ときどき、無性に泣きたくなる時がある。理由もなく、ただ静かに。
そんな時は決まって、もう戻らないあの日々に思いを馳せては懐かしく思うのだ。くだらないことを馬鹿みたいに笑いあって過ごした日々は遥か遠い。
他人には無関心な彼が時折見せる笑顔は、誰よりも優しかった。気休めや安易な言葉で誤魔化さない、そんな彼に強く心惹かれていたのだと今なら思う。
かの教授の論文に手を伸ばした彼を、呼び止めるつもりはなかった。ただ、無意識に。あの時、あの瞬間の私は、彼の名前を呼ばずにはいられなかったのだ。
『大丈夫、"向こう側"には行きません』
微笑みながら彼が口にした言葉は、誰に向けての、何に対するものだったのか。
その笑みの裏に隠された心は彼自身にしかわからない。そんなこと考えても仕方ないのに、時折、本当の意味を考えてしまう。
彼は旅人なのだ。
同じ風景を見ているはずなのに、お互いに別の世界を見ていた。すぐ隣にいるはずなのに、遥か遠く離れた場所いるようにも思えた。
寄せては返す波のようにくり返し逢瀬を重ねても、その感覚が消えることはなくて。それはひどく曖昧なものでしかないのに、口にしてしまえば現実になってしまう気がしていた。忘れない、忘れられない、忘れたくはない……。
「旅人」は、いつか何処かへと旅立ってしまう。
――此処ではない、遠くの、別の世界へと。
焦がれることを誰も止められはしない。止めていいことだとも思わない。
そう考えながらも差し出した手が空を切る感覚に、ひどく遣る瀬無い気持ちになるのだ。
束縛したくはないのに、傍にいて欲しい。
夢を追いかけて欲しいのに、傍にいて欲しい。
相反する想いがせめぎ合うけれど、そのどちらもがけっして口にするつもりはない偽りのない本心でもあった。
目じりに浮かんだ雫は、風に流されて消えていく。
「どうしたんですか? なにか――」
優しく気遣う声に顔をあげると、心配そうに揺れる瞳とぶつかった。
どうして気づいてしまうんだろう?
それには理由なんて、ない。説明だってできないのに。
気づかれたくない時に限って、彼は気づいてしまうのだ。
答える代わりに指を絡めるようにして手を繋ぐと、やがて彼は諦めたように小さく溜息を吐き、絡めた手のひらにギュッと力をこめ空を仰いだ。そのぬくもりから、彼は現在、確かに此処――私の隣に在るのだということが伝わってくる。
「なんだかいろいろと懐かしくなっちゃってね〜」
気遣わしげな眼差しをこれ以上見たくなくて、殊更に明るく声を張り上げると、彼は無言のまま私を引き寄せて腕の中に閉じ込めた。同じ速さで刻まれる鼓動が心地よくて切ないほどの幸せが胸に広がってゆく。そして、そっとそのぬくもりに頬をすり寄せると、想の吐息が私の耳元を熱く掠めた。
今の彼は、還る場所を知っている――