晴れ間に/式の前日

さいごとはじまり



チチチチ…という雀の鳴き声と、俺の口からあふれ出てくる欠伸が奏でる音楽は目の前の生物にとっては不協和音だったらしい。ちゃぶ台のすぐそばで、尻尾を畳に打ち付けている奴の顔はしかめっ面だった。

「ハイハイ、飯な。いま用意すっから待ってろよ」

な˝あ。とつぶれた声をあげるソイツは、喜んでるんだか喜んでないんだかいまいちわからないが、飯をあげるとわき目もふらずに食べ始めた。なんだ、やっぱ腹空いてんじゃん。乾いた猫用の餌入れの隣りに水を入れた皿を追加しておく。猫は器用に水をちろちろ舐めては残った餌を食べていた。並ぶように俺も横へ座ってちゃぶ台に広げたタッパーからおかずをつまんでいく。大根の煮物に味が染みてて美味しい。「うん、ウマい」思わず一人で呟いてから、猫をそっと見てみると、一人で喋ってんのかよと言わんばかりに猫がまじまじと俺を眺めていた。うるせえ放っとけ。

「おーはよー!」

ガラガラと派手な音と一緒に聞こえてきた声は朝から聞くには賑やかだった。新品のトイレットペーパーの袋を二つも抱え、肘には色んなビニール袋を提げた姉が玄関からどかどかと居間に転がり込んで来る。

「どひゃー!重いったらないね。車までアンタ呼べばよかったわ」
「なにその荷物」
「安かったから!おすそ分けってやつ」
「そんなにいらないんだけど」
「アンタねえ、人が一人増えるっていうのにさぁ」

ありがとうくらい言っておきなさい、とぷりぷり怒る姉へ「どーもありがとう」と言うと、さっきまでの態度はどこへやら。嬉しそうにビニール袋に入った色んなものの説明をしはじめる始末だった。

「だからそんなに気を回さないでいいんだって。第一まだ飯の途中なんだけど」
「あら、それ紗希乃ちゃんの?」
「昨日もってきた。食う?」
「アンタのために作ってくれたんでしょー。でもいっこちょうだい」
「ほれ」
「まだ手洗ってないから乗っけるな!」

食いたいっていうから手に乗っけてやろうとしたのに。洗面台の方へ駆けて行く姉の後姿と、行き場のなくなった大根の煮物を見比べる。いいか、食ってしまえ。どうせ手を洗いに行っただけでは戻って来ない。予想通りに仏壇の鐘の音が仏間の方から響いてくる。ゆっくりと立ち上がって、静かに仏間の入り口に立った。姉が仏壇の前で正座して両手を合わせ、瞼をしっかり閉じている。幾度も見てきたそれは、どれだけ年月が経とうとも変わることはなかった。

「……何してんの」
「お父さんとお母さんに報告」
「ふーん。そう」
「アンタ、どうせ報告しないからさっ」
「俺のかよ。自分のは?しないの?」
「ちょっとだけしたよ。元気にやってますーってね」
「そういやメイは?」
「今日は午前だけ幼稚園〜。お迎えはお義母さんがしてくれるって言うから甘えて来ちゃった」
「じゃあ、この前もってきたクマ今日持って帰ってよ。じゃないと忘れる」
「いーのいーの。あの子ん中では一人ぽっちでさみしい俊明くんちに泊まってる設定だから」
「なにソレ」
「次来た時にでも紗希乃ちゃんと一緒に相手してあげて。さて、わたしも煮物を頂こうじゃないか!」

はっはっは!と笑いながら姉が台所へ入って行く。冷蔵庫を開け、やたらと演技がかった歓声をあげてみたり食器棚をガラス戸越しに眺めてにやついたりと忙しない。それから満面の笑みで振り返った。

「……楽しい?」
「そりゃあもう!」
「そいつはよかったね」

今度は流しの下や、上の戸棚を開いているのを放っておいて麦茶のボトルとコップをひとつ取り出した。俺がたてたカチャカチャ音に気付いたのか、台所を漁るのをやめて姉は自分の分の小皿と箸を食器棚からとりだしていく。居間に戻る短い間もずっと後ろから鼻歌が聞こえてきた。

「はいドーゾ」
「うわーい!美味しいんだよね、紗希乃ちゃんの料理って」
「姉ちゃん、食ったことあったっけ」
「アンタが言ったんじゃない。好きな味だって」
「そうだっけ」
「なあに、照れてんのー?」
「べつに」
「ちょっとは照れてみなさいよこのこの」

いつも笑っている姉だけど、今日は一段と嬉しそうに笑っている。さっき手に乗せそびれた大根の煮物をタッパーから箸でつまんでは歓声をあげていた。

「さっきから喜びすぎじゃない?」
「じゃない!」
「……」
「だって考えてみてよ。わたしが嫁に行って静かになったこの家が賑やかになるんだよ。スーパーの惣菜パックだらけだった冷蔵庫に手作りのおかずが詰まってて、あんたがいつも使ってる食器と、たまに顔見にくるわたしが使う食器しかなかった棚に新しい食器が増えてる。これからもっと色んなものが増えてくよ。そう考えたらこんなに嬉しいことってないよ!」

そう言われてから居間をぐるりと見渡してみた。確かに、言われてみれば。テレビの横にいるちいさな置物は「今年の干支なんだから飾らなきゃ!」と謎の使命感に駆られていたあいつと買いに行ったものだし、猫が寛いでいる座布団だってあいつが持ってきたものだ。壁に掛けてるカレンダーだって、先月買い換えた時計だって一緒に見つけにいった。すこしずつ増えてきていたそれら一つ一つは、確かに姉が嫁いだ時にはこの家になかったものたちだった。

「紗希乃ちゃんと同じ職場で良かったね。別なとこだったら上司呼んだりすれば知らない人のオンパレードだよ」
「って言っても向こうの親族とか友達とか知らん人はいっぱいいる」
「人見知り発揮してる場合じゃないよ、明日はしゃんとしてなくちゃ」
「わかってるよ。つーか、ちゃんとやれたじゃん前も。姉ちゃんの結婚式の時の俺ちゃんとしてたつもりだけど」
「そうだったね」

数年前を思い出したのか、姉は嬉しそうに笑いながら麦茶の入ったコップを口に傾けた。勢いよく中身を飲み干して、まるで酒でもひっかけたみたいに息を吐く。

「紗希乃ちゃん、今日は実家で過ごすんでしょう?」
「うん」
「そっかそっか。お父さんと一緒にいるわけだ」
「そういうこと」
「あんたも良い気の回し方するね!」
「だって俺も、義兄さんに姉ちゃんと最後に過ごす時間もらったし」
「……」
「なんで泣く」
「いろいろ思い出した…!」
「頼むから明日は泣くなよ」
「なんでよ」
「ブスになるから」
「しょうがないじゃん、元からそういう顔だっつの」
「きっと泣くからさ、あいつ」

だから姉ちゃんは代わりに笑っといて。そう伝えたら、涙目だけで済んでいた姉が本格的に泣きだした。ブスになるって言ってんだろーが。そう突っ込んでも頷くだけで泣いたまま。

「本当におめでとう、俊明」
「……うん。ありがとう」

社会に出てからもうすぐ10年。親代わりだった姉が嫁いでから7年くらい。営業の仕事にも慣れて今じゃ何人もの部下を育ててる。少しは人見知りが治った。すこしだけ。姪っ子のままごと相手もできるようになったけど、相変わらずタマネギは食べたくない。前よりすこしぽっちゃりしてきた猫と一軒家で暮らしてる。そして、

明日 結婚する。





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