以前”あちら”に迷い込んだのが霧の中であったせいで、梅雨の季節に入るのが不安でならなかった。
神奈の住む地域では雨が降る度と言っていいほど頻繁に霧がたつ。雨が上がったと思えば辺り一面、白い闇に包まれる。神奈は霧の中を、きょろきょろと周りを見回しながら慎重に一歩一歩と進んでいった。
誰かと一緒に帰れば良かろうと思った者もいるだろう。神奈も同じことを思った。オカルト研究会の会長は生徒会の仕事が残っているとまだ学校に残っている、後輩は家の者が留守で愛犬の散歩をせねばならぬと会自体を欠席している。友人は恋人と下校する約束があるという。他にめぼしい道連れも見つからない。神奈は結局ひとりで帰ることになった。


神奈は雨は好きだった。雨音が傘や屋根を叩く音も、雨に打たれて咲く紫陽花も。霧の中歩くというのもどこか神秘的で本来は好きなことだった。妖怪たちと出会うあちらの世界だって、それ自体は決して嫌いではない。むしろ目に入るものはワクワクするようなことばかりだ。
ただ、帰り方がわからないというのが怖いのだ。神奈はオカルト研究会などという怪しげな同好会に籍を置いているくらいだから、異質な出来事には興味がある。しかしそこにずっと居続ける気はない。神に会うのは有り難いことと思えるが、神隠しに遭うのは御免被る。
それに妖怪は胴の面のような優しいものばかりというわけでもないし、神は祟る。どんな危険があるかわからない、オカルト好きであるだけに神奈は彼らの恐ろしさをよく知っていた。

神奈は俯いて、帰り方さえわかれば、と呟いた。そこで数歩先の水たまりに緑色が映っていたのが目に入った。辺りは建物だらけで、水たまり一面が緑になるようなものはない。神奈は何が映っているのだろうとその水たまりの傍まで寄っていき、覗き込んだ。
水たまりには森が映っていた。木立のてっぺん、雲がかかって灰色にくすんだ空、そして覗き込む神奈の顔。

「うっそぉん……」

顔を上げた神奈は、森の中にただひとり佇んでいた。



「胴の面さぁん!覚ちゃあん!」

森の中でとりあえず叫んでみたものの、今回は返事は得られなかった。前回はやはり運が良かっただけのようだ。

「ユキちゃあぁん!」

これもダメもとで呼んだ助けであった。返事はない。期待はしていなかったものの、不安が一気に胸に押し寄せてくる。
何か、何か手はないか。慣れない森の中を闇雲に歩き回っても深く迷い込むか同じところをぐるぐる回るだけだ。かといって突っ立ったまま日が傾くのを待つのも危険だ。こちとらかよわい女子高生で、獣も怖けりゃ妖怪も怖い。下手をしたら神様だって恐ろしい。
そうだ!と神奈の頭に突然希望の光が閃いた。

お守りだ!

最初にここに来たとき、神奈を神の元へ導いたのは鞄に括り付けた「無病息災」のお守りだった。これは祖母が買ってくれたもので、神奈の地元ではなく油揚町の神社のものだと言っていた。つまりアブラゲ様のお守りである。
神奈は地面に膝を突き、鞄を目の前に置いた。

「アブラゲ様、どうかお慈悲を!」

鞄に括り付けたお守りを両手で掲げた。瞬間、お守りにボッと炎が点った。神奈の手は火傷はしなかった。それどころか、安心するような温かさを感じるばかりで痛いとも熱いとも思わなかった。
初めと同じように、炎は小さな火の玉をプッと吐いた。火の玉はゆらゆらと神奈の目の前を揺れ、ゆっくりと前へ進んだ。道案内をしているかのようだった。神奈はほっとひと息ついて火の玉の後をついていった。



森の中を歩くのはこれで三度目で、次は海がいいなあなどと考えてしまうくらいである。
火の玉に誘われるまま獣道を進み、辿り着いた先は廃寺の前。障子戸にはつぎはぎにすら穴があいていて、瓦の剥げた屋根、崩れかけの縁側……。
春に天狗たちが花見をしていた廃寺だ。以前に見たのが桜の盛りの時季で、何ヶ月も前のことだったが間違いない。寺の傍に、大きなウロのある大木を見つけたからだ。

とうに桜は散っていたが、今日も廃寺の前には天狗たちが集まっていた。どうやらこの廃寺は彼らにとって良い溜まり場であるらしい。八畳ほどもありそうな柔らかそうな敷物を地べたに敷いて、そこで皆がくつろいでいた。
ひとりが仰向けに寝ころんでいる。その傍らにもうひとりが胡座をかいて座り、寝ころんでいる天狗の顔に向けて羽団扇を扇いでいる。彼らを囲むように三、四人が酒を飲んだりつまみを食べたりしている。それら天狗たちは全員赤ら顔の鼻高天狗で、鴉天狗はいなかった。山伏の格好をしたいかつい天狗たちに混じってたった一匹ふくふくと太った狸が、胡座をかいた人間のように座っている。全員が楽しそうにケラケラ笑っている。

「らめぇえええっそんなことしたら鼻が天の橋に柱として打ち付けられちゃうよぅ!」
「嫌だってんなら本気で抵抗してみろよ、本当は悦んでんだろ?」

羽団扇で扇ぐたびに横たわっている天狗の鼻がにょきにょきと天に向かって伸びていく。
ふざけ調子で乱暴な口調になってはいるが、羽団扇を扇いでいる方の声には聞き覚えがあった。神奈は申し訳なく思いつつ、見知った相手に会えたことで安心した。

「ユキちゃあん、また来ちゃったぁ」
「ん?」

羽団扇を扇ぐ手を止めて、ユキちゃんが振り返った。今日はオーソドックスな強面の鼻高天狗のお面だ。会うのは三度目だが何故毎回お面の種類が違うのだろうか。

「やあ、霧の君。ご縁があるね」

そう言って挙げた手には白い手袋がはめられていた。頭巾とお面を被り、手袋と足袋をしているから肌も髪も見えない。生身の生き物の部分は声だけだと思うと少し不気味だが、その声があまりにも優しいものだから、神奈はユキちゃんが好きだった。

「さ、立ってないで君もお座りよ」

ユキちゃんはお面をしていても微笑んでいるのが伝わる話し方をする。神奈は優しく声をかけられると、眉間にしわを寄せて首を横に振った。

「絶対嫌だ。だってこの敷物絶対狸の金玉袋だもん」
「うら若き乙女が金玉袋などと堂々と言うものではないよ」

ふくふくの狸がテヘヘと可愛らしく笑った。そんな風に笑っても金玉袋は金玉袋である。可愛らしい狸に向かって、えへえとしまりのない笑顔を返しはするものの、神奈は頑として立ったままでいる。

「今日はどうやって来たの?」
「水たまり覗き込んだら”こっち”が映ってて……気がついたら来てました」
「ふーん、水たまりかぁ」

羽団扇で口元を隠すようにして、ふーむと唸る。その考え込むような仕草を見ると、さすがに神奈も不安になった。

「あの……」
「大丈夫だよ。ちゃんと帰してあげるから」

即答してユキちゃんは立ち上がり、腰に括り付けている一本の榊が擦れる音がした。

「じゃ、なんかお礼して」
「お礼?」
「うん。今日はアブラゲ様がいないから、天狗さんたちになんかあげて」

その間に準備しておくから、とユキちゃんは廃寺の中へ入っていった。

「おれい……」

少し考えてから、神奈は鞄に括り付けていた防犯ブザーを天狗に渡した。こちらでは珍しいものだろうと思ったからだ。
思った通り天狗たちは興味津々、実に面白がって楕円形の小さな橙色の塊をいじり回していた。神奈はブザーをいったん返してもらい、ブザーから飛び出ているプラスチックの一片を摘んで深刻そうに低い声を出した。

「ここを引っ張るのは本当に困ったときだけにしてください。大変なことが起こりますよ……」

神奈はそっと天狗の掌の上に防犯ブザーを置き、一度頭を下げてからユキちゃんの方へ駆けていった。

「なんかいいお礼あった?」
「はい」
「女の子はいろいろ鞄にいれてるもんね」
「ユキちゃあああん!!鼻戻せよぉおおおおお!!!」

廃寺の中には大きな円い鏡が置いてあった。さあ来たまえと促されるまま、神奈は鏡の前に立った。目の前に立っても上半身までなら映る、よく磨かれた輝くような鏡だ。

「よく見て」

肩を抱かれ、耳元で囁かれる。嫌な感じはしなかった。優しいものに守られている、そういう安心感だけがある。神奈は昔から彼を知っているような気さえした。

「一瞬だけだから、そのまま飛び込んで」

そう言うユキちゃんの顔を横目で見ると、ぽんと肩を叩かれる。鏡に視線を戻すと、鏡に映った姿がぐにゃりと歪んでいる。鏡の表面が、というより鏡の中が渦巻いているように見える。

「じゃあね」

背中を押されて神奈は鏡の渦の中心に飛び込んだ。というより倒れ込んだ。

「いったい!」

硬い床に打ち付けた腕をさすりながら起き上がる。辺りを見回してみるとそこは神奈の通う高校の、人気のない旧校舎の階段の踊り場だった。ひび割れた大きな姿見が壁に貼り付けてある。

近くの教室に掛かっている時計は、四時四十四分四十五秒を指していた。
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