春べを手折れば

離れ離れはもうこりごり

自分の頭が誰かにゆったりと撫でられているのがわかった。今は視てない。本当に、自分の感覚だけで気づいた。こんな風にやさしく撫でてくれるのは一人しかいないんだ。

「……」
「……おわっ、起きてたの紗希乃」
「いまおきた」

ぼやけた視界が明瞭になるにつれて、自分がどこにいるか気づく。開発室に用意してもらった私用のデスクで、書類に顔面を押し付けるようにして眠ってた。皺のできた書類と、赤くなってるだろう額。時計は夜の22時を回っている。

「鬼怒田さんが紗希乃運べってうるさくてさ」
「運んでくれてないじゃん」
「抱えても良かったけど、体重がどうのってどうせ騒ぐだろ」
「トリオン体だったら騒がないよー」
「生身で寝てる人間をどうやって換装するんだよ」
「ふーむ。確かに。今後そういう技術も必要になってくるかもしれないね」
「今んとこ必要なさそうだけど」
「今は、ね」

嵐山にこの前言われた言葉の答えはまだ出てなくて、悠一の顔を見てもやっぱりわかんない。どうなりたいかって難しいよ。未来のことなんてわからない。今しか視えない私は、今に憑りつかれてるみたいで、今後のことなんてこれっぽっちもわからないや。

「こないだはごめん。急に防衛任務はいってさ」
「知ってる。生駒が土下座して謝ってきたもん」
「前に何度か生駒っちには任務代わってもらってるからさ〜」
「私は全然構わないんだけど、桐絵はまだ怒ってるんだって?」
「あー、まあ。怒りの矛先は変わったみたいだけど」
「ふーん」

皺のついた書類を指で何とか必死にのばす。後で出力しなおすか…いやでも鬼怒田さんにバレたら面倒だな。経費削減にうるさいおじさんの目につかないようになんとか皺をのばしておこう。立ったままだった悠一が近くから椅子をカラカラと引っ張ってきて横に座る。

「それ、次の遠征の?」
「うん。エンジニアは乗れないし、冬島さんも行くけど念のために私も遠征艇のシステムいじれるようになっておけってさ。たぶん、今回私は外よりも中に籠るのが多くなりそうだし」

本来の遠征の目的に追加されたことがある。一部の人間しか知らない極秘任務は、近界に持ち出されたボーダーのトリガーを探すこと。だだっ広い近界で見つかる可能性なんてとっても少ないけど、やらないわけにはいかない。探して探して、反応があれば風間隊に回収してもらう。たったそれだけの任務だけど、とっても果てしなくて重要な任務だった。私に課せられた極秘任務の内容は悠一にも聞かされてないはず。それなのに、急に神妙な面持ちになって悠一は何やら考え事をしている。まあ、密航の件を知ってたら思い当たるか。

「無理だって思ったらすぐにやめて休むようにして」
「はいはい」
「本当にさ、冗談抜きで」
「何か視えてるの?」
「……視えてないけど、心配なんだよ」

まただ。また、揺れてる。綺麗な水色の瞳がぐらぐらと揺れていた。不安定なそれを見ていられなくって、また手で隠したくなる。……でも、隠したって駄目だ。この目を、この顔をさせているのは私だ。三門市の未来でも、ボーダーの未来でも何でもない。伸ばした手は何にも触れず、ゆっくりおりてゆく。

「……私、悠一の傍にいない方がいいんじゃ、」
「は……?」

ボーダーの未来に関わるからと、まずは玉狛から離れてみた。いい線行ってるって悠一は笑ってくれたけど、それはどれくらい?不安要素はまだ残ってるんじゃない?私が辞めて、もしくは死んで、悠一を一人にしてしまったら。それをずっと気にしていたけれど、それがそもそもの間違いだったんじゃないかな。

「ボーダーの未来と私ひとりを天秤にかけたら傾くべきなのはボーダーなのに、悠一は優しいから迷ってしまうね」

貴方がいつも選んで未来を導いていることわかってるよ。だから、切り捨てられても諦められてもちゃんとわかってる。責めたりしないし、必要以上に守ってほしいとも思わない。私は似た力があるからと依存してここまで来てしまった。守ってほしいんじゃなくって、力になってあげたかった。それなのに力になるどころか、私は悠一の不安要素になってしまってる。ぐらぐら揺れるのは、悠一の瞳か私の瞳か。大きな手のひらが、力強く私の肩を掴む。刺さって抜けなくなってしまうんじゃないかってくらい、力を込められた両肩がぎしりと軋んだ。

「あのさ!」

俯いていて、表情が見えない。切羽詰まった声に身を固めていたら、両肩を掴む力がすこし和らいだ。

「お願いだから、そこにいて」

ゆっくり持ち上げられたそれは、滅多に見ることのない下手くそに笑う悠一の顔だった。

離れ離れはもうこりごり


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