未来に抜け駆け

さん

シャキン、シャキン、と軽快な音を立てるのは師匠が手にする鋏の音だった。刀鍛冶の里で丁寧に打ち作られたこの鋏は私がこの屋敷にやってきてしばらくしてから現れた。切り揃えていた髪が無造作に伸びてきては肩口で自由に跳ねていく。そんな私の髪は良い頃合いになれば師匠にねだって、鋏をいれて貰っている。

「いっそ伸ばして結わいたらどうだァ」
「どう考えても邪魔でしかないですよー」
「胡蝶みたくひっつめときゃいいだろ」
「結構伸ばさないと無理ですってば。それに風の呼吸使ったらすぐ解けてしまいます」

師匠はいつも簡単に伸ばせばいいと言う。そう言う割には伸びかけに肩口で跳ねる私の髪を見て腹を抱えて笑うのだ。お洒落に見えるよう手入れができれば良いのだけど、お生憎様刀を振るだけしか能のない私には無理な芸当だった。

「伸ばして髪上げて簪挿して、振袖でも着て街を歩いて甘味でも食ってどこかに嫁に貰われて」

あぁ、また始まった。シャキシャキと音を鳴らす鋏の音で聞こえないふりをしてみたい。きっとこの人には通用しないのだろうが。

「子供を授かって育てて、その内皺くちゃの婆さんにでもなって、そんで孫たちに見守られて往生すりゃいいだろう」
「それを毎日厳しく指導している貴方が言うんですか」

髪なんか短くていい。大正時代は進んでいって前髪を上げない女性も増えた。簪が挿せなくても良い。振袖だって毎日着なくていいし、街だって行っているし、甘味だって食べている。この人は一体誰と出かけて何をしているつもりなのだろう。二人で街に出かける時は振袖を着て、共に甘味処にも行っている。すべて一緒にしているというのに気付いていない。

「嫁とか、子とか、私にはまだ早いです」

皺くちゃのお婆さんになる自分なんて想像できない。それよりも鬼。目の前の鬼を殺して、殺して、殺さなければ。風柱の継子として役目を果たさなければ。

「……そうかァ」

私がこの首をこんなに無防備に晒していられるのは貴方だけなのだと、どうして気づいてくれないのだろう。

シャキシャキ、シャキン。鋏の音だけが静かにそっと響いていく。

*

先の任務で腹を少しばかり抉ってしまった。臓物には影響がないが傷は残るのだと言う。蝶屋敷にて、眉を顰めながらしのぶ様はそう告げた。命あるのだから傷程度どうとでもないと呟けば、嫌な気配がゆらりと姿を現した。

「てめえはそうやってすぐに怪我しやがって……!」
「しょっちゅう血を流している師匠には負けます」
「あぁ?!口答えしてんじゃねェ、よりにもよって女が腹ァ怪我するなんてよォ」
「子を産む気などありませんので」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあどういう問題です?」
「お二人とも静かにしてくれません?ここは病室です。隣の部屋には他の傷病人もいるんですよ」

蝶屋敷の人たちが総動員して師匠の背中を押しに押しまくっている。流石の柱はびくともしないがしのぶ様が何かを師匠に囁いたかと思えば、ばつの悪そうな顔をぶら提げて師匠は病室から出て行った。

「不死川さんの言い分も分からなくはないですよ」
「柱にもなられた貴女が何を仰るんです」
「だからこそ、ですよ。ただ辞めろと一本調子にしか言えなかった言葉足らずの不死川さんが、最近はどうやら口うるさくなったそうじゃありませんか」
「女女と性差を持ち出されては閉口してしまいます。だって、腕力では殿方には一筋縄では勝てません。筋力も足りなければ、維持するのだって難しい」

日を増すごとに、自分の身体が変化していくのがわかる。丸みを帯びて肉が付いてきた。筋肉を増やしたいのにそれどころか丸くなってきている。こんなのだから師匠に鍛え方が足りないと叱られるのだ。ところが叱ったかと思えば女の幸せとかいう絵空事を語られる。ねえ、矛盾してるの気づいてますか師匠。気付いているから、最後まで押し切ることができないのだろうか。

「女じゃなかったらよかった。そうしたら、師匠とちゃんとした継子でいられる。ずっと一緒にいられるのに」

膨らんでいく胸の内も外も、厄介すぎてどうしようもない。綺麗に切り捨てていきたいのに、切り捨てられないのは私が弱いからだ。師匠と一緒にいたいのにいたくない。ああ、私こそ矛盾している。


*

『呼吸を巡らせろ。止血をして怪我の進行を抑えろォ』

溝臭さを漂わせる鬼と対峙しながらも、頭の中で反芻するのは師匠が指導する声。じわじわ隊服が濡れていくのは左の脇腹。また腹か、などとまるで他人事のように思っているのは追い詰められて逆に落ち着いてきたせいだった。相手の血気術は刃のように鋭い突起物を操る術だった。長く長く伸びてきたそれに利き腕側の右肩を抉られる。腱が切れたのか私の腕はだらしなく下りているだけ。左手で刀を握る右手ごと力を込めて握った。突き出す技は、現状難しい。距離を保ちながら斬撃を繰り出すしかない。

「風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風!!」

複数の斬撃は一部だけ鬼に命中した。苦しむ鬼に、もう一度斬撃を喰らわせようとしたその時だった。悶え苦しむ鬼が出鱈目に突き出してくる刃のようなそれらが一気に押し寄せてくる。足は無事だ、逃げないと……!だらりと垂れさがる肩ばかり気になって地を蹴るのがひといき遅れた。崩れる体制が立て直せないまま次の刃が迫り来る。宙に浮いたまま構え直した日輪刀が刃に弾かれるように飛んでいった。ぼとぼとと落ちていったのは、強く柄を握りしめていたはずの左手の指だった。地面に投げ出されて転がる私が辿り着いたのは弾かれた日輪刀の傍。痛む身体に気付かない振りをして手を伸ばす。届かない。あたりまえだ、指がない。指があっても肩が動かない。畜生っ……!這って、日輪刀までもっと手を伸ばす。意地でも斬って、倒すんだ。そうじゃないと、そうじゃないと私……!

「師匠ォ……!」

悔しい、
自分の弱さが。

悔しい、
貴方のお傍にもういられないと諦めてしまっていることが。

何処が痛むのかさえもわからなくなり、意識が朦朧としてきた。腹に、また穴が開く。どくどくと脈打つ音さえも遠のいていく。狭まる視界の真ん中に貴方の背を見た。ごめんなさい。矛盾だらけの、ただただ弱い弟子でした。貴方はどうか生き延びて鬼のいない世で静かに生きて下さい。きっとそこに私はいないけど、心ばかりは置いてゆきます。
- ナノ -