昔は神も妖怪も、日本中どこにだっていた。けれども今はすっかり暮らしにくくなってしまったと見えて、とんと彼らの話は聞かなくなってしまった。
では今、神や妖怪たちはどこで暮らしているのだろうか。人間と同じところで暮らせなくなった彼らは彼らで、楽しくやってることを願うばかりである。



がたんと電車が揺れて、神奈は短い夢からハッと目を覚ました。窓の向こうにある駅名を見ると神奈は立ち上がって電車から降りた。

日暮神奈は隣町にある高校に毎朝電車で二十分かけて通っている。山と田圃に囲まれた田舎町で、今の時代には珍しく土地神を大切に祀っている。年寄りはもちろん子供たちまで土地神のことを知っている。
神奈もこの町の者ではないが、この町の土地神のことは聞いていた。それくらいこの地域では有名な神であった。


駅を出てすぐに、大きな一本桜が咲いている。樹齢千年を越える立派な大木で、幹は雄大であるのに花は可憐で繊細である。淡い色の桜の花びらがちらちらと落ちてくるのが何ともいえず優美である。
神奈はふと立ち止まって一本桜を眺めた。桜の木の根本に一人のサラリーマン風の男が立っていたのだ。男が神奈の視線に気づいて彼女の方を振り返った。
その瞬間、神奈は「やばい」と顔に書いたような表情をして、早足で学校に向かって歩きだした。

サラリーマンはいつの間にか神奈の真後ろにきていた。神奈は振り返りもせず、大股に歩いていく。
田舎の駅なので、先ほど桜を見て立ち止まっていた間に神奈以外の電車の乗客は駅から離れていってしまっていた。


「ねえ、君今見てたよね?」
「…………」
「僕のこと見えてるよね?」
「…………」


神奈は学生鞄にお守りと防犯ブザーを括りつけていたが、ブザーを鳴らそうとも声を上げて助けを求めようともせず、ただ口を結んで歩き続けていた。


「あの桜さ、なんか変なんだよ」
「変?」


無視を決め込んでいた神奈が足を止めてサラリーマンの方を振り返った。首にロープを垂らしたサラリーマンの透けた体の向こうに、一本桜が立っている。特にいつもと変わった様子がないのを見てから、神奈はサラリーマンの顔を見上げて訊ねた。


「変って何がですか?」
「ちょっと来てみてって。誰かに言いたくてたまんなかったんだよね!」


自殺者とは思えない陽気な話し方で、サラリーマンの霊は手招きして桜へと滑るように戻っていった。
神奈も学生鞄を抱え直し、小走りにその後をついていった。

サラリーマンの霊に言われるまま桜の木の根本を覗き込んでみると、根本にあるウロの奥が確かに変である。大木のウロなのでそれもまた大きく、身を縮めれば人ひとりくらい中に入れそうなものである。
真っ暗で何も見えないのは当然として、奥の奥を目を凝らして見てみると何か渦巻いているようだ。


「ねえ?おかしいよねえ?」
「おかしいっすねぇ……」


神奈は興味深げにまじまじと、そのゆっくりと旋回する渦の中心を見つめている。


「あ、ごめん。学校遅刻しちゃうんじゃ……」
「ご心配なく。余裕を持って登校しているので」


わくわくした様子で口元に笑みを浮かべた神奈は、渦に向かって手を伸ばした。好奇心があるとはいえ警戒心も死んではいないのか、人差し指でちょんとつつくに留めたようである。
しかし触らぬ神に祟りなし、触ってしまえばその面積は関係ないのである。たちまち神奈の体は桜の木のウロに引っ張り込まれて、悲鳴も上げないうちに消えてしまったのである。


「あ……」


後に残されたのは何もできないサラリーマンの霊だけであった。



ウロに落ちたと言うよりは、強引に引っ張り込まれた感覚がした。得体の知れない力に引っ張られるうちに気を失った神奈は、今ようやく目を覚まそうとしていた。
瞼が上下するたびぼやけた視界がはっきりしてくる。まず視界いっぱいに広がるのは梁のかかった天井。日本昔話で見たような造りの家だった。木と緑茶の良い香りがする。


「気ぃつきましたか?」
「うおっ!?」


覗き込むようにして視界に突然現れたのは、まごうことなき化け物だった。思わず悲鳴を上げた神奈は驚いた勢いのまま布団から飛び出して後ずさった。
化け物は妙にか細い腕をしていて、首から上がなく、肩が体のてっぺんだった。糸目は乳首の位置に、口は臍の位置についていた。これから男性の裸を見る機会があったら彼のことを絶対に思い出してしまうことだろう。
乙女にろくでもないトラウマを植え付けた化け物は、口を結んだまま、眠たそうな目でじっと神奈を見つめている。落ち着いてきた神奈は正座に居住まいを正した。


「す、すいません。顔見るなり叫んだりして……」
「いや、慣れててもこの顔見て叫ぶ人少なくないですからなぁ。気にせんといてください」


化け物は湯気の立つ湯呑みの乗った盆を神奈の方に寄せながら、穏やかに言った。
神奈は化け物の優しさに安堵し、湯呑みを頂戴した。緑茶の香りが鼻をくすぐり、それだけで美味なのがわかるほどであった。


「あの、ここは……」
「ここはワタシの家ですわ。あ、ワタシ胴の面いいます」
「胴にツラがあるからですか」
「胴にツラがあるからですわ」


化け物改め胴の面はおっとりした話し方でゆっくり喋る。声の質からして男性のようだった。


「お嬢さんは人間さんですな。いやぁ、人間見るのなんていつ以来ですやろねぇ」


果たして”胴の面”という化け物には女性がいるのだろうか、いるとしたら乳房は隠すものなのだろうかと考えながら神奈は出されたお茶を啜っていた。が、今訊くべきことはそんなことではない。


「あの、ここってどこなんですか?」
「んん?」
「わたし駅にいたはずなんですけど……気が付いたらここにいて……」
「おやま、知らんと迷い込んでしもたんですねぇ」


胴の面はよっこいしょと小さな声で言いながら立ち上がり、木の枝で作られた杖を掴んで歩きだした。神奈も立ち上がり、慌ててその後をついていった。
大黒柱も土間もあるような古い日本の民家。ドラマや漫画の中でしか見たことのない家をきょろきょろと観察しながら、神奈は胴の面に続いて外に出た。


山の中である。木々生い茂り鳥の鳴き声が遠くから近くから聞こえる。玄関からまっすぐ道は伸びてているが、周りに他の民家はない。
確かに神奈の学校は田舎にあるが、こんな山奥には建っていない。改めて何故自分はこんなところにいるのだろうと思うと、神奈の口は何も言葉にできず、ぱくぱくと間抜けに動いた。
そうしていると傍らの竹林からガサリと音がした。ガサガサと竹林をかきわけてくる音が徐々に近づいてくるので、自然目はそちらの方へ向く。

芥川龍之介の描いた河童の絵を見たことがあるだろうか。
竹林から現れ出たのはその絵にそっくりな、ひょろひょろで、てっぺんに皿を乗っけたおかっぱ頭の、甲羅を背負った河童であった。芥川氏の絵と違うのは牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていることである。


「おや、川辺さん」


胴の面が親しげに声をかけると、川辺さんというらしい河童はちょっと片手を上げて無言の挨拶をし、神奈たちの前を通り過ぎて反対側の竹林へと消えていった。


「胴の面さぁん」


河童が竹林に消えたのと同時に、今度は女性の甘ったるい声がした。玄関からまっすぐに伸びた道の向こうから、江戸の時代劇に出てくるような女性が歩いてくる。おしろいを塗った美人が、「こんにちはぁ」と少し訛った挨拶をした。


「悪いんですけど、味噌貸してくれませんかねぇ」
「ああ、ええですよ。ちょっと待っててください」


胴の面は家の中へ入っていってしまった。着物美人はその背中を見送って、神奈の方をチラと見て、目が合うと笑いかけてくれた。にっこり微笑んだ顔がなんとも可愛らしい。


「今日はちょっと風が冷たいですねぇ」
「ええ、もう春なのに寒いですね」
「ほんとに……」


着物美人は「ほんとに」の後にも何か言葉を続けようとしていたらしいが、くしゃみに邪魔をされた。むずむずと洟を動かして掌を口元へ置き、少し後ろに首を仰け反らせてからくしゅんと慎ましやかながら勢いのいいくしゃみをした。
その反動で首がにょろんと伸びて頭が膝まで落ちた。


「お待たせしました」


胴の面が小さな壷を抱えていそいそと家から出てきた。胴の面が壷を差し出すと、ろくろ首は丁寧に両手で受け取った。


「手前味噌ですが」
「いえいえ、いつも美味しゅうて……」


幽霊は見慣れている。しかし妖怪を見るのは初めてだ。
神奈の頭は、いまだかつてないほど混乱していた。
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