04

忙しい忙しい忙しい…!わたしはこのところ毎日目が回りそうなほどの仕事に追われていた。なんでかって、最近少し上の先輩が一人退職してしまったから。寿退社で旦那さんの転勤にあたり引っ越すのだとか。先輩はとても幸せそうですごく羨ましかった。結婚かぁ、自分にはまるで縁のないその言葉は近年近しい友人たちからも報告をされているのにやっぱり実感はできなかった。

明日が月末ということもあっていつも以上に仕事がある。請求書の金額を間違るわけにはいかないので慎重に確認しながらの作業はなかなか捗らなかった。


「…もう定時か〜…。終わりそう?」

「……うん?…ごめん、何か言った?」

「え?いや、終わりそう?って…。ねぇ大丈夫?顔色悪いけど…」


少しだけ休憩のつもりでパソコンの画面と睨めっこしていた顔を上げて背中をぐんと伸ばしたわたしは同僚に声をかけた。いつもシャキンとしている彼女は青い顔をして少し眉間にしわを寄せている。気遣うように顔を覗き込めば弱々しい声でさっき月のものが来たのだと教えてくれた。


「あ〜…そっか…。今日はもう定時だし帰っても大丈夫だよ?わたしもう少しやっていくから、明日は手伝えるかもしれないし!」


任せて!と胸を張れば彼女は遠慮しながらも帰っていった。アレが来てしまってこの激務はわたしだったら投げ出して蹲りたくなっちゃうもん、絶対帰った方がいいよね。豪語してしまった手前今日はちょっと遅くまで頑張らなければいけない。デスクの引き出しからチョコレートを一粒取り出してわたしは再びパソコンに向き直った。




****




キーボードとマウスの音しかしないここでわたしはかつてないほどの集中力を見せていた。あれだけあった仕事はもう後少ししか残っていない。ふふん、天才かもしれない。同僚に自慢したらちょっとは褒めてもらえるだろうか。凄いね、小春!って言ってもらえるのを想像しながら未処理のファイルをクリックした。


「…まだ誰か残ってるのか?」


誰もいなかったフロアに響いたその低い声にわたしはびっくりして顔を上げた。


「あ、天国さん!お疲れ様です」

「おつかれさん。お前、もうこんな時間だぞ」

「…へ?」


時間…?と壁にかけられた時計を見れば時刻は23時になろうというところだった。今の今まで気にしていなかったけれど終電だとか、明日も朝から仕事なのだとか、申請せずに残ってしまっただとか、いろんなことが一瞬で頭を駆け巡って情けない声を上げて飛び上がった。


「す、すみません…もう帰りますので!」

「おう、もう遅いからな。…あぁ、荷物まとめてちょっと表で待ってろ」

「…は、はい!…ん…?」


それだけ言うと天国さんはどこかへ消えていく。待ってろって、表へ出ろってこと?残業してしまったこと怒られちゃうのかな…。でもこの分なら明日は同僚がお休みしても大丈夫そうだし、解雇さえされなければちょっと怒られたっていいか…。いや、良くはないんだけど。

天国さんが先に行ってしまってはいけないのでデスクを片して荷物をまとめたわたしは急いで外に出て言われた通り天国さんを待つ。まだ天国さんの姿は見えなかったので同僚に明日は休んじゃっても大丈夫だと一言メッセージを送っておいた。

数分後、こちらに近づく足音が聞こえたので顔を上げると天国さんの姿があった。少し煙草の匂いがしたので吸ってきたのだろう。これから怒られるのだろうな、長引かないといいな…。終電まであと30分くらいだし…。


「お疲れ様です」

「待たせたな」

「いえ、大丈夫です!」


この時間といえど表の通りは多少の人目がある。ここで叱られるのはちょっとばかり恥ずかしいけれどみんな急いで帰路についているところだろうし気にしないでもらいたい。そんな思考もつゆ知らず、天国さんはこっちだ、とわたしを誘導して歩き出した。連れて行かれた先はビルの裏側。暗い駐車場にたどり着くと自動的にセンサーで明かりが灯ったものの薄暗い雰囲気は少し不気味だった。それでも表でそのまま叱られるよりはマシか、と前を行く天国さんの様子を伺ってもその背中はずんずん進んでいくだけだ。


「…あの、」


小さく声をかけても聞こえているのかいないのか、立ち止まる気配はない。そして一台の車が近づくとポケットから取り出した鍵でロックを解除した。


「…天国さん?」

「乗れよ。送ってやるから」

「えっ、あ、はい…!」


言われたままそっと助手席の扉をあけて覗き込むとちょっと煙草くせぇかもしれねぇが、と中へ促される。座ってシートベルトを着用すれば天国さんは手慣れた様子で車を発進させた。


「いいんですか…?」

「いいから。家はどっちだ?」

「××区です。××駅が最寄りなんですが…」

「じゃあこっちだな。道案内頼むわ」

「はい!………あの、でもどうして…?」


怒られるものと思っていたのに天国さんにその気配はまるでないし、それどころか今わたし、あ、天国さんの車に乗ってる…?!夜の街明かりに照らされた天国さんの横顔を直視することはできず、まっすぐ前を見て顔に動揺が出ないようにカバンの端っこをぎゅっと握りしめる。スピードは出ているのに止まるときはスムーズで揺れたりせず、とても心地よい運転にスマートな大人の男性をもろに感じてしまってドキドキがとまらなかった。


「最近忙しかったろ?一人辞めてから後が入ってなかったからな。遅くまで働かせちまって悪かったな」

「全然大丈夫です!わ、わたし怒られるんじゃなかったんですか…?」

「なんで怒るんだよ、お前変な奴だな」


ぱっと顔を上げれば笑う横顔が目に入った。頑張ってる奴は嫌いじゃないぜ、と言われたのをあまりにも自分の好都合に解釈しそうになって緩みそうな顔をきゅっと引き締める。いつもこんな時間なのかと聞かれたのできちんと早く帰っていること、今日は同僚の調子が悪かったのでなるべく負担にならないように残ったのだと伝えた。


「…頑張るのもいいけどな、あんま無理すんじゃねぇぞ」


優しい声色に目を向ければ、信号で停止したからか、視線が交わった。明かりで物理的に輝いていたのか、わたしのフィルターがかかっていたのかはわからないけれど天国さんの顔がキラキラとしていて顔が熱くなるのを実感する。見とれていたのはどれくらいの時間だったのか、不意に天国さんの手が動く。その手は不自然に宙を動いたが、信号が変わり前の車が発進するとハンドルへと戻された。その手の先には煙草があったのかもしれない、吸っても大丈夫だと言えばよかったと少し後悔した。

それから道案内をしつつ天国さんはゆったりと話をしてくれた。カッコいい車ですね、と言えばお気に入りだったのか少し饒舌にわたしにはわからない単語をいくつか並べていた。それでも楽しそうに話す天国さんを見られたので満足だ。でも次は車のことも勉強しておかないと、と脳に刻みつけた。


「送っていただいてありがとうございました!」

「構わねぇよ。じゃあしっかり休めよ、おやすみ」

「…は、はい!お気をつけて。…おやすみなさい!」




****




家に入るなりうるさく鳴る心臓の鼓動を抑えて玄関で崩れ落ちる。あ、天国さんに送って貰ってしまった…助手席に座ってしまった、お話もたくさんして…キャパオーバーの脳でなんとかパンプスを脱ぎ捨てて立ち上がる。キッチンで水を一気飲みして携帯を確認すれば同僚からメッセージの返信が届いていた。


”こんな時間まで残ってたの?ホントゴメンね!今度何かお礼させて!”


お礼なんかいらない。だって彼女のおかげで夢のような時間を過ごせたのだから。
”やばい”
”あまぐにさんにおくってもらっちゃっ”
”天国さん”
”車で”
”ねぇどうしよう”

連投に返事はない。もう寝てしまったのかも。ともかく、もう日付が変わる時間なので早々にお風呂に入って眠らなければ。シャワーを浴びながらも布団に入ってからも、さっきの優しい顔がちらついてちっとも眠気はこなかった。




****




『…頑張るのもいいけどな、あんま無理すんじゃねぇぞ』


そう伝えた後、そちらへ目を向ければ目線が絡み合った。暗がりでもわかるほどに紅色に染まった頬、明かりに照らされた瞳はキラキラと輝いてこちらを見上げている。無意識にその頬に手が伸びそうになって僅かな理性で押しとどめた。不自然な手はちょうど信号が変わったので多少のぎこちなさを残したが戻すことができて助かった。送り届けてから一人、自宅に向けて車を走らせながらもさっきの顔を思い出して仕方がない。


「…なんつー顔してんだ…」


あいつも、俺も。窓に映った自分の顔に思わず言葉が溢れる。いい歳をして情けない。ただ仕事を頑張っていた受付嬢を、遅くに一人帰すのは忍びなくて送り届けただけだというのに。かわいいだとか、触れてみたいだとか、あの一瞬で湧き上がった感情の名前がわからないほど鈍感ではない。ため息を吐き出してジャケットのポケットからタバコを取り出し、心を落ち着かせるように肺いっぱいに煙を吸い込んだ。

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