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塔の女たちが昼食の準備を整えている間、ジルは一人膳を持って廊下を歩いていた。
捕虜の獣人の部屋に着くと、ジルは膳を床に置き、扉を三度ノックした。返事はない。ジルは構わず鍵を取り出し、扉を開けた。


「食事よ」


獣人の男は頭の後ろで腕を組み、ベッドに寝転がっていた。ジルが部屋に入ってきたとき、チラリと彼女の方へ目線を動かした。それだけでジルの本能が黄信号を点滅させる。

ジルがこの男の世話係を命じられて数日が経っていた。未だこの男が何の獣の血が混ざっているのかはわからないままだったが、肉食獣であるという確信をジルは持っていた。


「……美味しい?」


枷の付いた手で難儀しながら食事をとる男にジルは恐る恐る訊ねた。男はこくこくと頷いた。ジルは小さく溜息をついた。
なんとかコミュニケーションをとって仲良くなれば恐怖心も消えるだろうと、ジルはこの数日間なるべく男に話しかけるようにしていた。しかし男が口を利いたことはただの一度もなかった。


(まあ美味いならいいか……)


食事を終えた男はパンと手を合わせて膳に向かって一礼した。
捕虜に出されるのは粗末なものばかりだというのに、この男は「いただきます」と「ごちそうさま」は必ずする。

ジルはカラになった膳を抱え、扉に手を掛けた。そしていつものように、出て行くときは扉を閉めるついでに男の方を振り返る。


「じゃあ、掃除の時間にまた来るから……」


手を振る男に応えてから、ジルは扉を閉めて鍵を掛けた。




夕刻の清掃の時間、ジルは箒と塵取りを持って捕虜の部屋に向かう。他の獣人の女性たちは心配そうにジルの背中を見つめていた。
捕らわれた女たちのうち獣人は殆どが草食のか弱い生き物だ。捕虜がどうやら肉食の獣だというのは知れ渡っていた。脅し代わりに魔物たちが女たちに言って回ったのかもしれない。

生意気をすると、捕虜の餌にしてしまうぞ、と。

ジルはいつものように三度ノックをしてから部屋の戸を開いた。「入るよ」と声をかけても、やはり返事はない。
男はジルに背を向けて眠っていた。すうすうと呼吸に合わせて肩が上下する。ジルはほっと胸を撫でおろし、掃除に取りかかった。男は肉食獣の目をしている。アレに睨まれることがないだけでも心持ちはだいぶ違う。
なるべく音を立てないように箒を動かしていると、その気遣いも虚しく塔中がざわめき始めた。魔物たちの騒ぐ声、走り回る足音、女たちの声も聞こえる。
ジルが顔を上げると、男も起き上がってまだ眠そうな目を擦った。


「どうしたんだろ……」


ジルが独り言のように呟くと、男は知るわけ無かろうと首を傾げた。ジルは「そうだよねぇ」と薄笑いを浮かべ、扉の方へ目をやった。


「ちょっと聞いてくるよ。待ってて、すぐ戻るから」


男はこくりと頷いた。しかし訊ねに行く間もなく、ジルが扉を開いた瞬間魔物の高らかな声が塔中に響き渡った。


「ウィアウルフ様のお帰りだぁああああ!」


もてなしを促すその声。ジルは扉を開けたまま硬直していた。
すぐ真後ろに捕虜がいることを思い出し、ジルはすぐ部屋に戻って扉を勢いよく閉めた。


「塔の主が……帰ってきたって……」


伝令の声は男にも聞こえていただろうが、怯えたような顔でジルは男にそう告げた。
塔の中はしばらく騒がしかった。その間、ジルはずっと捕虜の部屋で扉を背に突っ立っていた。

騒ぎが止むと、すぐに捕虜の扉が乱暴にノックされた。ジルはビクリと肩を跳ねさせ、男は眉間に深く皺を寄せて扉を睨み付けた。


「おい、世話係!おるのだろう!」
「は、はい……」
「捕虜の枷はついているな!?」
「はい……」


ジルが返事をすると、ガチャガチャと鍵を外す乱暴な音がして、扉が魔物たちによって開かれた。


「さあ、ウィアウルフ様がお呼びだ!来い!」


先頭に立つ鳥型の魔物が偉そうにそう言うと、獣人の男は黙ってジルを追い越し魔物たちの中へ歩いて行った。

一人残されたジルは、掃除道具を抱えて女たちの部屋へとぼとぼ戻っていった。




捕虜の獣人が連れて行かれた先は塔の最上階、塔主の間だった。
玉座のような椅子に足を組んでどっかりと座り、見下すように彼を見るのは、まだ人間の姿をしているウィアウルフ、狼男だ。半裸の身体は良く引き締まり、割れた腹筋には古傷が残っている。顔にも傷がいくつか見える。

獣人はその足元に跪かされ、後ろ手に縄で縛られていた。狼男はニヤニヤ笑い、獣人に自分をちゃんと見ろと命令した。


「さて、何故お前をすぐに殺さずしばらく飼わせていたか、わかるか?」


獣人はふいと視線を外した。狼男は気分を害し、手下の魔物のを方を見て顎で獣人を指した。無言の指示を受けた魔物は、すぐさま鞭で獣人の背中を叩いた。


「答えろ!」


獣人は顔を上げた。しかし無言のまま何も答えない。
魔物がもう一度鞭を振り上げると、剥き出しの男の腕に赤い線がついた。次に数人の魔物が鞭を振り上げた。獣人は痛みに顔を歪め、ひれ伏すように床に額を付けた。
縛られた手が微かに震えている。それを見た魔物たちは一斉に笑い出した。


「怖いのか!誇り高い獣人族がなんと情けない!」
「いやあ、やはり獣の調教は鞭に限りますなあ!」


狼男は玉座から立ち上がり、獣人の前に立った。男の短い髪を掴み、ぐいと無理矢理顔を上げさせた。


「情けない獣でも、お前を殺せば魔王様への忠誠心を示すことが出来る。感謝するぞ。自ら死にに来た愚かな動物よ!」


高笑いが玉座中に響く。もうすぐ月が出る。




「ジル!」
「お帰り!」


部屋に戻ると女たちがジルを囲んで労りの言葉を掛けた。いつもより帰りが遅かったので心配したのだろう。
ジルは一度頷くと、そのまま黙って部屋の隅で壁を背もたれに、膝を抱えて座り込んだ。


「な、何よ。どうしたの?」
「まさか何かされたの!?」
「…………」


ジルは黙ったまま膝を抱える腕に力を込めた。女たちは心配そうに彼女を見つめながら、何があったのかと首を傾げる。

あの男のことは怖くて堪らない。捕食者に睨まれれば本能が逃げろと叫ぶ。たったの数日傍にいただけ、会話もしたことのない、怖くて堪らない男。でも、それでも彼は同胞なのだ。
殺されてしまうのだろうか。また明日からは、最初から何もなかったかのように他の女たちと同じ給仕に勤めることになるのだろうか。


「捕虜の男はさっきウィアウルフのとこに連れてかれたわ」
「え……」
「今頃はもう死んでるかもね」


諦めたようにそう言うジルを見て、女たちは悲しそうな顔をした。
獣人の男が心配なのではない。女たちは悲しげな表情をするジルに同調しただけだ。
廊下からガタンと音が鳴った。突然聞こえた物音に女たちは驚き、一斉に廊下の方へ顔を向けた。物音はだんだん大きくなってくる。いや、近づいてきている。


「な、何……?」
「え?え?」


けたたましい音と共に、女たちの部屋の扉が破られた。壊れて床に倒れた扉の上には、大きな狼が威風堂々と佇んでいる。


「き、きゃああああああ!」
「な、なに!?なんなの!?」


パニックになって騒ぎ出す女たちの中、一人のエルフが窓の外を見てハッとする。


「満月だわ!」
「じゃ、じゃあこの狼……」
「ウィアウルフ……」


狼男は人間を優先的に襲う。殺すこともあるし、噛み付いて仲間にすることもある。
獣人たちは、人と動物が混ざったような容姿の者もいるが、人の姿と動物の姿と二つを持つ者もいる。人の姿の者は、完全に人間と変わらない。


「きゃああああああ!!」


狼が部屋の中へ飛び込んできて、部屋中が女の甲高い悲鳴で包まれた。
しかし狼は女たちに襲いかかるどころか、通り過ぎて窓に体当たりして硝子を粉々に砕いた。
狼は女たちにくるりと背を向けて部屋を出て行った。そのまま廊下の奥へと走り去っていってしまった。

女たちが不思議に思っていると、次にバタバタと魔物たちが廊下を走り狼を追っていった。
狼は至る所で暴れているらしく、塔中を破壊する音がそこかしこで聞こえる。しばらく扉の壊された部屋で黙り込んでいた女たちだったが、誰かがふと思いついた。


「ねえ、今なら逃げられるんじゃないかしら……」


割れた窓を横目に見ながら呟いた声に、部屋がざわめき始める。ジルは騒ぎ出した女たちから外れ、部屋の隅で窓の外を見ながら黙って何か考え込んでいた。


「今なら全員ここにいるし、魔物たちは狼を捕まえるのに必死みたいだし……」
「でも……」
「ウィアウルフが作った出口よ。信用できないわ」
「狼男は狼のとき自我が無くなるのよ。自分が何をしたかなんてわかっちゃいないわ」


部屋がシンと静まりかえる。
狼はいつ捕まるかわからない。魔物たちがいつまた戻ってくるかわからない。迷っている時間など無い。




「うわああああああああ!!」
「ぎゃあああああああああああ」


大きな狼が鳥型の魔物に襲いかかり、首に噛み付いて肉を剥いだ。くっちゃくっちゃと音を立てて咀嚼する姿に、魔物たちは戦慄した。
魔物と、陰からこっそりとそれを見ていたジルとが。

ジルは逃げ出す女たちからこっそり抜け出していた。どうしてもあの獣人の男が気になって、彼を残して逃げ出すことが出来なかった。
狼の近くにいたくない。すぐにジルはその場から離れ、階段を上っていった。
最上階にあるウィアウルフの玉座の間は、戸が開きっぱなしで生き物の気配はなかった。部屋には数匹の魔物の死体と、中央に転がる男の死体があるだけ。


「ど、どういうことよ、これ……」


うつ伏せに横たわる死体は、捕虜の男ではなく、塔の主ウィアウルフ。何度か見たことがあるから間違いない。
ウィアウルフの身体には殆ど傷が残っていない。ただ最低限、致命傷を負わせるだけの爪と牙の跡があるだけ。


「まさか……」


ジルは窓を開けて外を見た。仲間の女たちは殆ど森の中へ逃げおおせている。ジルはほっと息を吐き、次にきょろきょろと外を見回した。
目当てのものが見つからなかったのか、ジルはチッと舌打ちをすると窓から離れ、階段を駆け下りた。

塔のあちこちに、魔物の死体が転がっていた。魔物の気配に注意する必要もなく、ジルは塔の外に出ることが出来た。
馬の嘶きが夜闇の中に響いた。ジルはそれが聞こえた方向へ走った。
夜の暗闇の中に、魔王城からウィアウルフが支給された黒塗りの小さな馬車がぼんやりと見える。ジルは急いで馬車の傍まで走った。


「やっぱり!」


今にも出発しようとしている馬車馬の手綱を持っているのは、あの捕虜の獣人の男だった。


「待って!」


走りながらジルが叫ぶと、男はジルに気づいて馬車を出すのをやめた。
ジルは馬車の近くで立ち止まり、息を切らせながら男を見上げて訊ねた。


「さっきの狼あんたでしょ!?」
「貴様!そこで何をしている!部屋に戻れ!」


背後からジルを見つけた魔物の怒号が聞こえる。ジルはびくっと身体を跳ねさせ、慌てて馬車、狼の男の隣に飛び乗った。

獣人の男は一瞬驚いたような顔をしたが、ジルの横顔を見ながらにぃと口角を上げた。そしてすぐさま馬車を出発させた。背後から魔物たちの叫び声が聞こえる。



馬車が故郷である東の森と反対方向に進んでいることにジルが気づいたのは、その翌日のことである。




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