「散歩に行こう。」午前四時、彼は唐突に、或いは前々から頃合いを見計っていたかのように、うっそりと呟いた。

俺達の生活するアパートは線路沿いに位置していて、人間を乗せた鉄の塊が行き来する音がそれはもうよく聞こえる。ごうごうと、それは錆びた鉄が擦れる音だったり、湿った空気を貫く音だったりするのだけど、もちろんこんな時間になってしまえばもうそんな音は聞こえない。今耳に届くのは、時折喚くカラスの鳴き声と、彼が紡ぐ不安定な鼻歌だけ。
かしゃ、と足を掛けて彼は徐にフェンスを登り出した。その先にあるのは砂利と雑草とレールだけだ。彼の脈絡の無い行動は今に始まった事では無いので、仕方無いなと嘆息し俺も彼のナイキを追った。
「なんかさあ」レールの隙間に生える雑草をぶちぶちと引っこ抜きながら、ふざけた作り声で彼は言う。「世界に二人だけみたい。」にやんと瞳を三日月形にゆがめてこちらを見上げる。薄ら白んで来た空は朝なのか夕方なのか曖昧で、もし今が朝でないとしたらと考えると確かに非現実的な感覚がした。しかし今は紛れもなく明朝であり、あと数時間もすればまたここにはごうごうと煩い鉄塊が走り出す。現実は二人きりなどでは無い。ころりと寝そべって尚雑草をむしる彼に呆れて、危ないから起きろと声を掛けて手を伸ばした。
「わ、」
起き上がるどころか逆に引っ張られて、自分までレールに転がってしまう。「今は危なくなんかないよ。」ふふふ、なんて笑っていやがるものだから、彼の上に覆い被さって睨み付けてみる。それでも全く怯む様子なんか無くて、首に手を掛けられて気付いたら唇が重なっていた。
「ん、ふ……は、」
そのままぎゅうと抱き締められて、密着する形になる。手を離されてからもそこから退く気が失せてしまって、しばらく彼の上で目を瞑っていた。
「重いよ。」
「あ?うるせえな。」
さらさらの黒髪からは、濃密な夜のにおいがした。既に空は水色の中に赤を反射させて、一日の始まりを知らせているというのに。
「すこし、お昼寝しよう。」
お昼寝って、今は朝だろ。そんな下らない突っ込みを口にする気力も無く、とろとろと脳を満たす眠気に食われてゆく。頭の片隅に浮かぶのは、殺風景に片付けられたアパートと、先月から電波を止められている携帯電話、残金六万円の銀行口座。六万円あったら、それなりにいいものが食えるだろう。
「すこしだけだからな。」

目が覚めたら、アパートに戻って食パンでも焼こう。日が暮れるまでは適当にセックスでもして過ごして、腹が空いたらとびきり美味いものを食いに行こうか。焼肉でも回らない寿司でもなんでもいいけど、いかにもキラキラした女子大生が入るような甘いケーキとかが並んだ店は止めてほしい。過去に何度か無理矢理同行させられた記憶がある。無論こいつに。
でも、そんな日もいいけど今こいつと一緒に朝から昼寝するのも悪くないななんて、思ったりもする。如何せん今俺は寝不足だ。少しくらい寝過ごしても文句を言わないで欲しい。ごろりと身を返して目に映った空は、燃えるような赤で夕暮れのよう。二人きり”みたい”なんかでは無く、今この瞬間だけは確かに世界に二人きりなんだ。目を閉じても燃える光が瞼に焼き付いて離れなくて、彼の真黒い髪に顔を埋めた。朝が嫌いな自分が彼に恋をした理由がたった今分かったような気がした。
後悔ばかりの人生でした


 
2012/08/18

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