きっと同じ洗剤だったのだろう。
あの部屋にあった洗剤を思い出せば、確か今うちの棚にあるものと同じ色だった気がする。
タバコの匂いに晒されたセーターが、彼と同じ匂いを纏っていた。
ひとり暇を持て余した喫茶店でテーブルに突っ伏したところで、私は彼を思い出した。
そんな馬鹿なこと、と思ったけれど、匂いと記憶は結びつくという話を思い出してあぁそうか、とひとり納得する。
携帯電話を取り出して開くと充電はほとんどなくて、私は電話にすべきかメールにすべきかしばし逡巡した。
論文で忙しいから暫く会えない、そう言われたのはいつだっただろうか。
「会いたいです…承太郎さん…。」
小さく唇だけで呟きながら、同じ言葉を文字に起こす。そうして送信ボタンを押すべきか悩んでいると、不意に申し訳なさそうな声が降ってきた。
「お客様、ラストオーダーの時間なんですが…」
「あ、はい…大丈夫です。」
ガバリと顔を上げてそう返して、再び画面に目をやれば「送信済み」の文字が浮かんでいた。送ってしまったことに安堵と戸惑いを感じながら、私は携帯を閉じて帰り支度を始めた。
*****
車に乗り込んだところで、ダッシュボードに置いた携帯が光る。慌てて画面を開けば、空条博士の文字が目に飛び込んできた。
エンジンを掛けることも忘れて、文面に目を通す。
「くるか」
たった三文字なのに、心が躍る。
彼の大きい手には昨今の小型化された携帯は扱いにくいらしく、いつも平仮名ばかりのメールを見るたびにらしくないなと笑えてしまう。
行きます、と返そうと返信画面にしたところで携帯の充電が切れてしまい、私は携帯をパカパカと閉じたり開いたりしながらしばし考えて、彼の部屋に向かうことに決めた。
*****
「承太郎さん」
トントン、と部屋をノックすると暫くして扉が開いた。部屋の主は驚いたように私を見て、返事がないから来ないかと思った、と呟いた。
「…携帯の充電が、切れてしまって。」
そう言うと彼はベッドサイドから充電器を取ってきてくれた。ありがたく受け取ったけれど、こんな時間に電話もメールも来ないから特段充電の必要はない。
「…ななこも、コーヒーでいいか。」
「…お構いなく。」
さっきまで飲んでいたコーヒーをまたここで飲むのもなぁと思ったのだけれど、彼は私の返事を聞いてもなお、ポットのスイッチを入れた。多分自分で飲みたいのだろう。
「お疲れのところすみません。」
「いや、ちょうど一段落したところだ。それに俺も…」
その先に言葉はなかった。
『逢いたかった』と続くと思っていいんだろうか。大切な言葉は全部曖昧にぼかしてしまうのだから、この人はズルい。
「逢いたかった、承太郎さん…」
そうして続くであろう言葉を言ってしまう私も、ダメなんだと思うけれど。
彼はいつもの台詞を吐かずに、私の頭をぽんぽんと撫でた。それだけでやっぱり彼も逢いたいと思ってくれていたんだと安堵してそっと見上げると、柔らかく光る翠の瞳に私が映っていた。
「…すまなかったな。」
そう言われて泣きそうになってしまう。承太郎さんは優しいから、私を拒んだりしないのだ。幾分疲れた顔をした彼に、ぎゅうと抱き着く。
「…謝るのは私の方です。」
彼が拒まないのをいいことに、いつも甘えている。仗助くんが「言いにくいんスけど…その…承太郎さんには奥さんいるっスから…」と、ひどく躊躇いを含んだ声で教えてくれたのはしばらく前の、まだ私が承太郎さんを見つめていただけの頃。それが仗助くんの優しさで、何も言わないのはきっと承太郎さんの優しさ。
「…どうして。」
「ワガママが言いたいわけじゃあないんです。…けど、結局いつも私、ワガママだから…」
結局、彼らの優しさを踏みつけにしているのは私だ。承太郎さんは未だに、私が彼の家族の存在を知らないと思っているのだろう。
それかきっと、ただ兄のように、もしくは尊敬すべき研究者として慕っているのだと思っているのか。私はこんなにも胸を焦がしているというのに。
「…そんなことはないだろう。ひどい顔をしている。」
何かあったのか、と子供にするように問われた。タバコを吸ったら貴方を思い出しました、なんて言えずに瞳を伏せると、「言いたくないなら構わない」と大きな手が私を宥めるように撫でた。
「…承太郎さん…」
私がこんな顔をしているのは、貴方のせいです。そう言って私の胸の内を吐露できたらどんなにか楽だろう。けれどそれは、仗助くんの言葉を聞いてしまったからできなくて。
いっそ知らなければよかったと思うけれど、彼を恨む気にはなれなかった。彼は素直に私を慕ってくれているだけだ。
ぐるぐる考えているとポットが鳴り、お湯が沸いたと知らせる。
「…座って待ってろ。」
承太郎さんは私の腕を離すと、コーヒーを入れに向かった。私はベッドに腰掛ける。
承太郎さんが眠っているベッドは、万人に向けられたもの。わかってはいるけれど私はこれを承太郎さんのものだと思いたい。できるなら共に沈みたいとさえ思う。
「…ありがとうございます。」
「少しは落ち着くだろう。」
彼はいつもの通り、椅子に腰掛ける。そうしてひと口飲んだコーヒーをサイドテーブルに置くのだ。その所作は絵画のように美しい。
「…少しだけ、隣にいてくれませんか。」
「…やれやれだ。」
彼は私がいつもそう言うのを分かっているのに、必ず椅子に座る。そうして仕方ないといった風に、ベッドに掛ける私の隣に腰を下ろす。
承太郎さんの座った右隣が沈み込み、その傾きに従うようにして私は彼に身体を預ける。大きな手で包まれるように肩を抱かれると、いつも泣いてしまいそうになる。好きです、と。
「…承太郎さん。」
「…言って楽になるなら、聞いてやる。」
何もかも見透かしたような瞳が、私を見ている。伝えても、いいんだろうか。
伝えたら、彼は二度と私に会ってくれなくなるんじゃあないかと思うと、怖かった。
「…ううん、…大丈夫です…」
ゆっくりと首を振ると、彼は小さく溜息を吐いて私を抱く手に力を込めた。
肩に当てられた承太郎さんの大きな手に、自分の手を重ねる。この手は、私のためにあるわけではないけれど、今、少しだけ。
懺悔するような気持ちになる。好きになってしまってごめんなさい、と。
「…ななこ、泣くな…」
そう言われて、自分が泣いていることに気付いた。承太郎さんは反対側の手で私の涙を拭ってくれた。蓮の葉の上の朝露を集める子供のように、そっと。
「…承太郎さん、承、太郎さん…っ…」
大好きもごめんなさいも言えないから名前を呼ぶことしかできない。けれど名前を呼ぶたびに苦しくて、苦しくて。
「…ななこ。」
そっと何度も頭を撫でてくれる承太郎さんの手は、勘違いしてしまいそうなくらい優しくて。
どうしていいかわからずに泣きながら何度も彼の名前を呼んだ。
20151208
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