仗助がななこを連れ帰ってから数日が経った。
当然のことながら、あれ以来彼女の顔は見ていない。
彼女の家も仕事先も知らない僕は、謝罪のメールを打っては消し、電話番号を眺めては携帯を閉じ…と、なんとも女々しい毎日を送っている。
メール一本で呼びつけて、いいようにしていた罰だろうか。もっときちんと向き合っていたら、彼女に会う方法は他にもあっただろうに。
謝って許してもらえるとは思えない。
けれど、このまま途切れてしまったら、この感情は解けない呪いのようにぼくを蝕み続けるだろう。
窓の外を眺めては、何度目かもわからない溜息を吐いた。
『話があるんだ。会ってくれないか。』
ようやくその一言をメールで送ったのは、それからさらに数日後だった。
送ってからは気になって何も手に付かず、手持ち無沙汰にうろうろと部屋を歩き回るしかなかった。
プルルルル、と携帯の呼び出し音が鳴ったので画面を確認すると、僕が望んだ名前が表示されている。慌てて出ると、聞こえてきた声はぼくが望んだもの。
『もしもし。…先生。』
『…この間は、すまなかった。』
本当は顔を見てきちんと謝りたかった。
けれどこの際仕方ない。真っ先に伝えないといけないことだから。
『いえ。あの、話ってなんですか…』
いえってなんだ。それで終わりなのか。
電話口の彼女はいつも通りで拍子抜けする。ひどいと罵倒されて泣かれて謝って…、そうなって欲しいわけでもないが、あまりにあっさりしすぎて逆に不安になる。
『会って話したいんだ。うちに来られないか。』
『いえ…あの、おうちはちょっと…』
彼女の返答に不安はさらに膨らむ。彼女はただ思い出したくないだけじゃないのか。また手酷く扱われるとぼくに怯えているだけかもしれない。
彼女に嫌われることが怖い。今さら自分の気持ちに気付いたって、もうどうしようもないというのに。
『じゃあ、ドゥ・マゴまで来てくれるか。』
『わかりました。荷物、持ってきてくださいね。』
荷物と言われて、そういえばと思い出す。
返すという口実で、もっと早くに会えたんじゃないかと一人溜息をつく。
彼女に会ったらヘブンズドアーでなかったことにしてしまいたい。
反則だとわかっているが、もう一度出会いからやり直して、きちんと恋人になりたい。
そんなことを考えつつ、待ち合わせ場所に向かう。店に着いてみれば、彼女はテラス席で既にコーヒーを飲んでいる。
連れがいる旨を店員に伝え、彼女の席に向かう。邪魔されても面倒なのでコーヒーを注文しておいた。
「ななこ。」
「あ、露伴先生…こんにちは。」
声をかけると、いつもと何ら変わらない調子の挨拶が返ってきた。
「これ、荷物。…この間は本当にすまなかった…」
「ありがとうございます。」
服とカバンの入った紙袋を渡す。一週間も財布がなくて彼女は困らなかったのだろうか。
謝って荷物を渡してしまえばもう用事はないわけで。ここで彼女と離れてしまえば、もうぼく達の縁は切れてしまう。
「…ななこ、」
「…なんですか、先生。」
コーヒーカップを傾けながら、ななこが僕を見つめる。外で彼女に会うのは、そういえば初めてかもしれない。
「いや…外で会うのは、なんだか新鮮だと思ってね。」
話すことが思い浮かばない。
別れてしまえばもう会えないと焦燥感が胸を焦がしていくけれど、何を話せば君はまた僕のところに来てくれるのか。
「そういえば、そうですね。」
私はよくここでお茶を飲む先生を見かけてましたけど…、とななこは続ける。
確かに僕はドゥ・マゴが好きで、よく一人で利用する。
そういえば最初に会った時から彼女は僕を知っていた。てっきり漫画のファンなのかと思っていたが、違ったのか?
あまりに彼女を知らなすぎて、溜息が出てしまう。それで好きだなんて、一体僕はどうしてしまったのか。
「なぁ、ななこ。」
「はい。」
席を立って、ななこに近付く。
彼女の持っているコーヒーが少しだけ波立つ。平静を装っているが、君はぼくが怖いのか。
「ヘブンズドアー!」
彼女の、ページが捲れる。
持ち主が力を失ったことでコーヒーの波は大きくなり、彼女の服に掛かる。
「…急がないとな。」
『岸辺露伴を好きになる』
そう一言書いてしまえればどれほど楽なのか。
しかし彼女を思い通りにしてもリアリティがない。そんなんじゃあぼくは満足できない。
だったらせめて、あの出来事を消させてくれ。お願いだから。
パラパラとページをめくるが、目的の箇所は見つからない。
外でこんなことをしていて、誰かに見つかっても困る。焦りながら視線を流していくと、ふとあのクソッタレの名前が目に飛び込んできた。
『仗助くんが来てくれた。』
『仗助くんの手は、すごく優しい。』
そのページには何度も何度もその名前が記されていて、消してやりたい衝動に駆られる。
そんなことをしてぼくが彼女に何かしたと気付かれても面倒だ。
『偶然、東方仗助に会えなくなる。』
そう書き込んだ所で、後ろから声を掛けられた。慌てて彼女を閉じる。
「あの、…お客様、大丈夫ですか?」
「え?…あぁ、大丈夫だ。すまない。」
注文したコーヒーを持ってきた店員が、彼女が持っていたコーヒーが零れて、机から滴っているのに気づいたらしい。
布巾を受け取り、手早く片付ける。
意識を取り戻したななこが目を開ける。
状況がわからず、オロオロと店員に謝っている。急に気絶して零したとでも思っているのか。
「スミマセン先生、私…なんか急に…」
零したコーヒーの代わりを注文して、店員を席から追い払った。
目的のページは見つからなかったが、これで彼女はクソッタレには会えなくなるはずだ。
「いや、構わないぜ。…貧血でも起こしたか?もう少し休んで行った方がいい。」
体良く彼女を引き止め、とりあえず一安心する。何度も彼女を本にしたら怪しまれてしまうだろうか。
「…そういえば…ぼくの家じゃダメだった理由は?」
「…一人暮らしの家に好きでもない人を呼ぶなって言われたので。…露伴先生も、と思って。」
彼女は悲しげに瞳を伏せた。
その話じゃあまるでぼくが君を好きじゃないみたいじゃないか。
「だったら、君は…ぼくの家に来ていいんだ。」
これで、これだけで伝わるだろうか。
君が好きだと。
「それ、本当ですか…?」
ひどく戸惑った様子のななこ。当たり前と言えばそうだろう。今までの扱いからはどうやっても好意なんて読み取れない。
「あぁ。ぼくは…君のことが…」
言ってしまおう、好きだと。
「お待たせいたしました。コーヒーでございます。」
決意はコーヒーを運んできた店員にあっさりと邪魔される。お前少しは空気読め。
いや、コーヒーが届くのを忘れていたぼくが悪いのか。
「…あ、ありがとうございます。」
彼女は新しいコーヒーにミルクと砂糖を入れて、何かを考えるようにコップを見つめて、無心にくるくると掻き混ぜている。
ぼくの言葉の意味は、その砂糖みたいに君にきちんと溶けたのか?
「…なぁ、今度取材に付き合ってくれないか。カップルでないと入りにくい場所に行きたいんだ。」
もう改めて好きだとも言えない雰囲気に、話題を変える。
遠回しではあるが、暗にデートに誘ったつもりだ。今までしてこなかった、君が楽しめることを少しでも一緒にしたい。
「…いいですよ。」
彼女の返事にホッとする。
告白は今度改めてしようと、ぼくは心に誓った。
「ありがとう。じゃあまた連絡する。君の都合のいい時にしよう。」
そう言うと彼女は驚いたように目をぱちぱちとさせた。ぼくは何か変なことを言っただろうか。
「…せんせ、私そろそろ帰ります。」
「あぁ。…ここはぼくが払うよ。」
コーヒーを飲み終えた彼女は、ぼくが持ってきた荷物からごそごそと財布を取り出した。
軽く制して伝票を握る。
「…すみません、ごちそうさまです。…それじゃあ、さよなら。」
ぺこりと頭を下げ、ななこは帰っていった。
ぼくは湯気の立たなくなったコーヒーを片手に、彼女を見送る。
結局ヘブンズドアーは上手く使えなかったが、クソッタレ仗助の邪魔は入らないだろう。あとは彼女を振り向かせるだけだ。
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bkm