月明かりを背負う
大学生になってから初めての春休み。バイトをしたり、旅行に出かけたり、自由気ままな休みを過ごしてた。部屋の模様替えをしちゃったりなんかして、ひたすら並べまくってた嵐山隊のグッズを見えやすく整えてみる。まあ、素材がよいのでただ並べても絵になるんだよなあ。
「紗希乃〜!今日こそマロの散歩行ってもらうからねー!」
「わかってるよー!」
「遅くなったら危ないんだからさっさと行ってきなさい!」
「はいはい」
実家暮らし様様な私は飼ってる犬の散歩を最近さぼりがちだった。散歩用のリードを手にしただけで、尻尾をブンブン振り回す可愛い子は黒い柴犬。まろ眉だからマロ。捻りがなさすぎると色んな人に言われるけど、この子可愛いから許して。赤い首輪にリードの留め具を装着して玄関へと向かう。今日は何だかやたらとはしゃぐね……?
「昨日お散歩行けなかったから喜んでるのよ」
はい、お散歩が長いコース決定。すこし暗くなり始めたから、なるべく早く引き返してこよう。
*
「なんで急に寝転がるんだお前はー!」
コンクリートに縫い付けられたように寝転ぶマロはびくともしない。さっきまでめちゃくちゃはしゃいでたじゃん!急に疲れないでよペース配分考えて!こんな道端で留まってたら駄目なんだよ。だってここ、警戒区域が目と鼻の先だもの。
「お願いだよ動いて。あとでおやつ増やしてあげるから〜!」
ほんの数メートル先からは一般人の立ち入りが禁止されている。入ってみたいなんて愚かな好奇心は持ち合わせていない平凡な一般人なので一刻も早く去りたい。むしろちょっと怖い。いつもはこんなとこまで来ないのに、マロの勢いに押し負けて近づいてきてしまった。しかも結構暗くなっちゃってる。ねえ、せめて抱っこされてくれ。コンクリートと一体化しようなんて意地をこんなところで発揮してる場合じゃ、
ギョロリ。
警戒区域内の建物の隙間に見つけてしまった。まるいボールのような、つやつやと輝く……大きな目玉。
「ひっ、」
私から見えるということは向こうからも見えているわけで。安全圏とはいえ、すぐそこにいる。境目なんてあってないようなものだった。大きな地響きに怯えるのは私だけじゃなくて、さっきまで溶けるように寝ていたマロが強く叫びながら唸り声をあげている。腰が抜けて立てなくなった私の前にで吠えていたマロは近づいてくる塊に向かって噛みつくように近づいた。そんな時、鳴り響く警戒サイレンを切り裂くような光が空に向かって伸びていく。……いや、ちがう。あの化け物を貫通して空に広がっていた。
「大丈夫か?!」
建物の屋根の上に立っているその人の声に耳が揺さぶられた。大きな化け物が倒れていく音よりも、はやく確実に届いたその声はテレビで何度も聞いた声だった。
「あ、嵐山准……!」
この日、警戒区域の境目で見た月明かりを背負う姿がずっと目の奥底に焼き付いている。メディアで見かけるような爽やかさをどこかに仕舞いこんだ真剣な眼差しに貫かれたのは、あの化け物なんかじゃなかった。強く揺さぶられるような感情に戸惑いながら思い至ったのはひとつだけ。もしこの出来事が恋のきっかけとなるのなら、それはもう確実に不毛なものとなるでしょう。ってね。私の目の前に降りてきて、手を差し出す嵐山准の表情は一方的に見慣れたものになっていた。ああ、吊り橋効果って本当にあるんだ。どうしよう!
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「よしよし。えらいぞ、ちゃんとご主人を守ろうとしてたな」
一体なにが起きているかって?話は単純で、ネイバーって奴にびびって腰を抜かした私にあの嵐山准が手を差し伸べてくれたけど、まあ立てない。女子隊員の応援が来るからとりあえず一緒に待とう!と爽やかに言った彼がとった行動が、なぜか、なぜか……!
「なんで隣りに座るんですかっ……!」
「ん?不安な時は誰かが側にいた方が安心するだろう?」
「いやまあ!そうなんですけど!そうなんですけどね!」
私の隣りに座ってマロをめっちゃくちゃに可愛がって撫でまわしてる。汚れちゃう、と声をかけても俺は汚れないよ、なんて話が通じない。隣りに座ってる私が汚れてるんだから同じく座ってる貴方も汚れるでしょ。
「この子の名前は?」
「マロです……」
「なるほど。まろ眉だから?」
「大正解です……」
「わかりやすい名前はやっぱりいいな。うちの犬はコロって言うんだ」
「……コロコロしてるから?」
「はは、その通り!」
慣れた手つきでマロと遊びながら、逃げないようにリードをしっかり持っている嵐山准が幻のようにしか見えなくて、何度も瞬きをしてみた。目を閉じたら月明かりに消えたりしないだろうか、なんてバカみたいなことを考える。遠くから、嵐山さんー!と複数の声が近づいてきた。着いたか、と立ち上がった彼が足にすり寄ってきたマロの背をゆったりと撫でつける。
「それじゃ、次は気を付けるんだぞ。吉川紗希乃さん?」
「はい、すみませ、…………はい?」
彼とは違う色の隊服を着た女子隊員が集まって来た。テキパキと指示を出しはじめたのを見ていると、フッと微笑んでから嵐山准は去っていく。
「お姉さん、立てますか?」
「ええと、たぶん……?」
「ねえ玲、やっぱり本部の医務室に連れてった方がよさそうじゃない?」
「でも嵐山さんは帰して問題ないって言ってたじゃない」
「そうだけど」
白っぽい服装の2人の女の子に支えられて立ち上がる。両肩を支えられながら立ってみたら案外歩けそうだった。
「なんとかなりそう」
「お姉さん、お家まで送りますね」
「すみません何から何まで」
「これも仕事のうちなんで」
「ところでひとつ疑問なんですけど……」
「なんですか?」
「……ボーダーの人って市民の顔と名前を憶えてるものですか?」
可愛らしい二人は互いに目を丸くして顔を見合わせた。名乗ってないのに私の名前がすんなり出てくるということは、ボーダー内でそういう仕組みができてないとおかしい。だから聞いてみたというのに、色素の薄いボブカットの女の子は、くすくす笑って「さあ?」とはぐらかすだけだった。さあ、って?
「嵐山さんに聞いておきますよ」
まるで次があるみたい言うんだね。彼も次は気を付けてって言ってたな。次?次ってなに。状況をしっかり飲み下せないまま、何だか楽しそうに笑う女の子たちに連れられて元来た道を辿る。キャンキャンと楽しそうについてくるマロは自分のせいでこんなことになったなんて微塵も思ってないみたいだった。覚えてろこのばか犬!