06

隣の席から盛大なため息が聞こえ、ちょっと、と同僚の呆れた声が続いてわたしはギギギと錆びたロボットのようにそちらへ顔を向けた。


「時計見過ぎよ」

「…だ、だってもうすぐ定時になっちゃう…」

「定時をそんなに怖がるなんて今日くらいよね」


今日の夜、時間があるかと天国さんから連絡があったのは3日前。前に話していたお礼の件だと思ったので速攻で返信すれば天国さんからもすぐに返信があった。お店を予約しておくから仕事が終わったら少し待ってろと指示を頂き、わたしは今日の朝から緊張でガチガチに固まりながらなんとかもう少しで無事に業務を終えようとしていた。


「やっぱり何か変じゃないかな?服大丈夫かな、髪くずれてない?」

「大丈夫だってば。それ今日5回目。ちゃんと天国さんの好きそうな大人っぽい感じだし可愛いよ」

「そう、かな…。うぅぅやっぱり緊張する…」


気を紛らわすようにカタカタとキーボードを打って深呼吸をする。同僚がこう言ってくれているし服選びは多分大丈夫。今は梅雨時だけれど幸いにも今日はカラッと晴れて湿気も少なく髪が爆発しなくて済んで助かった。リップも今日のために新しいのを買ったし、大丈夫。大丈夫…。

時計の針が定時であることを示すと手早くPCを片付けて手鏡を手にした。お手洗いに行ってメイクを直してこようかな、天国さんはいつ頃来るんだろう。バタバタとメイクポーチを取り出していれば同僚はさっさと鞄を持って立ち上がった。じゃあ頑張って、なんて、せめて一緒に待っていてくれないの。

泣きそうな顔をしてもガツンと攻めて来なよと言い残して帰ってしまった。彼女を見送ってからわたしはメイクを直して天国さんを待った。


「待たせたな」


しばらくすると声がかかった。顔を上げればラフに袖を捲った天国さんの姿。慌ててガタンと音を立てて立ち上がってから、今日はもう少し落ち着いて振る舞わなければと思い直した。


「そんじゃ行くか」

「はい!」


天国さんに連れられて行ったのは事務所からそう遠くない落ち着いたダイニングだった。少し暗めの照明でゆったりとした曲の流れる店内はとても雰囲気がいい。名前を伝えれば窓際のテーブルへ通された。大きな観葉植物が仕切りになって周りのお客さんはあまり見えなくなった。

醜態を晒すことのないように比較的弱めのアルコールと天国さんのウイスキーを注文してからメニューを広げた。嫌いなものはあるか聞かれたので少しだけ見栄を張ってありませんって答えておく。すらすらとやたら長いメニューを注文していく天国さんに見とれていると突然その視線がこちらへ向いた。


「サラダ、なんか食いたいのあるか?」

「あ、じゃあこのシェフのおすすめでお願いします!」


以上で、と注文が終われば店員さんは頭を下げて去っていく。別に他のサラダがよくわからなかったからじゃないよ、おすすめなら間違いないだろうとか、そんな理由じゃないよ。

ななめ横の天国さんは少しだけネクタイを緩めた。その仕草がちょっと色っぽくて、テーブルの隣り合った角に座っているので向かい合う恥ずかしさがないこの配置は非常にありがたかった。


「素敵なお店ですね、よくいらっしゃるんですか?」

「昼はたまにな。夜は男1人で入る雰囲気でもねぇから来たことなかったが」


悪くねぇ雰囲気だな、と続けてポケットからタバコを取り出して再び仕舞い込んだ。わたしは小さなキャンドルの横に置かれた灰皿を手にとって天国さんの方へとおいた。


「吸って大丈夫ですよ」

「悪りぃな」


飲み物が運ばれてきてからコツンと小さくグラスを合わせて乾杯した。最近の仕事のことから好きなお酒の話、モーニングルーティンの拘り。さっきまでの緊張は何処へやら、思った以上にリラックスして話せているのも天国さんが低めの落ち着く声でゆったりと話してくれたからかもしれない。

そして前菜とともに運ばれてきたサラダにわたしはつい固まってしまった。嫌いなもの、ないって言ってしまったのに…。


「…天国さん、桃お好きですか?」

「…桃自体は嫌いじゃねぇが…」


すこし歯切れの悪い天国さん。嫌いなものなかったんじゃねぇのかって顔されているかも。取り分けようとお皿を手におずおずとわたしは天国さんの様子を伺った。


「実はわたし、サラダに入ってるフルーツが苦手なんですよ…。ちゃんと確認すれば良かったです…」

「なんだ、お前もか」

「え、天国さんもですか?」


きょとんと顔を見てみれば、天国さんは眉間にシワを寄せて頷いた。


「料理にフルーツを入れるのだけは許せねぇよな」

「それすっごいわかります!酢豚のパイナップルとかまさにですよね」

「マジ無しだな。生ハムメロンとかもありえん」

「わかります…!別々で食べたいですよね。あとは高そうなお肉にかかったオレンジのソースも!」

「それも同感だ」


ほんの少し子供っぽく口を尖らせて嫌いなものについて語る天国さんと顔を見合わせて笑った。お前とは気が合うかもな、なんて言われて少し胸がドキッとした。

動揺を隠すように桃だけ避けて盛り付けていく。お行儀が悪くて罪悪感があるけれど。


「共犯だな」


代わりにデザートも追加で頼むか、と笑う天国さんにわたしも笑って頷いた。




****




「あの、本当にいいんですか…?」

「いいから。だいたいお前、俺に奢る気だったのかよ」


声を上げて笑いながら天国さんはお店から出てきた。今日はわたしの奢りかもしれないと思って余分に下ろしてきたお金は一切手をつけることなくわたしの財布に入ったままである。


「ありがとうございます…。本当に美味しかったです。ごちそうさまでした!」

「おう」


駅までの道のり、天国さんと肩を並べて歩く。タクシー代を出してくれると言われたけれどまだ遅い時間ではないし、電車で十分帰れるのでお断りしておいた。


「今日は悪かったな、こんなおっさんに付き合わせてよ」

「何言ってるんですか、すごく嬉しかったですし楽しかったですよ!」

「そうか、なら良かったわ」


今日は笑っているところをよく見られる。目尻に少しシワを寄せて優しい顔で笑うんだなぁ。勘違いしちゃダメだって心の中で言い聞かせても、今この顔を見ているのがわたしだけなんだと思うとすごく嬉しかった。

駅に着いて足を止めると、天国さんもつられて止まった。ここを通ってしまえば今日はもうお別れ。歩きながら言おう言おうと考えていたことをもう一度頭の中で繰り返す。お酒の勢いに任せてしまえ。同僚の攻めて来いという言葉が脳内に響いて意を決して深く息を吸い込んだ。


「また、ご一緒してくれますか…?」

「…いいぜ」

「…!約束ですよ!!じゃあ失礼します!」


返事は待たなかった。後ろからおい、と呼び止める声が聞こえたけれどそのまま逃げるように改札を通ってホームへ行き停車していた電車に飛び乗る。

顔が燃えるように熱い。これはきっとお酒のせいでも走ったせいでもない、天国さんのせいだ。だってあんなに優しい顔をするのだから。

電車に揺られながらお礼のメッセージを5回書き直して送信して、ふわふわと浮かれたまま気が付いたらわたしは自宅の玄関の扉を開けていた。帰り道の記憶はあまりない。ずっとずっと天国さんのことを考えていたから。

6月29日。今日は天国さんと初めてデートした日。そしてこの日が特別な日だったとわたしが知るのはまだ少し先の話。

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