馬鹿騒ぎ
81 急ぎ足を引き止めて
「なーなー、リアは知ってるか?シンエンさんって人のこと!」
「シンエン?知らないわ。この辺りで有名な人?」
「東洋じゃ知らない人は一人もいないと言われてるらしい!」
「へえ、」
「でもなあ、オレたちも知ってしまったんだ!と、いうことはミリア!」
「アメリカじゃ唯一の情報を握ってるってことだねアイザック!」
「そーいうことさ!よーし、今から情報屋に売りにいくぜ!」
「でもアイザック、そんな貴重な情報を売ったら東洋の人に怒られちゃうかも…」
「はっ、そうかミリア!これはシンエンさんのプライベートな情報だから売ったら大変なことになるかもしれない……!」
「いや……東洋の人がみんな知ってるのなら個人情報でも何でもないんじゃないかしら」
「みんなで渡れば怖くないってやつだなリア!」
「すっごーいアイザック物知り〜!」

さっぱり何のことかわからない。ここは蜂蜜の香りが漂う"蜂の巣"の店内。盛り上がっているアイザックとミリアの隣りでカウンターに座り、彼らを面白そうに眺めているロニーさんに説明するよう求めると聞きなれない言語で何かを呟いた。

「Jenseits von Gut und Böse」
「……どこの国の言葉ですか?」
「ドイツだ。訳は"善悪の彼岸"」
「ああ、ニーチェでしたっけ。すこし前に死んだ」
「知っていたのか」
「これでも本を読むのは嫌いではないんですよ」
「ほう。貴族の娘らしくきちんと教育が施されていたらしい」
「よく言いますねえ。その教育が行き届いていたのならとっくの昔にこの命はなくなってるわ。それもちゃんと人間としての生を全うしてからね」

何節目に入っていたかしら。"深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ"という言葉。アイザックとミリアはこれの東洋の言葉に訳したものをヤグルマさんから教えてもらったらしい。それでなぜか人の名だと思い込んでいるようだった。

「お前は深淵を覗いて怪物に飲み込まれるか?」

試すような表情で笑う悪魔に何も言えずにいると「まあいい、」といつもの口癖を溢してから立ち上がる。

「やはり人間は面白いな。今のお前だったら、飲み込まれないと言い切るだろうと思ったのだが」
「……」
「何も言えずに悩むということは、飲み込まれないと思える何かがあるんだろう。よかったじゃないか」
「……ハア。悪魔に言われたくないです、そんなこと」
「何を怖がる必要がある」
「べつに、怖くなんて……」

いや、本当のところは怖がっているだけなのかもしれない。自分が喰べてきた人間たちの記憶と、未だに見つけられないあの女。あの女を追うことだけに集中していた頃はまだよかった。他のことなんて見向きもしなかった。それが今はどうだ。温い、やわらかい、あったかい。この世界はわたしに優しすぎる。初めは物珍しい空気に当てられてふわふわしていたけれど、時が経つにつれて胸のどこか奥がぶすぶすと燻っていく。

「もう一人じゃないだろうに」
「誤解してますよ、ロニーさん、」

一人じゃないからこそ悩むんです。この優しすぎる世界に終わりが来てしまうんじゃないかと、不安が大きくなっていくんだ。NYに来てから1年近く経った今でも悩みが尽きない。

「でも、飲み込まれそうになる時に助けてくれる人がいると知っているだけで、ちょっとは気が楽ですね」

ただ、自分の弱い所を見せるのが未だにわたしには難しい。何百年もやってこなかったことなんか簡単にできやしないのだ。そして、それをラックさんが理解していることも歯痒い。無理に近寄らず、そっと傍に寄り添ってくれる。それがどうしても申し訳なくて、時々離れていきたくなる。それなのに、隣りにいると安心するし、嬉しくてたまらない。矛盾した気持ちが交互に押し寄せて来て、思考停止しそうになるほどわたしは胸が苦しかった。

「離れていくのは流石にあの男も許さないと思うが」
「心読まないでくれませんか!」
「人間は悩むと口数が減るのだと思ってね」
「わたしで遊ばないでください」
「だったら、私の前では何も考えず何も感じず機械のように振る舞ってみろ」
「〜〜っそういう無理難題を押し付けるのもやめてほしいわ」

カウンターの端でずっと騒ぎ続けているアイザックとミリアを一瞥してから、ロニーさんはニヤリと笑った。そして、「お前たちは良いものを持っているだろう」と呟く。良いもの?

「それは、"時間"だ」
「時間?」
「例えば、今のお前とあの男と似たような状況の普通の人間がいたとする。おそらくその二人は今世では結ばれないだろう」
「……」
「なぜなら彼らには時間がない。悩んでいる暇があるのならさっさと見切りをつけて子孫繁栄ができる相手、もしくは自分に安寧をくれる相手を探した方が短い人生が豊かになるからだ」

だが、この先の膨大な時間が待っているお前たちは何年かかろうが何十年かかろうが自分たちの思い描く最善を尽くせるだけの余裕がある。

「だから、何も急ぐ必要などないはずだろう?」

一時の感情だけで全てを判断するな、そう付け足してからロニーさんは"蜂の巣"から出て行く。何も言葉を返せないまま、一人置いていかれた。

「急ぐ必要はない、か……」

200年も生きていて当たり前のことなのに、改めて目の前に掲げられると新しいことのように感じられた。

「なんだリア、何か急いでたのかー?」
「急いでるなら早くやらなきゃ!」
「そうだぞ早く!あれ、でも何をするんだ?」
「えーっと、リア、どうするの?」
「急いでたけど、急がないように気を付けようと思うんだ」
「つまりリアはせっかちな性格を直そうとしてるってことだな!」
「意識改革ってやつだね!」
「脱・せっかちー!」
「脱・せっかちー!」

何度も繰り返してわたしの周りをくるくる回る二人に思わず笑いが零れる。思うだけじゃ、まだまだ急いでしまうだろうけど、ゆっくり生きていけるように気をつけていくことにしよう。せっかく、あの悪魔さんが相談に乗ってくれたようだからね。

_81/83
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT


[ NOVEL / TOP ]
- ナノ -