3


狼をあんなに近くで見たのは初めてだった。
恐ろしくて仕方ない筈なのに、思わず見とれてしまうくらい、毛並みの綺麗な狼だった。その毛皮は月の光を浴びて金色に見えた。

コッケコー!!


「!?」


昨晩の記憶、美しい映像を見せた夢の余韻をぶち破る鶏の一声。
ジルは不愉快そうな表情で目を擦って姿勢を正した。昨晩はいつの間にか眠ってしまったらしい。座ったまま寝たので体中が痛い。


「おはよ……」


隣に座る獣人の男に恐る恐る挨拶する。男は黙ってジルの方を見て、こくりと一度頷いた。
すぐまた正面を向いてしまった男の横顔を、ジルは心配そうに眺めていた。
勝手についてきて、迷惑に思われてはいないだろうか。お荷物が増えたと思ってはいないだろうか。思ってるだろうな。
それにこの男は一晩中起きていたのだろう、馬車はかなりの距離を進んでいる。もうウィアウルフの塔も見えない。なのに自分は呑気にぐうすかと……


「……ん?」
「…………」
「な、な……」
「…………」
「なによこれ!?どういうことよ!?」
「!?」


恐怖心も忘れジルは獣人の男の胸ぐらを掴み、乱暴に揺さぶった。男は何が何だかわからんという驚いた表情でジルを見つめていた。


「あんた獣人でしょ!?東の森の出じゃないの!?」


男はコクコクと二度頷く。ジルは更に声を荒げて男に顔を近づけていった。


「じゃあなんですぐ帰らないのよ!?ここ何処よ!?東の森は!?」


ジルの息が落ち着くと、獣人の男は腕を上げて真っ直ぐ来た道の方向を指さした。

逆 方 向 !


「何処行く気だよテメー!ふざけんなよ!いやあんたが何処行こうがあんたの勝手だけどなんでこんなお荷物抱えて行こうとすんだよ!目と鼻の先だったんだからあたしだけでも森に置いてってからでも良かったんじゃないの!?どう考えても足手まといだろうがよ!」


両手で男の胸ぐらを掴み、ジルは涙目でまくしたてた。男はしばらく呆然とした顔をしていたが、少し間を置いてから「なるほど」とでも言うようにポンと手を叩いた。


「バカなのか!?お前はバカなのか!?いや断言しよう、お前はバカだ!」


ガタンと馬車が揺れた。
ジルは驚いて顔を上げ、次に地面を見た。林道だがちゃんと均されたところを馬車は走っている。あんなに激しく揺れるのはおかしい。


「……てことは、まさか」
「いたぞ!あそこだ!」


背後から聞こえる男の声。続いて弓に矢をつがえる音。無数の風切り音。


「ぎゃあああああああ!!」


馬車後部はあっという間にハリネズミと化した。
ジルと獣人の男は運転席に座っているので無傷ではある。が、ジルは捕らわれの身であったとはいえ、二十余年を平穏に過ごしてきた一般人だ。命を狙われることになど慣れているはずがない。


「なんであんた悲鳴のひとつもあげないのよ!そんな余裕ならどうにかしてよコレぇえ!」


涙目でジルが怒鳴ると、男は正面を向いていた顔をジルに向けた。そして自分の口元を指し、パクパクと口を開閉した。


「え?あんた本当に口利けないの?」


男はコクコクと頷いた。と、矢の第二波が馬車に降り注いだ。
ジルが一層高い悲鳴を上げて、馬が騒ぎにパニックを起こしかけた。獣人の男がそれを宥めてから、ピシィと手綱を鳴らせて馬を走らせた。

馬車の後ろから追ってくる魔物たちは、諦めるどころか声を掛け合って更に詰め寄ってくる。声がだんだんと近づいてくるのを背中に感じて、ジルは震え始めた。


「ど、どうし……よう……」


腕を胸の前で交差させ、ジルは自分を抱き締める。震える手で震える肩を抱いても安心など出来やしない。
青ざめた顔で俯くジルを、獣人の男は心配そうに見つめていた。それから身体を傾け、肩越しに馬車の後ろからついてくる魔物たちを確認した。

口角を吊り上げ、男は馬車を停めた。


「え!?」


ジルは驚いて顔を上げた。馬は確かに停まっている。首を振り、体勢を整える馬の姿。立ち上がり、馬車から降りる獣人の男。


「ち……ちょっと!」


慌ててジルが呼び止めると、男は「そこにいろ」とでも言うように手を挙げた。
今にも泣き出そうなジルの顔を見て、獣人の男は安心させるためか、彼女に向かって微笑んだ。


「諦めたか!案外早かったな」
「さあ大人しく……」


投降を呼びかける前に、魔物たちの前に獣人の男が現れた。ひゅうぅと強いが静かな風が吹き、男の短い髪を少し揺らせた。

魔物の親分格が捕らえろと号令を掛け、一斉に魔物たちが男に向かっていく。
同時に男も魔物に向かって足を踏み出し、その身体はいつの間にか狼に変わっていた。毛皮は太陽の光を浴び、金色に輝いていた。
その頃ジルは


(怖い怖い怖い怖い帰りたい帰りたい怖い)


強面のせいで極悪人にしか見えない男の微笑に怯え、馬車の陰で震えていた。



「……お疲れっす」
「げふ」
「満腹かい。オークでもいた?」


数十分後、獣人の男は馬車の陰で震えていたジルの元に戻ってきた。
ジルの問いかけには、いつも通り黙ってコクコクと二度頷いて答えた。そのまま男は何事もなかったかのようにジルの隣に座って、馬を出発させた。
一応警戒はしているのか、馬の速度は少し上がっていた。


「怪我とかしてない?」


男は首を横に振った。


「さっきのは何?ウィアウルフの手下?でももう殆ど残ってないよねぇ?」


今度は首を傾げた。


「じゃあ何か心当たりは?」


横に振る。


「そう……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」


馬の足音だけが聞こえる気まずい数時間、ジルはひたすら平和な日常を妄想して過ごした。




日が落ちてきた頃、ようやく男は馬車を道の端に停めた。地面に足を付けて安心したのか、そこで初めてジルは朝から何も口にしていないことを思い出した。連動してくうぅと腹の虫が鳴る。
幸い林道にいるので、兎の姿になれば餌は幾らでもある。しかし怖いのは、同行しているのが肉食獣だということ。さすがにここまで来たら人情としてそれは遠慮するものだろうとは思いたい。が、今のところ自分は足手まとい以外の何者でもない。この男にとって最も有効活用できる手段は……。


「……て、え?あれ?何処行くの?」


獣人の男は林の奥に入っていこうとしていた。ジルが声をかけると、男はジルの方を振り返り、ぱくぱくゆっくり口を動かした。


「か、り?」


コクコクと二度頷いて、男は林の奥へ進んでいった。


「いってらっしゃい」


恐らく自分はここで待っていていいのだろう。馬車もあるし、置いていかれることはないはず。
ジルは心置きなく兎に姿を変え、草を食べて腹を満たした。


満腹になると眠くなる。獣の姿なら尚更だ。
草の上で寝たいところだが、男はジルの獣の姿を知らない。万が一男が戻ってきたとき気づかず眠りこけていたら、そのまま置いていかれかねない。ジルは仕方なく、馬車の座席で丸くなった。
馬車に上るときジルはまた人間の姿に戻ったが、少し考えてからやっぱり兎の姿で眠ることにした。背もたれの方を向き、小さな灰色のロップイヤーは目を閉じた。

瞼が重くなり、そろそろ眠りに落ちそうになった頃に男は帰ってきた。
ジルを捜していたのか暫く馬車の周りをうろうろ歩く足音が聞こえ、その後馬車を覗く気配が閉じた瞼の上から感じられた。
ジルはもう半分夢の世界に落ちかけていたが、男が帰ってきたので身を起こそうとした。そのとき、ふわりと背中に柔らかい毛の感触が



毛……

……?
…………!

!!!!!!!!!?!!?!



子供を守る親のように、ぴったりと自分にくっついて寝息を立てる狼の体温を感じながら、小さなロップイヤーは震えながら夜明けを待ったという。




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