紫原とカーテンの裏
ふわりとカーテンが舞い、冷たい空気が夕暮れと共に吹き込む。寒さに膝を擦り合わせてセーターの袖を引き伸ばし、冷たい指先でペンを動かした。
「これでいい〜?」
日誌に今日の授業内容を書き終えたところで声を掛けられて顔を上げる。黒板を綺麗にして、というお願いを聞いてくれたもう1人の日直、紫原は教壇に寄り掛かり眠そうな目でこちらを見ていた。
「うん、ありがとう。あとこれ提出したら終わりだから先に帰って大丈夫だよ」
本人は練習に行きたがる素振りは見せずとも我が校のバスケ部のエースさまを長らく拘束しておくわけにはいかない。
適当な返事を返してカバンの置いてある席に戻る紫原を見て、その向こうの窓が開け放たれていることを思い出した。寒い時期だというのに掃除の時間から雪さえ降っていなければ換気のために窓を開ける決まりになっている。
「今日は部活?」
「そー」
「そっか、がんばってね」
ん、と首だけ頷いた紫原を横目に閉められたカーテンを捲って大きな窓に手をかけ、レールの摩擦音を響かせる。錠をかけようと見上げた先に大きな手が伸びてきて、すぐ後ろに立つ存在に気がついた。これまでの人生で出会ったこともなければ、これから先も彼を更新する人なんて現れないと思うほど背が高すぎる紫原を首を反らせて見上げた。目線だけをこちらに向けるのは面倒くさがりな彼の癖。そうわかった数ヶ月前に決して良いとはいえない目つきを怖いと思う感情はなくなっていた。
「ありが…」
ありがとう。と続くはずだった言葉はそれ以上紡ぐことを許されなかった。近づいたのはイチゴシロップを連想させる人工的な甘い香りと頬をくすぐる髪。柔らかく触れた唇は瞬きをするより前に離れていく。身体の正面には閉められた窓。すぐ後ろに紫原、そしてその後ろで教室の薄いカーテンがひらりと揺れる。
「………え?」
今、間違いじゃなければ、紫原が、あの大きな身体を屈めてわたしにキスをした。身体を反転させて逃げるように窓に背をつける。
「……えっ?」
「キスした」
「う、うん……え、なんで…?」
思わず唇を手で触れて確かめる。確かにここに触れた。絶対に。なんで、なんで、それしか考えられない。相変わらず目線だけでこちらを見下ろす紫原は顔色ひとつ変えずにぷい、と外方を向く。
「自分で考えれば?」
「はぁっ?!」
「じゃあおれ行くから」
あとよろしく、と言い残して本当にカバンを掴んで去っていく紫原。残されたわたしは壁に寄りかかってまるで力の入らない膝がずるずると床に引きずりこまれていく。
「意味わかんない…」
ぽつりとつぶやいた言葉は誰に拾われるわけでもなく。時折遠くで聞こえる運動部の掛け声だけが響く教室で1人、煩く跳ねる心臓を抑えて答えの出ない疑問に押しつぶされてしまいそうだった。
****
翌朝、教室の前で立ち止まって深呼吸をして意を決して一歩踏み出した。友達に声をかけながら席につき、後ろの方の机を確認した。入学以来、その身長から一番後ろに固定で座り続ける紫原はまだ来ていないようだ。良かった、と胸を撫で下ろしかけたそのとき視界の隅に大きな影が写る。びくりと跳ねそうになる身体をなんとか誤魔化して横目でその存在を確認すれば、背中を丸めてあくびをしながら歩いてくる紫原がいた。
席についてもう一つあくび。カバンを掛けてビニール袋からパンを一つ取り出す。朝ごはんなのかな、大きな口を開けて齧り付いたその瞬間に目が合ったような気がして慌てて逸らした。もう一度だけこっそりと盗み見ると、早くも食べ終わったらしくまたビニール袋をガサガサと漁っていた。多分、今まであんまり意識していなかったけどいつもと同じような光景だと思う。
お昼休みを迎えるまで、何度かその姿を視界に捉えては視線を外して追いやった。紫原の隣の席に仲のいい子が座っているのが辛い。お陰様で今日は一度もその子のところに行けないでいる。
「怖い顔してどうしたの」
「…えっ?そ、そう?なんでもないけど」
「今日ちょっと変だよ?どこ見てんの?……紫原くん?」
違う違うと大声で否定しても取り合ってもらえないけれど、お菓子でも取られたのかと笑い飛ばしてくれたので別にバレたわけではなさそうだった。そりゃあそうだ。誰が、あの紫原が突然わたしにキスするなんて思うんだ。他の誰でもないわたしが一番びっくりしているんだから、気付かれるはずがない。あんなことあり得ない……はずなのに、本当になんでなの。
「お菓子だったら諦めなよ、紫原くんから取り返すのは」
「だからそんなんじゃ…」
そんなんじゃない、けど説明することもできないから何とも言えなくて口籠る。そう深刻に捉えられていないのがまだ幸いだ。紫原があんなことさえしなければ、とまたその姿を視界に入れていたことに気が付いて頭を抱える。
「あ、ごめん、ちょっと行ってくる」
「ん?あぁ、彼氏か〜いってらっしゃい」
廊下から顔を出すのは友達の彼氏。仲良さそうで羨ましい。手持ち無沙汰になって自分の席に戻ろうとすると、いつの間にかすぐ近くまで紫原が来ていた。
「ねぇ」
「な、なに」
「さっきから見過ぎなんだけど」
さっきっていうか、朝から。と言われて盗み見ていたのがバレバレだったことを知る。
「べっ、別に見てなんか。そこの学級新聞見てただけだし…」
「はぁ?……バスケ部、ウィンターカップ大健闘だって。おれの記事じゃん」
「え…えっと、そう、キャプテン!の人がカッコいいなって」
適当に口を吐いた嘘に紫原はまたしてもはぁ?と吐き捨てて随分高いところからわたしを目線だけで見下ろした。キャプテンってこのゴリラだけど。紫原が指差したのは背の高い、確かにちょっとゴリラっぽいところのある人。てっきり写真の中央に写っているものだと思っていたからこっちが驚きだよ。全然カッコ良くなかったという失礼なことは胸の内に秘めておいた。
「…人違いだったかも」
それより写真中央の黒髪の人がカッコいいなと思ったけど、わたしの視線は結局その隣の巨体に奪われてしまっていることを悟られたくなくてそれ以上は黙っておいた。
「まぁいいけど。それよりなんかお菓子持ってない?」
「お菓子?飴でいい?」
「ちょーだい」
広げられた大きな手に飴をひとつ。ありがと〜と言いながら包みを剥がして真っ赤なキャンディが口元へ運ばれていく。ぱくりと放り込んだ後、カサついた唇をぺろりと舌が舐めた。その仕草を目で追ってしまって、そしてそのことに気が付いて顔がどんどん熱くなっていく。
「んじゃ〜ね」
何事もなかったかのように席に戻った紫原に怒りにも似た感情が湧き上がった。どうして、なんでそんなに気にしてなさそうに出来るの?ただキスされたくらい…とはならないでしょ。気になって仕方ないなんて、そんなの普通でしょ?
いきなりキスされた身にもなってみろ……って、そうか。されてみたら紫原にだってわかるかもしれない。仕返ししてやる…!
****
予鈴が鳴り、人が少なくなった頃を見計らってわたしは空き教室に身を潜めていた。紫原はさっき、午後の授業の合間に食べるお菓子を調達するために売店へ向かった。周りに誰もいなくて彼が1人になる、絶好のチャンスがやってきたというわけだ。
こっそり廊下の様子を伺って、ガサリとビニールの擦れる音が聞こえた。
(来た…)
ドアの前まで紫原が来た瞬間を見計らって、その腕を引き教室へ連れ込む。ちょっと引っ張った程度じゃびくともしなかったけれど、わたしの顔を見て自分から入ってきてくれたのでひとまずOKとする。
「なに、どうしたの〜?」
「……紫原、」
ここでひとつ想定外のこと。それはキスをしようにも、届かないこと。手首を掴んだまま見上げて固まったわたしの顔を覗き込む紫原は、その辺の机の上にビニール袋を置いた。
もうここまできてしまえばやるしかない、と肩に手を置いて目一杯背伸びをして、唇を重ねる。やっぱり彼は近づくとイチゴシロップの香りがした。
「……仕返しのつもり?」
「さぁ、自分で考えたら」
ここまで言ってようやく仕返しが完了した。恥ずかしいとかそんなことよりも、してやったという満足感の方が大きい。さぞ悔しそうな顔をするだろうと期待を込めてその顔を見れば、紫原は予想外にもニヤリと笑みを浮かべる。
「ふーん、じゃあ当ててやるよ」
「な、なに…」
「おれのこと、気になってる」
急にうまく息が吸えなくなったように苦しい。ほとんど図星でまさかこんなに早く答えに辿り着かれるなんて思っても見なかったからなんと返したらいいのかわからなくなる。
「…そんなこと」
「バレてないと思ってんの?」
「……違うよ、ハズレ!」
ぶんぶんと首を振って、緊張を誤魔化した。自信たっぷりだった紫原が拗ねたように唇を尖らせて抗議する。違うものは違うのだから仕方ない。うーん、と顎に手を当てて考える紫原に、どうか本当のことに気付かないで、と願ってしまう。
「ん〜、あ、そっか。好きになった、でしょ」
「……」
なんで、当てるの。本当に悔しい。昨日までは別に紫原のことなんて好きじゃなかったのに、たったあれだけでわたしの心を全部独り占めして。わたしには紫原の真意なんてわからないのに、どうしてそんな簡単に当てちゃうの。
「ね〜、当たり?ハズレ?」
「…それ、は…」
俯いて、つま先を見つめていたわたしの視界が変わる。顎を掬われて至近距離で見つめられて、普段はやる気のない顔のくせに、こんなときだけはその視線が逃れられないくらい鋭い。
「当たりって言ってくんなきゃヤダ」
「なにそ、」
言葉は遮られて、イチゴシロップに飲み込まれてしまった。昨日よりも、さっきよりも長いキス。いつの間にかガッチリと後頭部を抱えられていて、そうでなくても腰が抜けてろくに動けやしないのだけれど、とにかくわたしは目の前の黒いカーディガンに縋ることしかできなくて。
「で?そっちは答え、出たの?」
紫原の舌がぺろりと唇を舐めた。カラン、と飴玉が転がる音がしてイチゴ味の飴を舐めていたことを知る。
「…わたしだって、好きって言ってくれなきゃ、イヤだよ」
ニヤリと口角が上がるのが見えたと思ったら、わたしの視界は黒で埋め尽くされた。頬に触れるボタンとニットの感触。包み込んで、それでも余るくらい大きな身体で目一杯に抱き締められて、聞こえてきたのはおれの勝ち。
いつの間に勝負になってたの、なんて思ったけど、これは確かにわたしの負けだ。
[ < ]