神奈は胴の面の後について歩いていた。木漏れ日の差す、春の森の中である。獣道を固いローファーで進むのは、あまり長くかかってほしくないことだった。
「あそこです」
ふいに胴の面が立ち止まり、前方を指さした。指し示す先にあるのは、見事に咲き誇る山桜の一角だった。 一本桜でも並木道でもない桜の群生に、神奈は思わず感嘆の声を漏らした。
「あなた、ここの根本に倒れてはりましたよ」
胴の面はそう言って、何か見覚えはありませんかと訊ねた。「見覚え」とオウム返しに呟いて、神奈は桜の森の下に立った。 見覚えなどあろうはずがない。しかしわざわざ案内してもらった手前、そう言い捨ててしまうのもしのびない。神奈は桜の木々を見上げたり、一本一本観察したりしてみた。
「あ」
一本の山桜に巨大なウロがあった。人ひとりは入れそうな、大きく口を開けた深いウロである。 これしかないと神奈はそのウロの前にかがみこみ、腕を中につっこんだ。
ごうと強い風がひと吹きして、神奈の長い髪とセーラー服のスカートが靡いた。その風は神風だったということもなく、ただの強い風だった。 何も起こらなかったのである。
「覚えは……」 「勘違いだったみたいです」
神奈は立ち上がり、腕組みをしてむむぅと唸った。 そうして考えていると、がさがさと草をかき分ける音がして、小枝を踏みしめて歩いてくる足音が近づいてくる。神奈が顔を上げると、桜の木と木の間に毛むくじゃらのヒヒのようなものが二本足で立っている。 ヒヒに似た化け物は、ニヤニヤ笑いながら神奈を指さし、
「今、どうしたら元のところへ帰れるだろうと思っただろう」
と言って、桜の森を横切ってどこかへ行ってしまった。神奈と胴の面は呆然としてその後ろ姿を見送った。
「覚(さとり)……」 「まあ……今のは私でもわかりましたけどねぇ」
人の心を読む妖怪、覚にわざわざ確認されるまでもなく、神奈は元の場所に戻りたかった。偶然出会った胴の面も、純粋な親切心から早く戻してやりたいと思っていた。しかし方法がわからなかった。 神奈は妖怪の棲む土地に来たことなどなかったし、胴の面はこの土地を出ていこうなどと考えたこともなかった。 二人並んで腕を組み、眉間にしわを寄せてむむぅと唸りあっていたが、ふと胴の面が神奈の鞄に目をやった。学生鞄に括りつけられているのは、オレンジ色の防犯ブザーと赤いお守りだ。
「そのお守り……」 「ああ、これですか?祖母が毎年買ってくれるんですよ。高校あがってからは学校のある町の神社で」
神奈は「無病息災」と刺繍されたお守りを手に取った。それを眺めながら、神がいるなら助けてほしいものだと思った。 思った瞬間、お守りを包むようにポッと炎が点った。
驚いた神奈は思わず手を放し、お守りは元の通りだらんと鞄にぶら下がった。お守りは燃えて炭になるわけでもなく、炎を宿している。 神奈は紐をたぐり寄せて、炎と一体となったお守りを目の前まで持ってきた。焦げ臭さもなければ煙も上がらない。人知を越えた力であるのは明らかだ。
見つめていると、お守りの炎に口のようなものができて、ぷっと小さな火を吐きだした。 小さな火の玉は神奈の顔の前をゆらゆら左右に揺れてから、ふわふわ飛んでいった。神奈と一定距離があくとその場で止まった。道案内をしているかのようだった。
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