲み方。
「え?あ、あれ…?どうして私…」
――なんだ。
「…はい。ふたつ、お願いします」
この人の中にも、ちゃんと俺はいるじゃないか。
*
病院から戻ると、玄関には出かける前には見当たらなかった靴が増えていた。祖父が帰ってきているのだろう。もうそろそろ夕飯の支度をしなくては。
「ただいまー」
居間の戸を開けると、やっぱり祖父の姿がそこにあった。
「おかえり。巴のとこに行ってきたのか」
「うん。元気そうだったから安心した」
「環」
「ん?」
「お前、いつ向こうに帰るんだ?」
「え?」
祖父は真剣な顔でこちらを見ている。
「いつって…言っただろ。俺、こっちに来ようと思ってるって。ばあちゃんもあんなだし、また怪我なんてしたら大変…」
「学校はどうする」
「一旦戻ったときに学校には改めて相談して、どこか近いところ…この家から通えるとこに編入しようと思ってる」
「それで本当にいいのか?」
「…なんで?」
なんで急にそんなこと聞くんだ。
本当にいいのかって、何が?
「それは本当に、追いかけてくれる人を振り切ってまでしたいことなのか?」
「追いかけてくれる人…?」
祖父は無言で俺の後ろ、居間の入口を顎でしゃくった。
…そうだ。玄関に増えていた靴は、一つだけじゃない。もう一つ、見慣れない綺麗な革靴が――。
「タマ」
なんで、と言ったつもりだったのに、声が出なかった。
「やっと会えた」
それは、あの家に置いてきたはずの人の――忠太の、声だった。
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