憧憬/降谷零


タイミングは大事です ★


「あちゃん!」
「えっ」
「そうだねぇ、哀ちゃんだよ」
「あーちゃ!」

小さい紅葉みたいな手で掴んだお気に入りのぬいぐるみをぶんぶん振り回しながら私に向かって声を上げた。喃語を話すようになってから少し。会うたびに発する声の種類が増えているなんて観察めいたことをしていたわけだけど、ここに来て一足飛びに名前を呼ばれた。

「ちなみに言っておくけど、はっきりと発語してるのは"ママ"に次いで君の名前が2番目なんだ……」

リビングの入口で壁に寄りかかりながら遠い目をしている降谷零は見た事のない哀愁を背負っていた。そんなの私に言われたってどうしろって言うのよ。

「千景、パパは〜?」
「ん!」
「そうそう、パパはあっちにいるね〜」

紗希乃さんに父親がどこにいるか聞かれたその子は、持っていたぬいぐるみを降谷零の方に差し出すように腕を伸ばしてる。

「わかってないわけじゃないんだけどね……」
「写真見ると、"パ"って言うんだけどなあ」
「写真が本物で、本物を似てる人物だとでも思ってるんじゃないかしら」
「それはそれで悲しいぞ」

尚も差し出そうとしている娘からぬいぐるみを受け取って「はい、ありがとう」としっかりお礼を言っている姿は、かつて喫茶店の店員をしていた時よりも自然なやりとりだった。あんまり行かないようにしていたからそこまで見た事があるわけじゃないけれど、わざとらしい笑顔を作って小さな子供に接していた時よりも自然体になっている。

「それじゃ、この子を頼むよ」
「ええ。預かるって言っても隣りの部屋には紗希乃さんがいるし、大したことじゃないわ」
「見ててくれる人がいるだけで違うんだよほんとに!いくら感謝してもしきれない!」

降谷零は出勤して、紗希乃さんはリモートワークをする。子供のいる環境で仕事をするのは難しくって、彼女の実家に預けたりもしているようだけど今日は都合がつかなかったみたい。紗希乃さんたちの事情を知っている上で安全を確保できる人物と認識されてるのがちょっとむず痒い。もっと私が大人だったらよかったのに、とこういう時ばかりは思ってしまう。いくら信頼が厚くて、本来の年齢を彼らが知っているとは言っても所詮は小学6年生。できることなんてたかが知れてる。そして、それも彼らがちゃんと理解してることもわかっている。

「ほら、いってらっしゃいってするのよ」
「しゃー?」
「そうよ。あなたのパパがお仕事行くんだから」
「……」
「何よその顔」
「……いや、この子がもっと大きくなったらこんな風にパパって言ってくれるのかと思「さっさと仕事に行きなさい!!」
「は〜い、零さん出発ですよほらほら」

ぐいぐいと容赦なく背中を押している紗希乃さんの様子を見て、千景ちゃんがきゃっきゃと喜んでいた。……しょうがないわね。完全に抱きかかえるのはもう重たくて難しいから、お腹に手を回して千景ちゃんを持ち上げる。それから玄関の方に行った二人を追いかけた。重たくなった赤ちゃんをえっちらおっちら運んでみれば、玄関のドアに手をかけた降谷零が名残惜しそうにこっちを振り向いた。

「いってらっしゃい〜」
「ほら、いま言うのよ。いってらっしゃいって」

さっきは「しゃー」って言ってたからたぶん理解してるはず。もう一回言ったらあなたの父親は喜んで仕事に行くだろうから言ってあげなさい。ほらもう行っちゃうわよ。扉が閉まっちゃ、

「ぱーぁ?」
「えっ、今言うの?」

中に戻ろうと扉を全力で開けようとする降谷零とさっさと締め出して仕事に行かせたい紗希乃さんの攻防が始まってしまった。

「もう一回だ!ちゃんと対面した状態で聞かせてくれ!」
「頼みますから仕事に行け〜〜〜!!」

わかってやってるわけないけど、楽しそうに手をパタパタ動かして喜んでるのを見てるともしかしてと思ってしまう。

「いい?そういうのはね、ここぞって言うときにやるものなのよ」
「うんー?」




タイミングは大事です ★

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