▼ 09
コンコン、とノックの音が聞こえて津々見は顔を上げた。どうぞと部屋の中から声をかけると、すぐにドアが開く。
「急に呼び出して悪かったね」
「いえ…」
「時間平気?」
「大丈夫です…というか、他にもっと場所無かったんですか。何もあのときと同じ会議室じゃなくたって…」
「はは、ごめん」
ちっとも悪いと思っていないしむしろわざとでしょう、と呆れた口調で彼が言う。まさにその通りなのだが、指摘されたからといって別段痛くも痒くも無い。謝る気も毛頭ない。
「…で、早速本題に入るけど」
側にあった机に軽く腰掛け、津々見は口を開いた。
「約束通り、次のプロジェクトを任せるから」
ぱっと彼の顔が輝く。わかりやすい奴だ、と笑いが零れた。
「はい」
「もちろんプロジェクトの成功っていう前提条件はつくけど、まぁ近いうち主任のポジションは確実だと思うよ。頑張ってね」
「はい…あの、課長」
「ん?」
「約束通り俺にプロジェクトを任せてくれるってことは、うまくいったってことですよね」
――それ、答える必要あるのかな。
「わざわざ聞くこと?それ」
にっこり笑ったまま首を傾けると、彼は狼狽えて言い訳にもならない言い訳を並べ立てる。
「ちょっとくらい教えてくれたっていいじゃないですか。あれだけ協力したんですから」
「は?」
思ったよりも鋭い声が出た。我ながら余裕がなくてうんざりするが、彼の発言が癇に障ったことは事実なので取り繕うことなくそのままの声で言葉を続ける。
「人のもの何度も抱いといて、まだ美味しい思いしたいっていうわけ?」
「課長がそうしろって言ったんでしょ…まぁあいつ美人だし、エロいし、なかなか美味しい思いはさせてもらいましたけど…」
――お前は俺を怒らせたいの?
「上原」
「うわっ」
津々見は手を伸ばして彼のネクタイを掴み、強い力で引き寄せた。鼻の頭がくっつきそうな程顔を寄せて微笑む。
「確かに、小山のセフレになって小山のことを好きなフリしろなんて面倒な役を頼んだのは俺だけど、俺もお前に言われた約束をちゃんと果たしたよね?」
「えっ、あ、はい」
「本当ならこのプロジェクトのリーダーはもっと優秀な奴に頼むはずだったんだよ?それをお前が出世したいなんて言うから、リーダーに選んでやったんだ。そこはわかってる?」
「わ…わかってます」
「そ。ならいいんだけど…じゃあ、俺がこの後何言いたいかもわかるよね?」
馬鹿にはわからないかもしれないけど、と心の中で付け加える。
「忘れろ」
「え?」
「忘れろ。全部。小山を抱いたときの記憶は、ひとつ残らず」
「忘れろって…」
「一応これでもお前には感謝してるからね。100歩譲ってただの同僚として接するのは構わないけど、間違っても変な気を起こそうものなら」
「起こそうものなら…?」
恐る恐る尋ねる上原に、津々見はいつもと変わらない声のトーンで言い放った。
「殺すよ?」
掴まれたネクタイを解かれた瞬間、上原は慌てて身を離す。
――この人、本気で言ってる。やばい。俺殺される、と背筋が冷たく震えた。
「殺すって…課長が言うと冗談に聞こえませんよ」
「そりゃ冗談じゃないからね」
津々見は涼しげな笑みを携えたまま手のひらをぱっぱっと払っている。自分から人のネクタイを掴んでおいてなんとも失礼な態度だと思ったが、当然上原は津々見を咎めることなどできるはずがなかった。
「…そんなに好きなのに、他の男に抱かせるなんて、課長も変な趣味してますよね」
あまつさえ好きな奴が他の男とセックスしている場面を覗くなんて、常人の思考ではあるまい。そういう性癖なのだろうか。
「趣味じゃないよ。小山を手に入れるために仕方なくだ。言っとくけど俺の脳内でお前100回は殺されてるよ」
上原はその場で固まる。
「こ…怖…ただ言われた通りにしただけなのに」
「だから感謝してるって言ったろ。安心しなよ。小山はもう俺のものになったし、許してあげる。お前が変なことしない限りは本気で殺そうなんて思わないから」
「はぁ…っていうか未だに信じらんないんですけど」
乱れてしまったネクタイを結び直しながら、上原は津々見に尋ねた。
「本当に小山と付き合ってるんですか?あの小山が課長のことを好きなんて言うの、全く想像つかないというか…」
「何言ってんの」
「え?」
「付き合ってるんじゃないよ。愛し合ってるんだ」
「どう違うんですそれ…」
「全然違う。ニュアンスが。…さ、もう話は終わったし、そろそろ出ようか」
「あぁ、はい」
用が済んだのに長々とこの会議室に居座るのも不自然だ。腰掛けていた机から立ち上がった津々見が会議室のドアを開き、上原もそれに続く。
「…えっ」
―――と、そこには。
「こ…っ、小山」
ドアの向こうに立っていた人物の顔を見て慌てたような声を上げたのは、勿論津々見ではなく上原の方だ。
「どうしてここに…い、今の話…聞いてた?」
わざわざ改めて聞く必要などない。確実に聞こえていたはずだった。
「…津々見さんに呼ばれたから」
「はっ?」
津々見に?
何故わざわざ自ら墓穴を掘るような真似をするのか。訳がわからず上原は津々見を見る。津々見は驚いた風でもなく、上原の視線に気がついて薄っすらと笑った。
小山も小山で怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ普段通りの無表情を浮かべている。
「津々見さん」
「ん?」
名前を呼ばれた津々見は普段と同じ口調で返事をした。
「…上原と組んで、俺のこと嵌めたんですか」
「そうだね」
「最初から全部、津々見さんの筋書き通りってことですか」
「うん」
「俺が思い通りになっていくのを見て嬉しかったですか。今、思い通りになって嬉しいですか」
――おいおい、これって、やばいんじゃないのか。
二人のやりとりを目の当たりにし、上原は一人青ざめる。修羅場に巻き込まれるのはごめんだった。
「嬉しいよ」
そんな心配をよそに、津々見の手が小山の腰を優しく抱き寄せる。
「欲しかった人がやっと俺のものになったんだ。嬉しくないわけがない。緻密に計画を練って、じわじわ外堀を埋めて、でも思った以上に小山の傷は深くて、これじゃ駄目だってまた一からプランを考え直して、ようやくここまで来た」
「…」
「小山が愛してるって言ってくれたときの俺の気持ち、想像できる?死んでもいいと思った。死ぬなら今がいいって」
抵抗もせず動かない小山を上原は不思議に思った。普通の人間なら怒ったり泣いたりしてもいい場面のはずなのに、何故小山はじっと黙っているのか。津々見が全てを話し終えるのを待っているのだろうか。
「小山のこと嵌めたって?最初から全部筋書き通りだって?…当たり前だよ。思い通りになるように俺が仕向けたんだから。100パーセント成功する確信があった。だって俺が一番小山のことを愛してるのに、俺のものにならないとおかしいでしょ?他の奴が手に入れたら変でしょ?」
きゅ、と小山の手が津々見のスーツの裾を握る。その瞬間、津々見の口元が綺麗な弧を描いた。
――もうひと押し。
津々見は自分の胸に顔を埋めた小山の耳元で囁く。
「俺の思う通りにされて、嬉しい?」
髪の隙間から覗く白い耳がじわりじわりと紅く染まる。スーツを握る白い指先に力がこもる。
「嬉しい?」
再度同じ質問を投げかけ、ゆっくりとその顔を上向かせた。
「ねぇ、小山?」
――嗚呼、やっぱり。
津々見の目に映し出されたのは、頬を紅潮させ、艶っぽく濡れた瞳でこちらを見上げる小山の顔だった。
「ほら、今どんな顔してるか上原に見せてあげて。心配してくれてるみたいだから」
「えっ、俺?」
「ね、心配してたよね、上原」
「は…はい。してました」
急に話を振られ口ごもる上原に、津々見は少し身をずらして腕の中の小山の顔を見せた。
「…」
待て、なんだその顔は。今の会話のどこにそんな…課長のことが大好きです、みたいな表情になる要素があったんだ、と上原の頭は混乱する。
「…えっと、小山…平気?」
上原としては「そんなサイコパスみたいな人間に好かれて大丈夫か。逃げなくていいのか」という意味で質問したのだが。
「…平気」
「そ、そっか…」
「あの…上原、いろいろ、ありがとう」
「えっ」
「上原がいなかったら、俺、こうしていられなかったと思う、から…感謝、してる」
小山がくれたのは、全く返答にもならない返答だった。
「いや、お前…」
「じゃあそういうことだから。行こうか小山」
余計な口を挟むなとばかりに津々見が会話の間に割り込んでくる。笑っているのに笑っていないという恐ろしい瞳で見下ろされ、上原は口をつぐんだ。そういうことって一体どういうことですかなんて余計なことを尋ねるのはやめよう。俺だって命は惜しい。
「…」
寄り添うようにして去っていく二人の背中を眺め、上原の口からは自然と言葉が零れ落ちる。
「…変なの」
――もうあの二人には関わらないようにしよう。
そう堅く心に誓い、上原は会議室を後にした。
end.
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