辻風

03.歪んだ葉脈は白を食む

真っ白な男の子。突然現れたその子に目を奪われて、さっきまでざわざわうるさかった胸の奥の何かが急にだんまりした。

「申し訳ございません、五条様!」

立会人が見たことないくらい深くお辞儀をしてる。相手が小さい男の子だから、それに合わせるならかなり頭を下げなきゃいけないからだ。私と繋いでいた手が簡単に離れていく。左手を顔の正面まで持ち上げて、手首に絡む輪っかを見つめた。ゆっくり、くるりと回っている。……大丈夫だったね。お祖父さまの教え通りに輪っかを見つめていたら、男の子が目の前まで来ていた。きれいなビー玉みたいな目がすぐそこにある。五条さまって、ずっと御三家の集まりに顔を出さない子か。

「なんで"抑えて"んの?」
「なんでって……なんで?」

立会人に訊ねても、お辞儀をしたまま動かない。もうそっちには五条さまはいないのに。何を抑えているのかを聞かれてるかは私でもわかった。私が持ってる呪力というものをこの子は何倍も多く持っているようだから。こんなに多いひと見たことない。きっと私なんて簡単にやられちゃうんだろうな。背中がだんだんすうっと寒くなってくる。立会人はまだ頭を下げていて、膝がふるふると震えてるのが見えた。きっと五条さまが怖いんだ。

「それ、取ってみてよ」

輪っかの形をした呪具を五条さまが指でつついた。くるん、と回転したそれはいつでも回ってる。これは取っちゃいけないって言われてるもん。思ったよりも小さい声が出ちゃって情けない。「誰に?」お祖父さま。「何のため?」何のため?何のためだったっけ……そういえば、去年までいた私の世話係だった子が言ってた気がする。

「将来の旦那さまに呪力をたくさんあげるために取っておかなくちゃならないの」

生ぬるい風が強く吹いた。着物の袖が舞い上がって、目の前の景色を遮断する。

「そうなんだ」

彼の声は笑っているように聞こえたけれど、顔はちっとも見えやしなかった。


*


「硝子センパーイ」

高専の中のとある一室。在中、と札が提がっているそこにノックもせずに入り込んだ。以前は煙草の煙が染み込んでいたここも、今となっては薬品臭いだけの部屋になった。お目当ての硝子先輩の向かいには同期の七海が座っている。

「あれ、七海じゃん。なになに〜怪我したの?まじ?」
「もっと怪我をしてる人に言われたくありません」
「やっと帰国したかと思えば何でお前は怪我してるの」
「呪具が飛んだから、傍に落ちてた鉄パイプ使ったら破裂しました」
「馬鹿か」
「馬鹿だった」
「呪霊潰してから弾けたんだから、機転が利いたと言ってほしいなあ」

治療が終わった所だったらしく七海は早速立ち上がる。「七海、30分安静」と淡々と指示を出されたら真面目な彼は従わないわけがなく、ベッドの置いてあるパーテーションの向こうに若干ふらつきながらも進んでいった。七海がいた椅子に代わるようにして座り、クマの濃い硝子先輩に向き合う。

「深いのは右頬と、右掌……前腕にも細かい裂傷がある」
「一番大きい破片が脇腹掠めたのでとりあえずガーゼあてました」
「……痛くないのか」
「そりゃ痛いですよ。何たって硝子先輩ガーゼぐりぐり押し付けてくるんですもん」
「余裕そうに見えるけど」
「うーん。痛いけど、死にそうなくらい痛いかって言われるとそんなでもないです」
「やっぱり出張前にも言った通り、痛覚が麻痺してるんじゃないのか」
「そういうわけじゃないですよ」
「だったらもう少し痛がれ」
「あっ、痛っ。ごめんなさい流石にこれは無理です」

七海とは反対側にパーテーションで区切られた向こうに並ぶ治療用の寝台へ横になるよう言われて、ジャケットを脱いでから指示された真ん中の寝台に横になる。血の滲むブラウスを脱ぎ捨てて、お腹に巻いていた包帯も全て解いた。下も血塗れだけど、特に怪我してないしいいか。治療道具を運んできた硝子先輩が眉を顰めている。きっと、この前怪我した鎖骨にある瘡蓋になりかけの傷を見ているんだろう。そう思ったら何だか痒く思えてきた。

「知らない傷跡がある……」
「言語が異なると呪霊の成り立ちも異なるのか予測困難な動きをするモノも中にはいまして」
「つまり、余裕ぶっこいて痛い目を見たと」
「ご名答」

あ、痛い。脇腹に消毒液をバシャバシャかけられている。硝子先輩には修復できる限り治療を施してから治してもらうのが常だった。部分麻酔をされているそうなのだけどよくわからなくて、とりあえず思いつくまま硝子先輩に話しかけた。

「いつも相手にしている呪霊が呟く言葉は日本語であるという認識が、もしかすると自分の勝手な思い込みにしか過ぎないのでは?なんて思ったことありません?」
「ない」
「私、昔は本くらいしか情報がなかったからそんなことを捏ね繰り回して考えてたんですよー」
「暇だったんだね」
「それはもう。まあ、結論から言うと呪霊に言語獲得のような人間らしい学習能力があるとするなら、アメリカにいた奴らはまさしく第一言語が英語ですね」
「ふうん」

右の掌が脇腹と同じくらい悲惨で、裂傷がいくつもあった。大きな欠片は取り除いたけれど、小さな物が残っているらしく、硝子先輩がピンセットでひとつずつ拾っていた。掌の皮が引っ張られるような、ぴんと動く感触と、くすぐったい感覚を受けながらぼーっとする。だんだん眠くなってきたけれど、これは危ない眠さじゃなさそうだった。少しくらい、いいか。意識が落ちていくのを自覚しながら私は眠りについた。

「家入さん」
「ん?待って、いま縫合始めたところ」
「出てこなくていいです。30分経ちましたので帰ります」
「きっかり30分……。紗希乃に伝えることはある?」
「ないです」
「厄介なの相手してるんだったら明日後方支援いけるか聞いとくけど」
「五条さんが面倒なので却下で」
「あいつが面倒なのはいつものことだろう」
「だからこそですよ」
「こちらの報告も兼ねて五条さんに連絡を取りますが、この件については?」
「あー。紗希乃の着替え持ってきてって言っといて。血塗れで着れたもんじゃない」
「わかりました」
 

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