そんな簡単なことじゃない

昔は「Is this a pen?」くらいなものだったのに。
目の前の彼女はそうブツブツと文句を言いながらシャーペンをコロンとノートの上に投げ捨てた。
綺麗に転がっていくこともなく、いびつな形のせいですぐに動きを止めたそれは少し悲しそうであった。
捨てた彼女は背後にあったベッドによじ登り、うつ伏せに横たわってはパタパタと足を動かしている。ひらひらと浮いたり落ちたりするスカートの布地に色気なんて微塵も感じない。

「頼子さん、スカート」

「うっせぇ見んなヴァーカ」

見てないです、と返し、ちゃっかりVの発音を使いつつ罵倒してきた彼女のノートをペラリと捲る。彼女の言葉通り英語だ。世界中で使われて、これが使えないと仲間外れ、なんて大人げない言語がずらりと並んでいる。正直俺も見たくはない。日本から出る気はないし、どこかのおのぼりの外国人の言う「漢字って形がCoolだよね」という言葉を全力で肯定する人間だから。でも逃げていてはいけない。俺たちが赤点と呼ばれる地獄を回避するためにはこいつと向き合わねばいけないのだ。

「つか、俺のベッドですよ。勝手に寝ないでください」

「へーへー、いつからそんな心が狭くなったんですかねー敬治くんはー」

それでも彼女はベッドから降りない。赤点がよっぽど好きと見える。
俺は彼女から目線をずらして自分の手元の参考書に持って行った。こっちも英語だ。さっさと範囲を終わらせて古典でも漢文でも現代文にでも行きたい。俺は嫌いなおかずから先に食べる派だった。

「けーじー」

「はい」

お前は真面目だなー、なんて間の抜けた声が聞こえてくる。
アンタが不真面目なんですよ、と返すと盛大に笑われた。

「そりゃそーだ」

何で笑ってんですか、馬鹿にされてんですよ。その一言はでなかった。
頼子さんは、二つ上の近所に住んでるお姉さん、簡単に言うと幼馴染というやつだ。
幼稚園、小学校、中学校と同じ学校に通い続け、今までのやりとりからも少しわかるような、その少し自分勝手というか自由気ままというか、そんな性格のフォローをしてきた。おばさんから「頼子をよろしくね」なんて言われた時から、生来真面目だった俺には妙な責任感が芽生えてしまったようだ。見捨ててしまえばいい、どうせ他人だ。そんな状況でもいつの間にか俺は頼子さんのそばにいた。幼稚園では一緒に遊んで、小学校では同じクラブに入って、中学でも男女は違ったが同じ部活だった。いや、男女違っても頼子さんは俺が入ってからほぼ男子の部に入り浸っていた。先輩に申し訳ない。
そこまでくればもう必然だろう。高校まで頼子さんを追って来てしまった俺は、絶賛後悔中である。どうしてここに決めてしまったのか。他にも選択肢はいくらでもあったのに。

「お前は真面目だなー」

もう一度、同じ声が聞こえてくる。はいはい、もう聞きました。馴れた口はそう返してぱくんと閉じた。
頼子さんはまだ俺のベッドの上にいる。

「お前、大学とかどうすんの」

俺まだ一年ですよ頼子さん。
苦笑する俺。そういえば頼子さんから進路の話が出るのは初めてだ。俺が毎回頼子さんの進路を聞くのはおばさんの口からで、頼子さんが俺の進路を知るのは入学式だったから。

「決めてるわけないじゃないですか。頼子さんこそですよ」

どうするんですか。
聞くと、その口から出たのは家からいちばん近いそこそこの私立だった。平々凡々、今の頼子さんでもまぁ無理のない学力の所。このまま真面目に勉強していけば、多分俺には余裕すぎる所。

「へぇ」

俺はたったそれだけ言って、口を閉じる。
多分大学まで一緒になることはないだろう。もう少し遠くなら、国立の大学がある。俺の目標はきっとそこになるだろう。だから、ここでお別れ。
頼子さんは三年生だ。じゃあ、今年でお別れだ。

「とにかく今は勉強してください」

無駄な思考を頭から蹴り飛ばそうとする。
abcdefghijklmnopqrstuvwxyz
たったこれだけで出来てる文字列とにらめっこを再開する。
頼子さんより優先する。それほど価値があるのかは、さておいて。価値のあるなしを語るならば答えはNOだろう。こんなものに価値があるとは到底思えない。日本は閉鎖された国であるべきだ、なんて、昔から今でも中学生の餓鬼みたいにそう思っている。
だが俺は今これに向き合わなければいけない。
それが、彼女から逃避する唯一の方法だからだ。
そしてそれは、たとえば空を掴むように、全く意味のないことだ。

「敬治」

「…………はい」

話しかければ無視なんてできない。持っていた教科書は彼女に寄って放られ、ばさりと部屋の片隅に哀れな姿で着地した。あれは折れたな。あんまりそういったことは歓迎できないのだけれど。

「言いたいこと、あんだろ」

距離が近い。精々10センチほどの距離に頼子さんの顔がある。
熱がじんわり空気を伝う、吐息が唇にあたる、何回も見ているはずなのに睫毛の長さに今更気づく。まるで胸蔵を掴まれているみたいに、目が離せない。

「はい」

本当は言いたいことなんてなかった。少なくとも今抱えている理性的な頭には、言いたいことなんて欠片もなかった。嫌、嘘だ。言いたい小言ならいくつか確かにある、だがそんな、真剣な目で問い詰められて告白するようなことには全く覚えがない。
自分がわからなかった、はいと答え、頷き、表情筋を動かしてふんわりと笑う自分が、自分が知っている自分だとは思えなかった。我ながらわからないことを言っている、だがそれがありのままだ。どうしてこんな、自分のことですらままならないのか。

「言ってみなよ」

口を押えた。余計なことは言わないに限る、言いたいことがあると言った手前あれな対応だが、俺はもうそうしてしまったのだ。
顔を顰める頼子さんは知らない、非難してくる目を見つめ返しながら、俺は掌越しに呟く




「そんな簡単なことじゃない」

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