未来に抜け駆け

やわらかな風が頬を撫ぜていく。ふわふわと浮かんでいく意識が鮮明に見えた頃、枕を濡らすのは濡れたタオルなんかじゃなくって私の流す涙だった。泣き腫らした目を休ませる目的で保健室に来たのに、回復どころの話じゃない。なんだか変な夢も見たし頭がくらくらする。ぼうっとしていた意識が捉えたのは、ベッドサイドの椅子に座る人。びくり、と身体が跳ねてしまって思わず零れかけた悲鳴を何とか押しとどめた。無理もないよ、だって、不死川先生がいるとは思わないじゃん。先生は、腕を組んで座ったままゆらゆらと舟を漕いでいる。ゆっくり体を起こして、ベッドに腰掛けるように足を下ろした。眠る先生の顔を覗き込む。夢で見たあの人と同じ顔。腕も背も顔も全て傷だらけだったあの人。同じつくりの顔をもつ先生の顔の傷は、うっすら見えるだけで、ほとんど傷跡は見えない。右頬にあるひと際大きい傷跡のあったところを、そっと指でなぞる。

「傷、うすくなってる……」

起きてしまうな。そう思って引いた手が、がしりと掴まれる。眠っていたはずの不死川実弥その人に。
ひぃ、と喉の奥であがった悲鳴を聞くやいなや、愉し気に笑って顎を掴まれた。

「よォ、さっきは忘れたフリしてくれてどーもありがとなァ?」
「フリじゃない〜!」
「あ?お前さっき傷がどうのこうのって、」
「先生と、夢の中の師匠が同じ人だとは気づいたけど、まだ、ぼんやりとしか……!」
「馬鹿野郎。それだけ知ってりゃ十分だ」

吐き捨てるように言って、それからむしゃぶりつくように口をべろりと食べられる。ちょっ、待って。お願いだから待って、心の準備というものが、

「……大事にしようとすればお前は俺の手から零れ落ちてくからなァ」

その前に繋ぎ止めさせてくれ。そう言ってもう一度噛みついてくる師匠はやっぱり言葉が足りない。息継ぎするのもままならなくて、恥ずかしくって何とか離れる。きゅうきゅうと胸の奥が苦しくってしょうがない。

「……紗希乃。髪、伸びたなァ」

ゆったりと頭を撫でるその手は傷ひとつ残っていない。ぼろぼろと零れる涙は止めようがなくて、ぎょっとしている師匠が拭おうと目元に手を添わせるのをそっと離す。

「あのですね!」
「お、おう」
「もう大正は過ぎ去りました!」

ぼろっぼろと泣きながら啖呵を切っている様は如何に滑稽だろうか。それでも私はこの人に伝えなければならないことがある。

「前髪はあげないし、簪も挿さないし、振袖なんて成人した時くらいしか着ません」

街になんて好きな時に行けて、甘味だっていつだって食べられる。自由で、広い時代に今私たちは生を受けている。何の因果か、前と似た見てくれで、同じ性別で、記憶もまばらだけども持っている。白か黒か、選択肢の少ない時代と比べたらたくさんの選択肢が今の世には存在している。でもねえ師匠。やっぱりね、

「嫁に来るなら俺んところに来い。子供だって、俺との子を育てろ。そんで、15・6で死ぬんじゃなくて、俺の隣りで皺だらけになって笑ってりゃいいんだ」

「うう〜っ先に逝ってごめんなさい。ずっとずっとお傍にいたかった、継子じゃないと、闘わないと、いれなかったけど、」
「あの頃から、ただ傍にいればよかっただろうがよォ」
「だってそんなの、」
「お前自身が許せなかったんだろ」
「っ……」
「なあ、今度はずっと傍にいてくれ。お前の骨と、思い出だけで生きていくのはもう飽きた」

思い出すら閉じ込めていた私が言うのもなんだけど、思い出したからには待っていられない。貴方がそこにいるのに、離れるなんてもう無理だった。

「今度はおいていきませんよ」

だから、これからもずっと傍においてね。








指はある。肩も動くし問題ない。お腹はちょっとぷにぷにしてる。

「お前すこし運動したらいいんじゃねえか……」
「真顔で言うのやめてくれません……?」

あの時代では、ずっと傍にいることは許されなかったのだろう。
平和なこの時代で私はあの頃以上にずっと傍にいる。
そしてきっと、これからもずっとそうして寄り添っていく。
あの頃手に入れられなかったものを私たちは、日々噛みしめながら手を取り合うのだ。


〈完〉
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