01
高校2年生になってから1週間が経った。クラス替えに一喜一憂し、仲良しだった友人と違うクラスになったことを嘆いていたのも初めのうちだけで、今はお互いに新しいクラスに馴染んでいた。授業の内容もほとんどが1年生の頃の復習と続きだったからついていけないなんてことはなく、わたしは大して代わり映えのしない日を過ごしていた。
次の授業の開始を知らせるチャイムが鳴り響き、わたしは廊下で話していた友人と慌ててお互いの教室へ戻った。先生はまだ来ていない。席について机の中から教科書とノートを取り出し、そしてちらりと隣の席を見た。
隣の席には誰も座っていない。使われていないわけではないのだけれど、彼がきちんとそこに座っているのを2年生になってからの1週間、まだ一度も見かけていなかった。
波羅夷空却くん。それが隣の席のクラスメイトの名前。不良なのだとか、チームを組んで日々バトルに明け暮れているのだとか、そんな話を耳にしたことはあるけれどそれ以上のことは何も知らない。
パラパラと次の授業である歴史の教科書をめくる。もともと好きだったわけではないからよく覚えていないけれど、中学の頃と違って近代史ばかり勉強させられるのはH歴になった影響なんだろうなと思っていた。こうやって子供に知識を刷り込んで行けば言の葉党の思い通りの世界に近づいていくのだろうか。先生も授業を受けているみんなも違和感を感じているだろうけれどそれを口にする人は誰もいなかった。
先生が入ってきたタイミングで日直の起立の号令がかかり、ガタガタと椅子の音を響かせて立ち上がった。先生はざっと見渡して空いている席を確認して欠席者の名前を書き込んでいる。そうして教科書のページを指定し、黒板に白い文字を書き込み始めた。カチカチとシャーペンの芯を出してノートに先生の書いた文字をそのまま写し取っていく。
ガラガラ
教室のドアが開き、何人かの生徒はそちらへ目を向けた。わたしも釣られてちらりと目をやれば、派手なスカジャンの男子が教室へ入ってくるところだった。赤髪に大量に開けられたピアス。一年生の頃何度か廊下で見かけた波羅夷くんだ。
「おーい波羅夷、遅刻だぞ」
「うぃーっす」
悪びれた様子もなくゆるい返事を返してから波羅夷くんはガムで風船を膨らませた。当然それも注意されて、舌打ちをしながらガムを紙に包み、そのままポケットへと突っ込んだ。ガタン、椅子を引いてわたしの隣の席へつく。一応自分の席は知っていたんだ。
波羅夷くんの様子を横目で追いつつ、先生は教科書を読み上げた。声に合わせてじっと目で追って、繰り返し読まれたところに蛍光ペンで印をつけていく。そうして一区切り読んだところで先生は波羅夷、と彼を呼んだ。
「教科書はどうした、持ってないのか?」
「あー、持ってねーや」
「全く、せっかく来たと思えば…。悪いが藤原、見せてやってくれ」
不意に呼ばれた名前に顔を上げれば先生は全然悪いと思ってそうには見えない顔でこちらを見ていた。わたしに拒否権はないようで、しかたなく手に持っていたペンを置いて波羅夷くんの机の方へ教科書を置き直した。
「いや、別にいいって」
「よくはないだろう。ほら、ちゃんと席くっつけて見せてもらいなさい」
「…先生もああ言ってるから」
面倒そうに大きなため息をこぼした波羅夷くんに、ため息をつきたいのはこっちの方だと内心毒づきながら自分の机を動かした。クラス中がこっちを見ているのではないかと思うようなこの時間が耐えられないから早く授業を再開してくれ、と目で訴えれば先生は満足したのか、再び教科書を読み始めた。頬杖をついてわたしの教科書を眺める波羅夷くんの目線を邪魔しないように教科書に書き込みをして、時折挟まれる先生の小話に耳を傾けた。
「なぁお前」
「なに?」
「名前は」
「藤原です」
「じゃあ藤原、お前これ何も思わねぇの?」
「これって」
目線を辿れば机の間に置かれた教科書。歴史の教科書とは起こった事実のみが書いてあるべきだというのに、これには起こった原因がどうとか誰が引き起こしたのだとか、そういう人に関することが事細かに書かれていた。男性が悪いだの武器が悪いだの、書き方こそ直接的でなくともつまり言いたいのはそういうことなんだろうと察しがつく。
「まぁ何も思わないわけではないけど」
ちょっと変だよね。先生の目がこっちに向いたことに気がついてその言葉は飲み込んだ。わたしの表情で先生に気がついたのか波羅夷くんももうそれ以上は何も言わなかった。そうしてしばらく、彼は頬杖をついたまま瞼を閉じて眠ってしまったようだ。
授業が半分ほど終わったところで先生は小テストをすると言い出し、黒板に書かれた文字を消し始めた。書き取りが追いついていなかった生徒はあわてて消される前にと手を忙しく動かす。
「波羅夷くん」
「…あ?」
「プリント、回ってきてる」
「おぉ、悪い」
ぱちりと目を開けた波羅夷くんは前から回された小さなテスト用紙を後ろの人へ渡してから、まただらんと頬杖をついた。もう教科書は必要ないだろうとなるべく音を立てないようにわたしは机を元の位置に戻して、テスト用紙に名前を書いて穴埋め形式の解答欄に文字を書き始めた。開始から10分ほど経ったところで先生はそこまで、と立ち上がった。
「じゃあ隣の人と交換して答え合わせだ」
「…え、」
みんなが普通に答案を交換している中、わたしは波羅夷くんに目を向けた。眠ってこそいないものの話を聞いていなかったのかぼうっと前を眺めている。
「あの、波羅夷くん。先生の話聞いてた?」
「いや、全く」
「そうだろうね…。答え合わせ、隣の人と交換してって」
そーか。彼は自分のテスト用紙を手に取りこちらへ差し出してくれた。どうやら一応授業を受ける気はあるらしい。彼のテスト用紙を受け取ってからわたしも同じように差し出した。
「うん…って、真っ白じゃん」
「あぁ、わかんなかったわ。お前適当に書いといてくんねぇ?」
「筆跡でバレちゃうでしょ。わたしの写してもいいからせめてちょっとは書いたら?」
「いいのか?サンキュー」
真っ白な答案を彼に返して、さらに筆記用具も持っていないのだと言う波羅夷くんにシャーペンを渡してあげる。その手元を見てみれば勢いのある筆圧のわりに綺麗な字を書くんだなと少しだけ感心してしまった。最後まできっちりわたしの答案を写した波羅夷くんはそのまま2枚ともわたしに押し付けた。答え合わせをしようにも、自分は答えを知らないからと。確かに答えは教科書に載っていて、また机をくっつけるのも面倒なので結局わたしが全部チェックをつけた。解答が同じだから手間ではないけれど。わたしが間違えたところまで同じになってしまったし、先生にはバレてしまうんだろうなと思ったけれど、波羅夷くんが真面目に学校に来て教室にいるのだから許してあげてほしいな、なんて思ってしまった。
「藤原、サンキューな」
「どういたしまして」
「また頼むわ〜」
「まぁ、いいけど」
それから彼がいるときはいつもカンニングをさせる役になってしまった。見せるくらいならこちらに負担はないのだし、構わないのだけれどたまに先生から刺さる視線が痛い。波羅夷が真面目にやるのなら、と甘く見てくれる先生も中にはいるけどみんながみんなそういうわけでもないのだ。そしてそれだけではなく教科書やら資料やらも全部わたしのを覗き込んでくるのだから困ったものだった。
「波羅夷くんさ、教科書持ってないの?」
「いや、全部ロッカーにあるわ」
「ロッカーってすぐそこじゃん。ちゃんと持ってきなよ」
「お前が見せてくれるならいいじゃねぇか」
「まぁ……いや、よくはないでしょ。こんなにいつも机くっつけてるなんて小学生ぶりだよ。全部机に入れとけばいいじゃん」
波羅夷くんはしぶしぶ面倒そうにロッカーへ向かい、新品の教科書を抱えて戻ってきた。それから、一応授業中は該当する教科書を机の上に出してはいるものの開くことは滅多になく、彼の教科書は新品のままだった。これだったらわたしのを見せてあげていた方がマシだったのかもしれない。
「波羅夷くん、波羅夷くん」
「ん」
「今、46ページ」
先生の目が光りそうになったときには小声でこうして教えてあげて、なんとか注意されるのは防いでいるのだけれど、わたしは何故彼のために頑張っているのだろう。
「サンキュ」
それでも小さな声で目を細めて笑いながらお礼を言われると、まぁいいか、なんて許してしまうのは彼の人柄ゆえなのかな。彼の机の上に転がった貸したままのシャーペンはもうわたしの手元には戻ってこないような気がした。
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