5


大陸北の荒野の果てに、魔王城はあった。
陽光に照らされてもどんよりとした印象を残す黒壁の城は、最上階に玉座を構えている。玉座は細やかな装飾を施された黒い椅子で、クッション部分は鮮やかな緋色だった。
そこで傲慢に足を組むのは、血のように赤い長い髪と瞳を持った痩躯の男―――魔王である。
体を傾け頬杖をつき、細長い指で整った顔を支えている様子は、若い娘が思わずため息をついてしまいそうなほど。魔王はドラゴンである。しかし禍々しい巨大な魔物の姿をとることは殆どなく、普段はこの美男の姿でいた。


「魔王様」


玉座の間の扉が開かれ、退屈そうにしていた魔王がふと顔を上げた。
魔王の前まで歩いてきたのは、仮面を被った白いマントの魔術師だった。仮面にはにやにやと笑う不気味な表情が刻まれていたが、その下から聞こえる声は真面目で落ち着いたものだった。


「先ほどウィアウルフの塔から連絡が入りました」
「ウィア……何処の塔だ?」
「獣人族の棲む東の森の入り口に。人質として獣人やエルフの娘を女中に使っておりました」
「ああ……。で、それがどうしたって?」
「壊滅したそうです」
「あん?」
「塔主のウィアウルフ含めほぼ全滅したそうで詳細はわかりませんが、人質も壊滅の原因となった獣人も逃がしてしまったようです」


ぴくりと魔王の片眉が上がる。白い魔術師は報告を続けた。


「塔の生き残りがその獣人を追ったそうですが、あっさり返り討ちにされたそうです。それでその生き残りが私に連絡を」
「……今は?」
「偶然その場にいたミノタウロスが名乗りを上げたので好きにしろと言ってはおきましたが、まあアレにはどうにも出来ないでしょう」


呆れるような、鼻で笑うような、冷たい笑いを含め白い魔術師は報告を終えた。
魔王は機嫌悪そうに眉間に皺を寄せ、この報告への対処を考えていた。するとそこへ扉をノックする音が響いた。
魔王が閉じていた目を開き扉の方を睨み付けると、魔王の機嫌を表すかのように乱暴な音をたてて、玉座の間の扉は開かれた。
しかし扉の向こうにいたノックの主は、恐れも焦りも見せず、ただ魔王に深々と頭を下げた。


「お忙しいなか、失礼いたします。魔王様」


直毛の、長い艶やかな黒髪が、はらはらと肩から流れて床に届きそうなほどの深い礼だった。
玉座の間の入り口で魔王に頭を下げるのは、裏地の赤い黒の衣装を着た十を過ぎたくらいの、華奢な少年だった。


「おおハインリヒ!帰ったか!」


少年の姿を見るなり、魔王は先ほどまでの不愉快を忘れたように声を弾ませた。
ハインリヒと呼ばれた少年が顔を上げる。長い睫毛で縁取られた黒目がちの瞳は真っ直ぐ魔王を見据え、形の良い薄い唇はきゅっと閉じられている。幼い年齢のわりに、表情は随分大人びている。


「ただいま戻りました。なのでご挨拶に参りましたが、邪魔をしたようで申し訳ございません」

ハインリヒはそう言って、もう一度頭を下げた。
魔王は笑顔でうんうんと頷いていたが、ふとその動きを止めてああそうだと呟いた。




小鳥の鳴き声と、朝の日差しを感じて灰色のウサギの長い耳がぴくりと動いた。
ジルは狼の腹に埋めていた顔をのっそり上げて、眠そうなルビーの瞳を二、三度まばたきした。朝日を浴びて毛並みを金色にした狼は、まだすやすやと眠っている。ジルは二匹の寝床と化した馬車の座席から飛び降り、ヒトの姿に変わって馬車の扉を開けた。


「ふふふ……。ちんたら移動しておるからこうすぐ追いつかれるのだ、ウスノロめ…」


眠たそうに目を擦りながら歩くジルの姿を、藪の中から覗く影がひとつある。筋肉逞しい巨体を藪の中へ縮こめながら、一頭のミノタウロスが勝ち誇ったように独り言を呟いていた。
しかし腕やら太腿やらに包帯が巻かれている上に、目元に青痣が残っている。前回彼と狼の男の間で何があったかは、もはや説明の必要はないだろう。


「昨日は少し油断してしまったが、今度こそもう容赦はせんぞ。その首しかと魔王様の御前に献上してくれる!しかしあのワン公、あんないい女を連れておったのか…生意気な…」


一人でブツブツ言っているミノタウロスの後ろに、いつ現れたのか黒いマントを風にはためかせる少年が立っていた。少年はしばらく黙ってミノタウロスの背中を見つめていたが、いつまでたってもミノタウロスが背後の気配に気づかないので仕方なく口を開いた。


「あのぅ」
「うおっ!?」


悲鳴と同時にミノタウロスの体が大きく跳ねた。ミノタウロスは振り返りながら後退り、体隠しに使っていた藪に擦れてガサガサと派手な音をたてた。
少年はミノタウロスを見ていた顔を上げ、ジルの姿を追った。すでに彼女はここを離れていたらしい。気づかれなかったことを確認すると、またミノタウロスへ視線を戻した。


「なっなっなんだ貴様!背中を狙うとは卑怯だぞ!」


背中に吊るしていた斧を引き抜いて少年に向けながら吠えたてるミノタウロスを、少年は冷めた目で見つめ返していた。沈黙の後、少年は胸に手を当て、膝を軽く折って挨拶した。


「わたくし魔王城にて側近見習いをしております、ハインリヒと申します。以後、お見知り置きを」
「側近見習い?」


ミノタウロスは眉根を寄せて、品定めするようにハインリヒを頭のてっぺんからブーツの先までじろじろ眺めた。
ハインリヒは艶のある黒髪を肩まで伸ばした、線の細い美少年だった。少女かと一瞬迷うほどである。『魔王の側近』という役職に就くには、少々頼りないように見える。
次に訊かれてもいないのにハインリヒが続けた説明から察するに、そのことは本人も自覚しているようだった。


「多くの知識学問を体得し、ゆくゆくは魔王を"政治面"にてサポートできるよう育成プログラムを組まれております。故に、戦闘においては足手まといになるやもしれませんが、ご了承頂けると助かります」
「ふ、ふむ……。なるほど、そうか」


ミノタウロスは斧を納め、ゴホンとひとつ咳払いをした。
向かい合う少年は少年は終始感情を見せない無表情だ。なまじ顔が整っているだけにまるで人形のようだ。


「本題に入ります。あなた様はウィアウルフの塔を壊滅させた獣人を追う任を、側近リョート様より任された方で間違いございませんか?」
「うむ。一度は取り逃がしたが、二度目は無い!」
「……もう逃がした後でしたか」
「ふふ、安心召されよ、未来の側近殿!あのような野犬、本気を出せば一発よ!」
「頼もしいお言葉で何よりです」


ハインリヒは棒読みに返事をしつつ、魔物の生態を記した図鑑の記述を思い出していた。
強力なる腕力、怪力を持つが引き換えに頭脳は人間にひどく劣る種族は、魔物な中ではそう珍しくもない。
オーク、オーガ、ゴーレム、ミノタウロス……そしてドラゴン。

ハインリヒは一度目を閉じ、ゆっくり開いた。


「……私は今回貴方の補助をするよう魔王様に仰せつかって参りました」
「魔王様がとな!?しかし戦闘は苦手だと言ったではないか」
「はい。ですから参謀にてお手伝いを、と思ったのですが……」


意味ありげにハインリヒは口を閉じ、白い指で唇をなぞった。そして不思議そうに覗き込んでくるミノタウロスを見上げ、不敵に口角を上げてみせる。


「それほど自信がおありなのでしたら、私の協力は必要なさそうですね」



浅い小川の水面に女の白い腕が伸びて水を掬った。ジルは川の水で顔を洗い、ふうと一息吐いた。
この狼との旅はいつまで続くのだろう。そもそもあの男は、何処に向かって馬車を歩かせているのだろう。追手の魔物たちは何の手下か、無事に東の森まで帰ることが出来るのだろうか―――……

毎日ジルの頭をぐるぐる回る多くの不安のタネ。狼の男への恐れは相変わらず消えないが、この旅が続く限りは頼るほかない。警戒心が緩むのは危険であろうが、頼れる男ではある。
ジルは顔を滴る水滴を腕で拭いつつ考えていた。せめて男の口が利ければ良いのにとも思うし、口が利けないからこそこちらも余計なことを言わずにいられるのかもしれないとも思った。しばし考えた末に、なんにせよ自分は従うしかないという考えに至った。兎が狼に敵うはずがない。もう馬車に戻ろうと思った。
突然、林の木々に止まっていた小鳥たちが悲鳴をあげて一斉に飛び立った。
ジルは何事かと後ろを振り返った。林の奥から、ズン、ズン、と重い足音がゆっくり近づいてくる。斧を背負った筋肉質のミノタウロスが現れた瞬間、ジルの体が強張った。


「いや待て。そう怯えるな」


ミノタウロスは制止するように片手を挙げ、首を横に振った。ジルはミノタウロスを睨みつけたまま、注意深く一歩後ずさった。しかし背後にあるのは川である。これ以上は退がれない。ジルは一瞬後ろを振り返り、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
もう一度睨み返したとき、ミノタウロスは余裕綽々といった様子で腕組みをしていた。腹立たしい態度だったが文句の付けようがない。屈強な男相手に、非力な兎に何が出来ると言うんだ。


「貴様、ウィアウルフの塔を壊滅させた獣人の女であろう?」
「あ?」
「隠したところで無駄だ。貴様があの野犬と行動を共にしていることは分かっている」
「あんた誰よ」


ジルは腰に手を当て、毅然として訊ねた。狼の女扱いされたのは不愉快だが、それよりも自分たちを追うものが目の前に現れて少しは会話が出来そうな今、それが何者なのかを知ることが先決に思えた。それに時間稼ぎが出来れば狼の男も目を覚ましてここへ来るかもしれない。
ミノタウロスは素性を聞かれると、ニヤニヤとみっともない自慢げな笑みを浮かべ、聞きたいかどうしても聞きたいかとしつこく繰り返した。ジルはこんなバカが相手なら時間稼ぎも逃げるのもそう難しくないだろうなと思った。
ミノタウロスはわざとらしく咳払いをし、親指で自分を指した。「聞いて驚け!」妙に誇らしげな話し方をするのでジルは顔をしかめた。


「我こそはかの魔王様が側近、リョート様より命を受け、不届きなる獣人の駆除を任された誇り高きミノタウロスの戦士である!」


その後ミノタウロスは名前を含め延々と自己紹介を始めたが、すでにジルは聞いていなかった。

魔王の側近の手下だと。ウィアウルフの塔を壊滅させたことがそれほど重大なことだったというのか。それとも女中として捕らえられていた獣人やエルフの娘たちを解放したせいか。もしかしたら、これより以前にあの狼の男は魔王に追われてもおかしくないような、もっととんでもないことをしていたとでも言うのだろうか。
有り得る。その可能性は何の疑問もなく頷ける。そもそもあの男とは捕虜として出会ったではないか。

いよいよ自分はとんでもない男についてきてしまったと、ジルは馬車に飛び乗ったことを後悔していた。頭を抱えるジルに、ミノタウロスはじりじりと近寄って行った。

「ま、そういうわけであの野犬の首は魔王様に献上せねばならんのだが…。どうだ、おれの女になるというのならお前だけは…」
「ちょっ…触んないでよ!!」

ミノタウロスが図々しくもジルの手を取った瞬間、ジルは反射的にその手を振り払い、ミノタウロスの股間を思い切り蹴り上げた。
ジルは青い顔で屈みこんだミノタウロスの横をすり抜け傍らに立ち、目を離さないまま距離をとった。この距離で背中を見せて逃げるのは危険であると本能的に思ったからである。


「女が欲しけりゃホルスタインでもナンパしておいで!お似合いだよ!」
「バ、バカにしおって……この……」


ミノタウロスが背中の斧に手をかけた瞬間、誰かがその腕をがしりと掴んだ。
そこでふと思った。この女はなぜ急に強気になったのだろう。足が出たのは女の自衛本能だとしても、あの挑発的な啖呵は攻撃される危険を生むだけではないか。
ミノタウロスは恐る恐る後ろを振り返った。斧を抜かせないよう腕を掴んでいるのは、当然あの狼の男である。

背中に襲いかかるとは卑怯であるぞと怒鳴るため口を開いたとき既にミノタウロスの体は宙を舞っていた。ミノタウロスの体は頭を下に、川下へ放り投げられた。
狼の男は川べりに屈みこんで顔を洗い、犬のようにプルプルと首を振ってから立ち上がった。ジルのほうを振り返ると、馬車のある方向を背中越しに親指で指し、「早く戻ろう」の意を示す。ジルは頷き、男と並んで馬車へ戻った。


獣人二人の気配が完全に消えた頃、茂みの中から黒マントの少年が姿を見せた。
ハインリヒは真っ逆さまに落ちて川面から足だけ見せているミノタウロスの姿を確認すると、そちらへ優雅にマントをはためかせながら歩いて行った。川の畔で立ち止まり、ハインリヒは両掌をミノタウロスに掲げて何やらブツブツ呪文を唱えた。
ミノタウロスの体が川の底から引き抜かれ、水を滴らせながら宙に浮き、勢いよく地面へ叩き落とされた。


「本気を出せば一発、では?」
「め……面目ない……」
「まあ構いません。その為に私が来たのですから」


ハインリヒは大人びた仕種で髪を掻き上げながら、何の気なしに答えた。まるでこうなることくらい、当然わかっていたというように。



メインに戻る
トップに戻る
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -