登下校はなるべく友人と共にする。霧の中では気を緩めない。水たまりも覗き込まない。おかしなものを見つけても気づかないふりをする。幽霊はなるべく無視をする。
これらのことを心がけて神奈は一週間ばかりを無事に過ごした。授業が終わるといつも早く梅雨が明けてくれないものだろうかと考えながら、帰り支度を整えて席を立った。

「まゆたん、かーえろ」
「今日はだめ」

桜色のフレームの眼鏡をかけた友人は間髪入れずに神奈の誘いを断った。手鏡を出して髪を直しているところを見ると、恋人と約束でもしているのであろう。
チッと舌打ちしてから、神奈は「じゃあしょうがないね、バイバイ」と彼女の傍を離れた。教室から廊下に出ると、偶然にも赤城が歩いてくるのが見えたので神奈は大きく手を振った。

「一緒に帰ろうぜ!」
「ごめん、今日は家の手伝いあるんだよ」
「家の手伝い……!?」
「俺は不良じゃないって言ってるだろ!掃除当番もサボらないし校則も守るし家の手伝いもするよ!」

赤い頭で廊下の床を蹴りながら不服を訴える姿はどう見ても不良だが本人がそう言うなら仕方がない。神奈は赤城に手を振って、旧校舎に向かって歩き出した。


旧校舎には教室として使われている部屋はないが、多くが部室に利用されていた。神奈の所属するオカルト研究会は、その活動に相応しく他の部室が周りにない旧校舎の最奥に位置していた。「見るからに出そう」と評され部員以外は滅多に近寄りもしない。

誰か来ているかと思って試しに来てみたものの、部室は無人だった。どう考えても部室に立ち寄るより大勢の生徒が下校するなかに紛れて駅に向かった方が得策であった。神奈は踵を返して帰ろうとした。


その瞬間、ふわりと体が浮かび上がった。


足は廊下から離れ、肩から鞄が滑り落ちてドサリと低い音が静かな校舎に響きわたった。誰かが後ろから腰を掴んで自分を担ぎ上げている。そして自分が誰の肩に担がれているのかを知ると、神奈の顔から血の気が失せた。山伏の格好をした赤ら顔の鼻高天狗。


「なっ!?なっ……!ええ〜……?」
「ようやく見つけた。悪いが来てもらうぞ」
「ええっやだ困るよぉ!」

天狗は窓枠に足をかけ、神奈を担いだまま飛び立った。そしてそのまま裏山に姿を消した。



天狗は木を蹴って長く飛んだ。いつから人間の世界から妖怪たちの世界に移ったかもわからない。あの廃寺を越えて、着いた先は古屋敷だった。庭の物干し竿に手拭いや着物やが干してある。

天狗は神奈を担いだまま、縁側から屋敷の中に入った。障子戸を開き、床の間のある和室から畳の良い香りがする。その部屋でようやく天狗は神奈を肩から降ろした。
神奈をそっと畳の上に立たせた天狗は、部屋の隅に積んである座布団の山から綺麗なものを選んで一枚神奈の前に敷き、自分は山のてっぺんにあるのを取って放り捨てるように置いてからその上に胡座をかいて座った。

天狗は胡座の膝小僧をおさえるように手を置いて、じっと神奈を見つめていた。強面の、肉の隙間から覗いているような目がぎょろりと動く。神奈の目を見ていたかと思うと、足下へ視線がいく。

「座れ」

低い声で短く言われ、普通の少女なら縮みあがって泣きだしてしまったとしてもおかしくはない。神奈は体を庇うようにして腕を抱き、一歩下がった。

「やめて!わたしにいやらしいことするつもりでしょう!?エロ同人みたいに!」
「せんわ」
「あれ、天狗さんエロ同人わかるんだ」

天狗は「ふふん」と得意げに笑った。「見ておれ」と尊大に言ったかと思うと目を閉じ腕を組み、背筋を正して胡座をかいて座り直した。

面白いことが始まりそうだと神奈がワクワクした表情で身を乗り出すと、天狗の赤い鼻がむずむずと動き始めた。長い赤鼻がしゅるしゅると音を立てて伸びていく。部屋の壁にもたれかかるように座していた天狗の鼻は、対面の壁に当たりそうなほど伸びて伸びて、引っ張られたゴムが戻るように勢いよく縮んでいった。

ぺちーんと間抜けな音を立てて縮んだ鼻は、元の天狗の鼻の半分以下の長さになっていた。人間のものと変わらない。鼻どころか肌の色も目の大きさも変わっていて、天狗の頃の面影はあるもののすっかり人間の容姿になっている。

「鼻は一回伸ばさないといけないんだ」
「うむ」

この天狗は時折こうしてヒトに姿を変え、下界に降りているという。そういう天狗やら狸やら狐やらは昔に比べれば随分減ったが、現代でもいないことはないらしい。

天狗は羽団扇を扇いで鼻を戻しながらそう言った。鼻が伸びる度に顔の赤みが増していく。

「なんで下界に降りてまでエロ同人」
「して小娘、お前に頼みがある」

すっかり天狗に戻ってしまってから、彼は真剣な面もちをした。

「頼み?」

神奈が話の内容を促すようにオウム返しをした。瞬間、障子の戸が開かれてどやどやと騒々しく、大勢の天狗たちが部屋に入ってきた。

「ただいま戻ったぞ!」
「あ!女だ!」
「本当だ女だ!」
「連れてきたのか!」
「いやぁありがたい!本当に困ってたんだ!」

鴉天狗が神奈の手を両手で握り、涙を流さんばかりに喜んでいる。わけのわからない神奈は助けを求めるようにさきほどまで二人で話していた天狗の顔を見た。

天狗はひとつため息をついて、「これから頼むところだったんだ」と言った。すると部屋に入り込んできた天狗たちは「ええ〜」とがっかりした声と表情で神奈から離れた。

「交渉を始めようとしたところにお前等が入ってきたんだ」

座布団の積まれた部屋の隅に近いところにいる天狗が、上から一枚ずつ座布団を取って隣の天狗に渡した。受け取った天狗が近くにいる鴉天狗にそれを渡し、そうして座布団は全員に行き渡った。

神奈は天狗だらけの部屋を見渡した。強面の者、どこか愛嬌がある者、若干幼いように見える者と個性があるのが面白い。
部屋の中がにわかにざわめき始めた頃、ぱぁんと甲高い音が鳴り響いた。神奈を連れてきた天狗が羽団扇で床を叩いたのだ。あんな軽そうなものだというのに、随分鋭い音が出るものだと神奈は感心した。

「話を戻そう。お嬢さん、頼まれごとを聞いてくれるか?」

強面だが真面目な表情をしている。声質も脅すようなものではなく、ただ真剣に聞いてもらいたいという思いがあるのがわかる。神奈は正座に居住まいを正し、親指を突いてかの天狗の方へ体を向けた。

「なんでも、というわけにはいきませんが私にできることなら」
「ありがたい。何も難しいことではない。ただ……潔癖の娘ならば嫌がるかもしれぬ」
「いやらしいことならやらんぞ」
「いやらしいことはせんと言ったろうが。端的に言うとだな」

足を洗ってほしい、と天狗は言った。



「足?」

天狗たちの言うことには、ここには畳一畳ほどの大足が現れるのだそうだ。

追い出そうとするとその足は大いに怒り、一畳と言わずこの部屋いっぱいの大きさに膨らんで暴れ、部屋中めちゃくちゃにされる。初めのうちは障子も襖も畳も毎日取り替える羽目になり、実に難儀した。放っておいたら特に何をすることもないことに気づいてからは放置していた。

ある日皆が留守にしているうちに盗人が入り、件の大足殿がそれを成敗してくれた。つまりは翌朝盗人どもがこの部屋でぺしゃんこに潰れていたという。その夜に礼をこめて大足殿を綺麗に洗ってやったら大いに喜ぶので、以来毎日そうしてやるようになった。右足を洗うと足を引っ込めて次は左足を出す。左足も洗ってやると大足殿は帰って行く。

しかしこれがどういうわけか女がやらねば足が引っ込まない。

洗わずにいるとわなわなと震えたり地団駄を踏むように畳を叩いたり、怒りを我慢するかのような仕草をする。妖物らしく朝日の光は苦手らしく夜が明ければ帰るものの、これが三日続いていて、そろそろ大足殿が暴れ出すのではと皆が心配している。

「女中さんとか嫁とか妾とかいらっしゃらないんですか?」

嫌だとつっぱねたわけではなく、純粋な疑問として神奈は訊ねた。天狗たちは一斉に顔を背け、こころもち俯いた。どうやら触れてはいけないことだったらしい。

「じゃ仕方ないですよね、わかりました」
「おお!やってくれるか!」
「はい。でもとりあえず今夜は私がやるとして、これからはどうするんですか?」
「女中の募集はしてある。今までだっていなかったわけではない。ただ長続きしないんだ……」
「……まあ、そうでしょうね」

大足殿が現れてから、敷地内にある蔵にも鼠一匹いなくなったし狐や鼬などの害獣も見なくなった。蔵には先祖代々伝えられている大切な家宝や、方々で手に入れた高価な品がしまわれている。大足殿はもはや守り神だ。もし機嫌を損ねればと考えると恐ろしい。天狗たちは改めて神奈に頭を下げて頼んだ。

一生ここで働き続けろと言われたわけでもなし、ここまで言われれば大足殿も見てみたい。神奈からすれば断る理由はない。翌朝に油揚町まで帰してもらうことを条件に、神奈は大足洗いを引き受けた。

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