辻風

渋谷事変A

「悟を取り返せなかったその時は……」

小さな声で学長の言葉を反芻した。呪術界のパワーバランスが崩壊する。悟が強さと引き換えに押さえつけていた色んなものがあふれ出して、これまで潜んでいた者たちが我が物顔でそこらを練り歩くようになる。それだけで済めばいいけど済むわけがなかった。悟が守ってくれていた人たちの立場なんてものはもう足場からなくなるな。つまりは夜蛾学長とか私が筆頭なんだけど。七海はギリなんとか残れるとして……伊地知君は意識が戻ったらすぐにどこかへ逃がそう。冥さんにいくら積めばいいかな。学長が硝子先輩を見て口を噤んだのはきっと聞かせるべきではないと考えたから。どの立場にいたって硝子先輩は手放すのが惜しいだろうし、敵に取られさえしなければ安全の保障がある。

「悟……」

悟を封印できるような強さの敵がいる。しかも敵はそれだけじゃない。封印されたと聞いて、封印を解けばいいじゃないなんて軽く思えなかった。死に物狂いで奪い取りに行けばよかったのに。私の手が届かなくても誰かの手が届く手助けはできたはずなのに……置いて行かれたと思ってしまった。置いていかないって言ってくれたのにね。悟からの勝手に死ぬなという言葉を守るのならば、私は今すぐここを離れるべきだ。東京を出て、何なら日本すらも出る必要があるかもしれない。だけど、それに何の意味があるんだろう。誰も彼も闘ってる。命を落とした人もいる。ここで来るかもわからない敵を想定して立ち竦んでいるだけでも、この戦いに参加をしている呪術師のひとりだった。

生き汚くなるには大事にしたいと思えるものが増えすぎてしまったね。あの日の、悲しみに暮れていただけの私であったなら、悟に言われた通りに自分のことだけを選択していたのかもしれない。

終わりが近づいている。これまでの安寧も、この戦いも。

きっと誰もが想定できない事態がこの先に待っている。私はどこまで何をしていけるんだろう。

「はやく帰って来てよ」

そうじゃないと、私は貴方を置いていかなきゃいけなくなるよ。
 

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