辻風

11.縹色は未来を映すか

「あれ〜、七海もう行くの?」
「そろそろ時間ですから」

読んでいた新聞を片付けて、ソファから立ち上がった七海はスーツについた皺を伸ばしていた。ゆっくりすればいいのに。カツカツとパンプスの踵を鳴らす音が聞こえる。ひょっこり現れた紗希乃に、七海はわかりやすく眉を顰めるし、悠仁はソワソワし始めた。

「あれっ、七海もう行っちゃうの?」
「おかえり、紗希乃」
「ただいま〜。待ってよ、七海。こないだ渡してないお土産あるの」
「いりません」
「硝子に渡したんじゃないの?」
「先輩いらないって言うの。だから七海にあげる」
「尚更欲しくありません」
「歌姫に二つあげればよかったじゃん」
「学長と話してて歌姫先輩には結局会えてないんだもん」
「もういいですか、私はもう行きます」
「え〜。じゃあ今度ご飯行こう」
「五条さんと行ってください」

ひらりと躱されて、例の人形の在庫が捌けなかったらしい紗希乃が少し不貞腐れながら戻ってくる。

「悠仁。紹介するよ。さっき話してた僕の奥さん」
「初めまして、悠仁くん。準1級呪術師の吉川紗希乃です。よろしくね」
「よろしく!えっと…紗希乃さん、でいいかな?」
「うん、もちろん!」

紗希乃が差し出した手を悠仁は何とも思ってないのか普通に握り返そうとしている。さて、先に伝えた僕の言葉を聞いて宿儺はどう動くだろうか。紗希乃と悠仁の掌が触れそうになったその時、バチン!と大きな音をたてて掌同士が離れていく。

「えっ?!」
「ごめんごめん、ちょっと大きくしすぎた」

シュゥゥと煙の出ている自身の掌をさすりながら、紗希乃が謝っている。そんなことに気づきもしない悠仁は、自分の掌に現れたひとつの穴……宿儺の口に文句を言ってる。掌を握ってから開く。数回繰り返した紗希乃はニッコリ笑った後にゆるく左右に頭を振った。

「オイ!さっき五条先生に紗希乃さん食うなって言われただろうが!」
「ちょっと悠仁ィ〜さっき念押ししたよねぇ」
「ほらみろ!」

自分の掌に向かって話す悠仁の声から逃げるように、今度は彼の左頬にパカリと開いた口を見て紗希乃が笑っていた。どうやらツボにはいったらしい。

「そこの女が差し出して来たから食ってやっただけだ」
「えっ、差し出…なんて?!」
「あっはは!勝手に出てくるって本当なんだね、すごーい!」
「いやあの紗希乃さん、笑うとこじゃないっつーか」
「ンフフッ、ごめんねぇ悠仁くん。ちょっと試させてもらったの」
「紗希乃の術式は呪力譲渡に関連するモノなんだよね」
「呪力譲渡……?」
「うん。目利きの良い上級の呪霊からしたら、紗希乃は利用価値があるように見える」
「ぱっくり食べられたことはないから実際に食べられてどうなるかは確信がないけれど、まあ食べられそうになることはたまにあるんだよね」
「それで宿儺に食べるなって…いや、でもこいつさっき食ったよ?!」
「お、わかる?っつーか、わかるくらい食べた?」
「触れる擦れ擦れで掌に呪力集めて準備してみたんだけど、ちょっと大きくしすぎちゃって」
「何か身体の中心がじんわりするっていうか……」
「フム。その程度なら大したことないな。ドーピングってほどでもないよ」
「そうだね。どうでるか見たかっただけだから宿儺を怒らないであげてね、悠仁くん」
「お、おう…?」

宿儺は宿儺でひとこと言っただけで悠仁の中に引っ込んでいった。差し出して来たかどうかわかるってことは、やっぱり紗希乃の術式に何らかの感じるところはあるらしい。……すこし面倒かもしれないな。

「紗希乃」
「なーに」
「この前教えた特級覚えてる?」
「ファンシーなやつ?」
「それそれ」
「覚えてるよ。ちゃんと気を付けるから、平気だよ」

もう時間だから、とひらひら手を振って紗希乃は高専を後にする。お土産の人形忘れていったけど、家に置いといても仕方ないから僕が有効活用してやるか。元々、悠仁のサプライズに使う予定だったからそれに追加しておこう。

*

吉川の離れには、紗希乃の部屋と広間、世話係の部屋に空き部屋、小さな台所とそこそこ広い風呂とトイレがある。つまり普通の平屋の民家のような建物だった。紗希乃の兄貴と取り引きをしてから数年、俺は今も正面から堂々と会いに来てる。紗希乃の部屋は一番奥。そこに行くまでに広間の前を通るわけだけど、今日はいつもと様子が違った。襖が全部開け放たれていて、外壁しか見えない縁側の外までも丸見えだった。濡れ縁から数えて3畳くらいの畳の上に本がたくさん並べられてた。その中でも1冊、禍々しい空気を纏う本が1冊あった。

「さわっちゃダメ」

着物を着た紗希乃がさらに本を抱えながら広間に現れた。虫干し中だから、と今持ってきた本を床に置きながら、紗希乃はまた「それはさわらないでね」と念をおしてくる。

「それ良いもんに見えないけど」
「うん。良いもんじゃないからさわらないでね」
「ハァ?だったらすぐ祓った方が良くない?」
「祓ったら読めなくなっちゃうかもだもん」

人には触るなと言いながら、しれっと手に持ってパラパラとめくった。古びた紙はボロボロで、文字なんかなんて書いてあるのかさっぱりだった。

「これね、うちの先祖の日記なの」
「何て書いてあんのか読めんの?」
「ちょっとしか読めてないんだ。だって難しいんだよ、これ」
「お前の爺さんに読んでもらえば?」
「そのお祖父様から頂いたんだもん。それに、お祖父様は私にそんなことしてくれない」

堂々と通うようになってから気づいたことがある。吉川の爺さんもこいつの兄たちも何だかんだと気にかけてんのに、本人にそれを見せてやらない。紗希乃はあんまり好かれてないと思っているからそのつもりで接するし、あの人たちもそれをわかって接してる。マジで意味わかんねぇ。紗希乃のことを一番よく思っていなさそうなのは実の父親だし、その周りがきな臭いのはわかりきってるだけに余計わからん。俺には紗希乃のことを気遣うのに本人にはしてやらないなんて。禪院も加茂も最近はあまり大きな動きを見せてない。通い続けた俺の勝ちなのか、まだまだ腹の中で何か企んでるのか……。

「そうだ、悟。こっち来て」

本と本の間をひょこひょこ跳びながら、縁側の方へと向かう紗希乃を追いかける。追うと言っても、最近どんどん背が伸びて、紗希乃のつむじなんか余裕で見えてしまうくらいには差があるもんだから、ほとんど歩きもしなかった。西日の差す濡れ縁に座らされて眩しい。隣りに座って俺に見えない位置でゴソゴソしてる紗希乃に、後ろから手を伸ばしてみる。ひゃあ、と驚いた拍子にばらばらと宙に浮いた何かがこっちに飛んできた。

「糸?」

術式で宙にピタリと留まったそれらは色んな糸の束だった。驚かせたことに怒った紗希乃が次々と糸束を投げてくるけど、全部目の前で止まっちゃうし、手持ちはそこまでなさそうだ。

「もう!そういうことばっかり!」
「俺に隠し事するからそーなんの」
「ちょっとの間だけじゃん!」

術式を解いてばらばらと落ちていった糸束を紗希乃はひとつひとつ拾って、膝の上に並べていく。「これかなぁ…いや、こっちか?」ひとりでボソボソ呟きながら何か正解を探してた。それから3つくらい手に取って西日にかざしたかと思えば俺の顔をじっと見た。

「悟は春になったら高専に行っちゃうでしょ」
「え?まぁ、行くけど」
「だから、お守り作ってあげようと思って」
「お守りィ?俺、守られなくても平気なんだけど」
「知ってるけど。平穏に過ごせますようにって」

ほら、と西日にかざす糸を見るように肩を引っぱられる。

「悟の目の色とおんなじだよ」

縹色に浅縹色、それから白を混ぜるんだ。嬉しそうに笑って紗希乃は糸をゆらゆらと振っていた。やけにきらきらと輝いて見えるけど、自分の目がそんな風に見えたことなんて一度もない。紗希乃から見たら、俺の目はこんな風に見えてるのかと思ったら胸の奥がむずむずと騒ぎ出す。

「悟、縹色知らないでしょ。全部青とか水色って言っちゃうタイプ」
「はなだ色なんて知らねぇもん。なに、花?」
「糸編に伝票の票で「縹」だよ」
「水色は水色じゃん」
「和色だもん。日陰だったら、縹と薄縹を混ぜてもいいけど日が当たってる時の色の方が好き」

庭を駆け回るのが楽しかった幼い頃は、何の彩りも楽しみもないこの庭を二人で手を繋いで走り回ったもんだけど、さすがに14にもなればそんなことはしなくなっていく。会いに来たって、あの部屋でごろごろ他愛もない話をしてるだけ。俺が来てからある程度時間が経ったら世話係が様子を見に来る。ほら、もうやって来た。今年の冬には俺も15になって、春からは高専に行く。物理的に遠いから、今ほど会いには来れないけど、できる限り来ようと思ってる。そうじゃねぇと、周りの奴らがどう動くかわからん。

「紗希乃も高専に行けるようになったら、どっか外に遊び行くか」
「わぁ、いいね。どこがいいかな」
「たぶん行きたいとこに行く前に外に出る練習からだろうけどね」
「山手線っていうのに乗りたいな」
「なんで??」
「本に出てくるから」
 

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