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大陸北に広がる荒れ地にそびえるのは、黒壁の巨大な城である。
城の中に入れば赤い絨毯がホールも廊下も一寸の隙もなく敷かれている。灯りは燭台に付けられた蝋燭の炎だけである。城の至る所に鬼や悪魔をかたどった装飾があり、城中の者を睨んでいる。
城の主は魔王である。



巨大な城は、豆粒ほどの大きさに遠く離れてそびえ立っている。背の高い塔の窓からそれを見つめるのは、ルビーのように艶々と赤く円い、気の強そうな瞳だった。
瞳の主は柔らかそうな灰色の髪を首の後ろで括り、赤いリボンで飾っている。服は塔にいる他の女たちと揃いの、地味な色のワンピースに白い腰巻きエプロンを着けた下働きの姿だ。
女はやがて魔王城から目を離し、塔の厨房に向かって歩いて行った。





厨房では同じ恰好の女が多く集まり、忙しそうに食事の準備をしている。


「遅かったね、ジル」
「うん。ごめんね」
「そっちお願いできる?」


ジルは言われた通り、包丁を握って野菜を切り始めた。するとすぐに厨房の扉が乱暴な音を立てて開かれた。ずかずかと入ってきたのは、鞭を持った鳥形の魔物である。


「なんだ、まだ飯の用意は出来ておらんのか!」


ビシャンと鞭が厨房の床を打ち、女たちの肩が跳ねた。


「お前たちが飯と寝床に困らず平穏に暮らしていけるのも、全てウィアウルフ様のお陰なんだぞ!もっと気合いを入れてお仕えしろ、グズどもめ!」


言うだけ言って鳥の魔物は厨房を出て行った。足音が遠のくと、女の一人が忌々しそうに台ふきを床にたたきつけた。


「ふん、なにさ偉そうに!」
「何が平穏よ。無理矢理連れてきたくせして!」


気の強いのが口々に悪態をつき、ついには年若い娘がわっと声を上げて泣き出した。
ジルは苦々しそうにそれらを聞きながら、黙って料理を続けていた。



彼女たちの生まれは、大陸東に鬱蒼と繁る広大な森である。そこで平和に暮らしていたエルフ、ケンタウロス、獣人の娘たちだった。

勇者に封印された魔王が数ヶ月前に復活し、それに伴い大陸各地に魔王の手下たちが拠点なるダンジョンを次々に築き始めた。そのうちひとつが、彼女たちが働かされている、ここコカトリスの塔である。

故郷は目と鼻の先にある。走っていけば飛び込める。けれど逃げた後で残された仲間たちがどんな責任を取らされるか分らない。森の中で追っつかれて捕まれば、今度は家族に何が起こるか分らない。森の生き物たちは同胞との結束が固く、愛情深い。自由な四肢は枷だらけである。




ガシャンと甲高い音がしたかと思えば、男の怒号が食堂中に響く。謝る女の声は怯えも混ざって泣きそうだ。
皆が一様にその二人の方を見る。ジルはほんの少し水で濡れた服を着た鳥の魔物と、その足元に転がる割れたグラスを見た。魔物と向かい合う女は何度も何度も頭を下げている。


「申し訳ありません、申し訳ありません……」
「それが謝る態度か!?額を床に付けろ!頭を上げるんじゃない!」


女は震えながら、言われた通りに土下座した。周りの魔物たちはにやにや笑いながらその様子を眺めている。鳥の魔物は血走った目で鞭を振り上げた。

鞭は乾いた音を反響させて、床を跳ねた。
飛び出ていったジルが女を覆い被さるように突き飛ばし、鞭は獲物を捕らえ損ねていた。


「何のつもりだ!」
「かかったのはただの水ですわ!染みも臭いも残りません!鞭で叩かれるほどのことはしていません!」


ジルは立ち上がり、女を守るように背中に隠した。ルビーのような目は魔物を気丈に睨み付けている。


「生意気な奴だな。そっちの女より、お前の方が鞭が必要そうだ」


しかし魔物はすぐに「いや待てよ」と呟いて、右上の宙を眺めて何か考えていた。再びジルの方を向き直り、にいいとくちばしが嫌らしく笑う。


「お前、確か獣人だったな?」
「はい。兎の獣人で御座います」
「いや、いや。種類はどうでも良い。…お前には新しい仕事を与えよう。来い」


鳥の魔物はくるりとジルに背中を向けて歩き出した。ジルは怪訝そうにその後をついていった。他の女たちは不安そうにジルの背中を見送り、庇われた女は瞳を潤ませていた。




「つい先ほど東の森より捕虜があってな」


鳥の魔物は大股に廊下を歩いていく。ジルは黙って後をついていった。


「すぐに殺そうかと思ったんだが、ウィアウルフ様が止められて」
「……獣人なのですか」
「ああ。ウィアウルフ様は何かお考えがあるようだったが、魔王様からお呼びがかかってな。お帰りになられるまではここで飼うことになったのだ」


飼うという言い方に、ジルは魔物の背中を鋭く睨み付けた。獣人族は獣の血が混ざっていることを誇りに思う種族だが、それ故に動物扱いを受けることによって生じる侮蔑に敏感に反応する。ジルの敵意に気づかない魔物は平然と後を続けた。


「お前には捕虜の世話をしてもらう。同胞なら相手も心を開くだろう」


そこから二人は黙って歩いた。ある扉の前で魔物は立ち止まり、上着のポケットをゴソゴソ探って鍵を取り出した。瞬間、


「うぐっ!」


部屋の中から何かが激しく扉に当たった音がして、くわんくわんと扉が余韻に揺れた。後から聞こえた呻き声から察するに、扉にぶつかったのは男である。
捕虜に拷問でもして遊んでいたのかと思いきや、開いた扉の先に転がっていたのは魔物だった。その直線上にベッドがあり、一人の男が座っている。右足は魔物を蹴飛ばした体勢のまま、真っ直ぐ宙に突き出されていた。


ベッドに座る男と目が合った瞬間、ジルの身体はびくりと跳ね、次に硬直した。
ジルがこの男に対して感じた恐怖は、草食動物が捕食者と対峙したときのものと同一だった。
殴られた跡のある男の顔は、部屋に入ってきたジルと鳥の魔物の方を向いている。興味のなさそうな瞳は、それでも明らかに肉食獣の鋭さを持っていた。


(く、食われる……!)
「おいなんだ!枷が付いておらんじゃないか!」


鳥の魔物が怒鳴り、獣人に蹴飛ばされた魔物の頬を叩いた。獣人に怯えを見せない魔物に対し、ジルは強さを感じるどころか呆れ果てた。この鳥の魔物を、食おうと思えば獣人の男はきっと食える。捕食者への恐怖に鈍感な動物はただの餌も同然である。
伸びていた一つ目の魔物は、目を覚ました途端獣人の方を見てヒィと後ずさりした。


「め、滅茶苦茶ですよこいつ!呪文がなんにも効きやしないんだから!」
「だったら押さえ付けて無理矢理やれ!」
「やろうとしたんですよ!」


一つ目サイキュロプスの言葉に、鳥の魔物とジルは顔を上げた。恐る恐る部屋の中を見回すと、部屋の右隅と左隅に、それぞれ小悪魔が一匹ずつ転がっていた。
獣人の方に顔を向けると、彼はふああと退屈そうに欠伸していた。大きくひらいた口の端で、鋭い牙がきらりと光った気がした。
ジルたちが自分を見つめていることに気づくと、獣人は「何か文句でもあんのか」とばかりに、かっと目を開いて二人を睨み返した。


「うっ」
「ヒッ!と、というわけで!同胞同士仲良くやるように!まずはこいつに枷をつけることだ!出来るまで部屋から出るなよ!」
「えっ!?ちょっ、ちょっと待っ……」


鳥の魔物が慌てて部屋から出て行った。サイキュロプスがそれに続こうとすると、獣人の男が立ち上がった。
サイキュロプスは青ざめて扉にかじりつきつつ、身体は獣人の方を向いたまま動けずにいた。獣人は気絶している小悪魔を二匹拾い上げて、サイキュロプスに放り投げた。

魔物は悪魔を抱えて逃げるように部屋を出て行った。捕虜の部屋にはジル一人が残された。


「な……何よ!捕虜にビビって魔王サマの役になんか立てるって言うの!?」


ガンガンと拳でドアを叩き、次にガチャガチャと乱暴にノブを回す。外から鍵をかけられているらしく扉は開かない。ジルはがっくりと肩を落とした。


(同胞っつったって獣の姿で会えば野生動物と変わらんっつーの!草食動物と肉食獣は殆ど交流ないっつーの!食われるっつーの!)
「……ん?」


ふっと自分の身体に影がかかったのを感じて、ジルは後ろを振り返った。
獣人の男がすぐ真後ろに立っている。


「わあ!」


ジルは慌てて背中をぴったり扉につけ、獣人の男と向かい合った。男は何も言わず、魔物が置いていった枷を拾い、ジルに差し出した。
ジルは訝しげに眉を顰め、恐る恐る手を伸ばして枷を受け取った。すると男は拳を作った両腕をスッとジルの目の前に突き出した。


「……?」
「…………」
「……つ、付けていいの?」


枷を握りしめながらジルが訊くと、男は首をこくこくと二度縦に振った。
ジルはこの男の気が変わらないうちに早く、しかし男の癇には障らないようにと慎重に手枷を太い腕に装着させた。枷が外れないことを確認すると、男はベッドに戻って横になった。


(なんなんだコイツは……)



非力で可憐な兎のあたし。
凶悪そうな捕虜の肉食獣。
これがあたしの人生最大の分岐点となる、多分運命の出会いだった。




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