辻風

渋谷事変@

生き汚くなれと、死を簡単に受け入れるなと言われた。唯一信頼のおける悟がそう言うのならと、自分なりにそれらしく生きようと努めてきた。

「五条先生があっ」

生きることへの執着を一度手放してしまった身としては、強制的なその約束がなければきっとすべてを諦めることに何も抵抗はなかったんだろう。

「封印されたんだけどー!!」

帳の降りた薄暗い空に彼の教え子の声が広く響き渡る。何かの勘違いなんじゃないかと思う甘ったれた考えと、悟を封印できるような手段を持つ敵がいることへの恐れ、それから――……。重りが突然外れたような感覚にバランスが取れなくなってたたらを踏んだ。転ばずにいられたけれど、一歩進んでしまえば階段の踊り場から落っこちてしまう。手すりを掴んでなんとか踏みとどまった私を呼ぶ学長の声が聞こえた。階段を下りてくる学長の後ろには硝子先輩の姿がある。

「吉川!大丈夫か!」
「……大丈夫です」

そう、大丈夫だ。取り乱しも泣き喚きもしてない。混乱してるのかっていわれたらそうかもって言えるくらい。私が落ちたりしないように学長が降りてきて肩を掴む。置いていかないでと常々言い縋っていたわりに落ち着いてさえいる自分の行動がすこし信じられなかった。……あぁ、そっか。そういうことだ。心のどこかで、何となく、ほっと息づいた自分がいた。ちゃんと生きなくてはと思っていた気持ちが、緩んで落ちていってしまった。

「死ぬなよ、紗希乃」

帳の降りた薄暗いそこで私を見下ろす硝子先輩の疲れた顔がやけに眩しく見えてしまった。


*

当初は日下部先生と合流する予定だったのが、今は硝子先輩の隣りで手伝いをしていた。首都高速の渋谷料金所に作った仮設治療スペースの中で、猪野君と伊地知君の治療で使った道具をひとまとめにして密封できる袋にいれている。簡易的なものだけのここには洗浄して消毒するような設備はない。この戦いが終わったら高専に帰って、硝子先輩がいつものように片づける。付けなれない医療用のグローブのせいで袋がうまく閉じられているかわからなくって、何度も何度も何度も袋の口に触れて確認した。

「大きな音がしてますね」
「……向こうは派手にやっているらしいな」

治療を終えて、簡易ベッドに寝かせた2人の様子を見ている硝子先輩は返事だけくれる。ここにいても邪魔だ。外見てきます、と声をかけて、治療スペースを隠している幕の外へと出た。ぬいぐるみとしては可愛くない見た目とサイズ感の呪骸が、緩慢な動きでこちらを一瞥した。味方であると認識しているが故のその動きにすこし笑ってしまった。……彼が封印されたことで一体誰まで味方として機能してくれるんだろうか。

「治療は済んだのか」
「概ね。硝子先輩がまだ見てますよ。今、私の呪力を受け入れる体力は2人になさそうです」
「そうか。だが、まだここにいろ」
「うーん……いたところでって感じですけど?」
「硝子を取られたらそれこそ終わるぞ」
「それには同意ですよ。ただ、呪骸もいるし先生もいるなら私はいらないのでは?」
「被害が2人で済むとは限らんだろう」
「……ここまで耐えられるのが何人になるかって話ですかねぇ」

轟音が渋谷の街から溢れていく。大きな呪力を持つ何かがあっちへそっちへ動き回っている。1級なんてもんじゃない。明らかに特級レベルのそれが大騒ぎしていた。そんなのを倒せるのなんて一人しかいなかったじゃない。

「これからどうなると思いますか」

街が燃えている。音が鳴りやまない。あの喧噪のど真ん中にいるだろう同期や後輩たちのことを考える。悟を封印できるほどの力と手段を持っている敵に彼らは……

「悟を取り返せなかったその時は……」

学長の声が途切れる。視線を辿った先には、治療スペースから出てきた硝子先輩がいた。

「派手な音がしてるな」
「……この後は大変ですよ、硝子先輩」

硝子先輩が動いたのに合わせて料金所の上に座っていた呪骸がのっそりと動き出す。もしもの時に備えているのか、なかなか不安定なところに足を伸ばしていた。歩きながら白衣のポケットから煙草の箱を取り出した硝子先輩を見て、なんだか懐かしくなってしまった。私の思っていることは筒抜けだったらしくって、1本だけ取り出した煙草を先輩は見せびらかすようにゆらゆら揺らして、小さく笑った。

「私、反対側見張ってますね」

煙草に火をつけた先輩の隣りに学長がいるのなら私はそこに必要ない。頷く学長の隣りで、硝子先輩は「ここにいたらいいじゃん」と煙を吐いた。そうもいかないんですよ。これからのことを考えなくてはいけなくなっちゃったから。なんて言えずに首を振るだけに留めておいた。
 

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