徒野に咲く
  
忘れるべきことだらけ

雨が降っている。さあさあと、耳を澄ませば聞こえる程度の雨だ。つよくもなくて、激しさもない。カーテンを開けたって、薄暗い空が切り取られて見えるだけ。うすく濁った灰色に溶けてしまって雨粒さえも見えやしないだろう。閉め切った部屋で、ちょっと広いベッドに身を投げ出したまま天井を見つめる。雨が、降っている。

「……オイ、腹出して寝てんじゃねェ」

静寂に割り込むのをちょっとだけ迷ったような声がした。私の視界に入るように、先輩が手元で揺らしているのは私の家の合鍵。「こいつ借りた」ちがうよ、あげたんじゃん。というか、先輩が寄越せって言うから予備の鍵渡したんだよ。いつもは使ってくれないそれ。私がいる時はインターホンを鳴らすのだから実際必要ない鍵。毎年この時期になると思うの。なんで言われるまま渡しちゃったんだろうって。ひとりにしてほしいのに、この人はこうしてやって来る。ベッドの下に落っこちていたらしい、薄手の毛布が私めがけて降ってきた。それから、ぐるぐると必要以上に巻き付けられる。

「息しろ、アホか」
「巻き付けてきた張本人が言うの??」

ハッ、と軽く笑ってから、ベッドサイドに立っている間接照明をつけた先輩はそのまま一人掛けのソファに座った。そして、私が読みかけで置いていた本を手に取って、読み始める。みのむし状態の私が横目に見たって、何食わぬ顔で読書をしている先輩の姿は変わらなかった。出ていってと追い出すのはもう何年も前にやった。まあ無駄だった。一緒に寝ましょ、なんてわざとふざけて見せれば「自暴自棄になってんじゃねェ」と窘められた。試すようなこと言って申し訳なくなって罪悪感に駆られて余計に気分が悪くなっただけだった。今ではもう、何も言わずに座っているだけ。私が蹲っているのを無理やり立たせようとするんじゃなくて、近くで、そっと寄り添ってくれるだけ。本を捲る音だけが寝室の中に響き渡る。

「ごめんなさい」
「聞き飽きたわ」
「うん」
「言うなっつっても、また来年言うだろ」
「……うん」

忘れた方が良いことばかりなのに、あれもこれも忘れられない。忘れたいと願えば願うほど忘れられなくなっていく。毛布が巻き付いたままゆっくりと体の向きを変えて、先輩を背に向けた。ペラリ、本を捲る音が聞こえる。

「もうすぐね、両親が結婚した年に追いつくんです」
「早ェな」
「うん。早い。結婚した後は私が生まれるまで結構長かったから、それを越すのはまだまだ先だけど……お母さんがお父さんと結婚してた年数なんてとっくの前に追い越しちゃった」

喉がひくりと鳴って、声が裏返りそうになるのを毛布に顔を寄せて誤魔化したけど、じわじわ溢れる涙に驚いて鼻を啜ってしまった。泣いていると自覚してしまったら止まらなくて次から次へと涙が顔面を濡らしていく。

「お父さんは私だけじゃダメだったのかなあ」

本を閉じる音がする。ベッドが軋んで凹んでいくのが、背中越しにわかった。

「もう何年も、それこそ十何年も前のことなのに、私、いつまでこんなこと思ってるんでしょう」
「気が済むまで言ってりゃいい」
「忘れた方がいいことばかりなのに、」
「忘れたら、忘れたことをお前は嘆くんじゃね」
「先輩はそう思うの?」
「忘れたくないから覚えてるし思い出すンだろーが」
「だって、私が忘れたら……」
「……ん。寝とけ、」

甘い香りを携えて、温かい手のひらが幕を下ろすように降りてきた。ゆっくりと頭を撫でられて、子供みたいにぐずぐず鼻を鳴らしてしまった。くるしい。答えの得られない問いを燻らせてはこの人がくれる安寧を享受しているだけ。もう何年もずっとそうだ。このままじゃダメだって、このままじゃイヤだって思うのに、ただただ安心をくれるこの手が離せない。

ごめんね、ずるくって。

忘れるべきことだらけ

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