梅雨って奴は好きじゃあない。服は濡れるしバスは混むし、湿気で髪がうねるし、傘は邪魔。何よりこの重苦しく落ちてきそうな灰色の空が苦手だ。このまっくろで重々しい景色が真っ青な空に浮かぶ白くて可愛らしい雲とおんなじなんていまだに信じられない。
「あっ、……降ります!」
湿った嫌な空気に声を上げ、人を掻き分けて降りたバス停。ぼんやりして乗り過ごすところだった、と一息ついては見たものの、傘を置いてきてしまったことに気付いた。通り過ぎるバスの排気を眺めたところで傘が戻るはずもなく、溜息と共に見上げた空は相変わらずの雨。
「……サイアク、」
ほんと、最悪だ。この雨が止むまで、なんて悠長なことを言ったらきっとこの薄暗い空が真っ暗になってしまう。いくら日が長いとはいえ、この梅雨空の曇天が晴れるとは思えない。折角バスに乗ったのに、これじゃあなんの意味もないじゃあないの。
諦めて濡れようか、ともうひとつ溜息を零したところで不意に名前を呼ばれた気がした。雨音の隙間に視線を向けると、白と黒のコントラスト。
「……承太郎さん、」
「……どうした、こんな所で」
見慣れた彼の服はこんな雨の中でも晴天の雲のように白いけれど、彼の大きな身体が隠れるほどの大きな黒い傘を差す姿はなんだか少しばかり不釣り合いだなと思う。こんな所で偶然会えたのはとても嬉しいけれど、傘をバスに忘れてきたなんて間抜けな所を見られてしまったのは恥ずかしい。
「承太郎さんこそ、珍しいですね。傘なんて」
赤いであろう頬を誤魔化すみたいにそう言えば、承太郎さんは「やれやれだ」とでも言いたげな吐息をひとつ。
「そりゃあ傘くらい差すだろう、雨なんだから」
至極真っ当な台詞を呆れたように吐き出した承太郎さんは、「お前の傘はどうした」と、私の手元に訝しげな視線を向けた。
「バスに忘れてしまって……」
苦笑しながらそう返せば、彼は無言で私に傘を差しかける。言葉にならない戸惑いを唇から零せば、承太郎さんはそれを受け「……送ってやる」と言った。
「……すみません、ありがとうございます」
渡りに船、いや、災い転じて福となす、ってやつ? なんてうるさい心臓から目を逸らしながら考える。
承太郎さんの大きな傘は、その持ち主のせいで私の頭からは大分と高いところにあった。
傘に入れてもらったお陰で随分と近いところに彼の腕があり、恥ずかしさに歩を引けば、骨から滴る水滴が私の頭に落っこちる。
「……しっかり入れ」
抱き寄せられこそしなかったものの、承太郎さんがぐい、とこちらに近付いたもんだから、心臓が口から飛び出すほど跳ねた。
「……ッ、はい……」
さっきまで悪態を吐いていたはずなのに、今はこの空に感謝しているだなんて、馬鹿みたいだと笑われるだろうか(誰にだよって話だけれども)。
承太郎さんは特に何も話さず、私に合わせてゆっくりと足を動かす。私はと言えば、彼の白いズボンに泥が跳ねたら困るし、かと言ってわざわざゆっくり歩いてくれている承太郎さんをさらに遅らせる訳にもいかず、歩くのに必死で会話をする余裕なんてない。視線を上げて彼の顔を間近で見たい気持ちもあるけれど、なんというかいろんなことが起こりすぎていて、足元に気を配るので精一杯だった。
「……大丈夫か、」
「あっ、はい! 大丈夫で、す……ッぅわ!?」
声を掛けられて意識がそちらに向いた瞬間、足元にびちゃ、と嫌な感触。水溜りの真ん中に、見事に足を突っ込んでしまった。
「……ッ、ごめんなさい! 承太郎さんの服が……!」
「……おれの服は構わないが、……」
承太郎さんはそこまで言うと口を噤む。訝しげに視線を上げれば、彼は肩を震わせて笑って……笑っ……!?
「えっ、な、……なんで!?」
もうなんか色々処理しきれなくてパニックになる私を見て、承太郎さんは更に笑いを零す。
「な、んで、笑うんですか……」
「……いや、……見事すぎるだろ……」
何が面白かったのか尚も肩を震わせる承太郎さん。噛み殺すような笑いが雨音に混じる。
「……失礼すぎやしませんかね、」
「……すまない」
ひとしきり笑った承太郎さんはまたいつもの仏頂面に戻って、「大丈夫か」と言った。
「……大丈夫じゃないです」
心臓はうるさいし足元は気持ち悪いし、承太郎さんの笑うとことか初めて見たし、なんなら相合傘だって初めてだし、もうなんか色々と大丈夫じゃあない。
「……まったく……ほら、水溜りだ」
ぐい、と腕を引かれ、思わずその大きな体躯にぶつかる。すみません、と声を上げようとしたけれど、心臓が飛び出しそうだからやめておいた。
梅雨ってやつは好きじゃあないと思っていたけどこんな嬉しいことがあるなら悪くないかもしれない、なんてこの曇天に感謝してしまうんだから、私ってばなんてゲンキンなヤツなんだろう。
20190722
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