馬鹿騒ぎ
74 記憶を紐解く右手首
暗闇の中で蹲る。私は頭の天辺を両の掌で覆って、膝に顔をうずめた。いい年をした男がまるで幼子のように縮こまっている。しかしこれは仕方がないのだ。こうでもしなければ自分を守ることはできないのだから。押しては寄せる恐怖の波に掬われぬ様にさらに体を小さく縮ませる。少しでも心を乱してしまったら持って行かれてしまうのだ。頭の天辺を覆う自分の掌なんて簡単に引き剥がされて、聞き分けのない子を無理やり宥め賺していくように頭を撫ぜられて…そしてそのまま、その手の内に流されてしまうんだ。その右手の内側の一部になってしまうのだ。暗闇の中、とつぜん目の前に真っ白い手がすうっと現れる。さっきまで恐れていたそれを私は気が付けば凝視していた。おかしい。本当に私が恐れていたものはその右手なのか?銃もナイフも手にしていないただの右手にわたしは何を恐れていたんだろうか。そんな年若い女のような細腕じゃ私の首は締上げられないだろうし、殴られたとしても両の手がある私にはそれを捻り上げることなんて容易い。なんだ、何も恐れることはない。

「なあ、お前はどう思う」

いつの間にか真っ暗闇から抜け出していたらしい私にこそこそ耳打ちしてきたのは幼い頃から苦楽を共にしてきた男だった。なんだお前、いつの間に痩せたんだ。それじゃあまるで若い頃のお前みたいだな。そう言って肩をこづいてみたが、男はまた「どう思う」と尋ねてくるだけだった。そういえば、お前は若い頃こそ私を頼ってくれたけれど年を重ねれば重ねるほど何も尋ねてくれなくなったような気がする。

「これはまるで夢物語のようだが、実現すれば俺がボスになった時に最高のパフォーマンスをしてくれると思うんだ」
「何の話だ?」
「とぼけるなって…俺たちがこのファミリーを変えていくんだって約束しただろう。親父の老い先はもう長くない。つまり、俺はもうすぐボスになるんだ。アントーニオだってもう10歳になるんだぞ、そろそろ父親の威厳を見せてやらないといけないだろ」

もちろんお前は俺の右腕さ!そうやって快活に笑う顔を最後に見たのはいつだろうか。互いに生まれも育ちもマフィアではあったが、年を経るにつれドロドロとした抗争や思想、弾圧…さまざまな問題にぶちあたっては遣りどころのない不安を内に秘めていたため、ふと気が付けば意地の悪い顔をした老いた顔になっていた。この時はよくも悪くも、ただの尻の青い若造だった。リスクも何も考えない、ただの大ばか者だったのだ。

「女っていうのが少し引っかかるが、利用価値はある」

なあ、どう思う?何度目かのその問いを、どう答えていたら良かったのだろう。あの時確かに脳裏を掠めた一抹の不安を信じるか、未来を夢見る冒険心に踊るか。結果として後者を選んでしまった私たちは、本当にツケを払うことになってしまったらしい。

「裏切られた!くそ、あの女…!ウチのファミリーを良いように使うだけ使ってそのまま消えやがって。しかも何だ、置いていったのは出来損ないばかりじゃないか!」

目尻の皺が増えたんじゃないか。声を荒げる友人の顔を見て思った。周りを見回してみると、別な部屋にいた。この部屋の方が目新しいな、そうだ、この頃はまだ、ボスになった祝いにアントーニオが金色の紙で作ったメダルを壁にぶら提げていたな。もう既に埃をかぶり始めていたそれを見て思ったのは、あの女が出て行ったのはこんなに後だっただろうかということだった。夢心地でいられた時間はとても短かったのだ。あの女がもたらした夢はすぐさま消えていった。残ったものは膨大な失敗作とできの悪いらしい研究員だけだ。そういえば、

「最近、レニーの奴を見ないがどうしたんだろう。もうすぐ子供が産まれると言っていたが」
「……」
「ボス?」
「レニーは田舎に行ったんだ。あいつの妻は東の出身だったからな、産気づく前に一緒に帰郷するのだと言っていたはずだ」
「へえ。プラチナブロンドの綺麗な髪だったからてっきりこっちの生まれかと思っていたよ。最近の染髪技術は向上しているんだなァ」

それに青い目をしていた気もするのだが、先ほどまで怒りを露わにしていたボスが目に見えて大人しくなったことの方が気にかかった。ああ、私は大ばか者だっただけではなく考えの浅い人間だったのだ。今の今になってそれに気付かされるなんて。今更気付いてしまった"ボスの嘘"に愕然としていると、目の前の景色が変わった。そうだ、これはアントーニオの成人祝いの席だ。丸いテーブルをボスとアントーニオ、そして私が囲みながら晩酌をしていた。

「父さんお願いがあるんだ。僕を彼と同じ研究員にしてよ」
「なぜお前が出来損ないと同じことをする必要がある」
「単純に興味があるんだ。あと、聞いたところしばらくしたら旅に出るらしいじゃないか。だったら僕があいつの跡を継いで研究を続けるよ」
「…」
「それに、あいつが出来損ないなんかじゃないって一番理解しているのは父さんだろ?」


息子に言い負かされる日が来るなんてな。軽く笑ってやったが、当の本人は面白くなかったらしく、最近太り始めてきた自身のお腹をポリポリ掻いていた。成人したのだから、これからも私たちの晩酌に付き合っておくれよ?そう言いながらアントーニオのグラスにワインを注ぐ。私やボスのと比べて小ぶりだったグラスから赤い水は溢れってしまった。いけないいけない、飲みすぎたんだろうか。悪かったね、アントーニオ。謝ろうと思ったのに私は気付けば真っ白いベッドに横たわっていた。

「…起きたか」
「ボス?ここは?」
「お前は足に銃弾を受けただけだったから死にはしなかった」
「"お前は"って、まさか、他のみんなは、」
「若いのも大勢死んだ…そして何より、俺たちとずっと一緒だったアンドレイやジョンも逝ってしまった、…それに…アントーニオも居なくなったんだ」

何者かに奇襲を受けた。そのことまでは覚えている。その後の記憶が途絶えているのは、頭も打っていたせいのようだ。頭を撫でてみると、包帯が巻かれている。親族や長年連れ添った仲間たちの死に、友人の目は落ち窪んでいた。どこに雇われたか知らないが、十数年前から名が知れ渡るようになった"魔女マスカ"という女がやったのだと言う。私の記憶が頭を打ち付けたことで歪んでいるわけではないのなら、女が単身で乗り込んできたのを見た。一人で、小さな拳銃を握ってやってきたのだ。どうしてこんな年若い女が殺し屋を?そもそも、十数年前から流れているという噂の主がなぜこんなにも若いのだ。やはり、噂は噂でしかなかったのか。

「アントーニオ…!あの子さえ見つかれば、見つかれば、」
「わかってるよボス。ずっと探しているだろう!あの時、死亡していた奴らは皆死体が残っていた。死体がないのはアントーニオだけだ、それならばきっと魔女マスカに連れ去られたに違いない。だから、運が良ければ命からがら逃げていることだって有り得るんだ!」
「死体がないのはわかっているよ、だってアントーニオは死ぬわけがない!」
「そうさ、アントーニオは死んでいないさ!さあ、ベッドでお休み。また病状が悪化してしまったらファミリーの皆が悲しむのだから」

あれ以降、落ち窪んだ目が元に戻ることはなかった。アントーニオは49年前、まるで存在が何かに吸い込まれたかのように消えた。49年もいないのなら、とうに命を落としていると考えるのだ妥当だ。だがしかし、友人は愛しい息子の死が未だ受け入れられないらしい。少しこじらせてしまった風邪をきっかけに床に伏すことが増えた。図体は変わらないが、頬は少しこけただろうか。彼の額に乗せた濡れ布巾はすっかりぬるくなってしまっているようだ。布巾を濡らしなおしたら一度水を変えなくては。小ぶりな金タライにわずかに残る水を見つめて溜息が出る。水を替えにこの部屋を後にすれば面倒事が擦り寄ってくるに違いない。奴らは当然アントーニオが生きているなんて考えてもいないし、跡継ぎを血筋に関係なく選ぶべきだと訴えてくるだろう。下剋上で我々が寝首を掻かれる前に不安の芽は摘んでおかなければならない。それでも、すぐに実行できないでいるのは自分も老いてきているからなのか。

「あいつはまだ帰ってこないのか」
「あいつって、だから、アントーニオは…」
「そうじゃない。出来損ないの、あいつだ。情報を集めに数年ほど旅をすると言ったまま戻ってこないだろう。誰が残しておいてやったと思ってるんだ。あの女に捨てられて行き場を失くした出来損ないだったくせして」

捨てられた出来損ない。私は出来損ないだとは思っていないけれども、ボスはいつだってそう呼んだ。どういった経緯でうちのファミリーに残ったのかは知らないが、私たちを裏切った女がしていた研究を奴はそのまま続けていた。アントーニオがその研究を継ぎ、しばらくした頃に「成功させるために情報を集めてくる」と旅に出たっきり戻ってこなかった。そう、研究は一度もうまく行っていなかった。それでも、アントーニオが消えるまでは研究が続けられていた。

「結局、研究は何も成功しなかったな。所詮、夢物語だったってわけか」
「……」
「なあ、そう思わないかボス。半世紀近く投資してきたってのにうまくいっていないだなんて」
「ああ、そうだな……」

目を細めて視線を逸らされる。また熱でも上がってきたんだろうか。早いところ布巾を濡らして、水を取り替えてこよう。余計な奴らに見つかってしまう前に。金タライにひたした布巾を絞ってボスの額にのせる。冷たさに身じろぎされて布巾がずり落ちかけた。落ちそうになった布巾をちゃんと乗せようとのばした右手をボスがありったけの握力を込めて握り止める。

「なっ、痛いじゃないか!」

ずれた濡れ布巾の下から覗く落ち窪んだ目にはしっかりと恐怖の色が浮かんでいた。なんだ?何をそんなに恐れているんだ?まさか私がこの右手で君のその首筋を締め上げるとでも思ったのかい。幼いころから友人として唯一の右腕として一緒にやってきた私を、そこいらの成り上がろうと必死な屑だとでも思ったのか?

「ち、ちがうんだ…」
「そうだろうよ、熱に浮かされてるんだきっと。そうじゃなけりゃ私に向かってそんなに怯えた目なんか向けようとも思わないはずさ」
「そうじゃない、だめなんだ右手は…右手だけは…」
「右手?何の冗談だ。右手恐怖症だって言うんじゃないだろうね」
「はは、恐怖症か…正にその通りだな。俺は恐れる必要なんてないのに」
「怖がるようなもんじゃないだろう」
「そうだな。…それでも…」

「アントーニオのことを思うと、恐ろしくなってしまうよ」


なぜ。どうして。出来損ない。右手。アントーニオ。一度に色んなことが頭の中で渦巻く。小さな違和感が積もり積もって大きな波を起こしていた。やめてくれ、飲み込まないでくれ。俺は、俺はただ…

「なあ、どう思う」

まただ、またあの日のボスが私に向かって尋ねてくる。やめろ。わからないんだ。また真っ暗闇の中で蹲る。なにも聞きたくないのに頭の中でガンガン声が鳴り響いた。それは全て、ボスの言葉で、

研究のことは俺が管理するからお前はファミリーのことだけを考えていてくれよ。聞いてくれ、もうすぐ研究が上手くいくらしい!動物か何かで実験をしたいようだ。くそ、あの女…試作段階の酒を持って行きやがった。右手を相手の額にのせて喰いたいって思えば…。やっぱり出来損ないには出来損ないしかできないらしい。スティーブン?奴は、アー…その、あれだ。レニーの、レニーの田舎の娘の所へ婿入りしたよ。アントーニオが最近とても頑張ってるんだ。さすが俺の息子だな。出来損ないなんかじゃない。ああ、待ち遠しいよ。完成したら分け合おうじゃないか。

たくさんの記憶がごちゃまぜになりながら押し寄せてくる。やめてくれ。やめてくれ。思い出したくないんだ。


「永遠の命が手に入るんだぜ?」


その一言で意識がはじける。それでも私の周りは確かに真っ暗なままだった。違ったのは部屋の扉の前に立つ、女の存在だった。

「おまえはアントーニオを喰ったんだな?!」

殴られて軋む体に精一杯力を込めて腹の底から声を出した。しかし、私は言えた気になっただけで、実際は布を噛ませられているせいで動物のような野蛮な声にしか聞こえていないだろう。それでも、私は出せるだけの声でこの女に叫び続けた。

永遠の命に魅せられたボスは、アントーニオに実は成功していた不死の酒を飲ませていたんだ。きっと、レニーやスティーブンも…下手したらその家族へさえも酒を飲ませて喰っていたのかもしれない。アントーニオが不死だと知っていて、49年も探し続けたんだ。だが、アントーニオは連れ去られたわけじゃなかった、あの場で、あの場所で「喰われて」たんだ!

開けっ放しの扉の前に立つ女を睨みつける。逆光ではっきり見えない女の顔がにっこりと不自然に笑ったように見えた。






_74/83
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