46


「この間、君の偽者の話をしたよね」

たった今、思いついた――と言ったら、怒るだろうから、黙っておく。
サラザールはそうだなと、頷いた。

「君と偽者、両方ホグワーツで働いてもらうことにするよ」

にやりと笑って、告げる。
サラザールは呆気に取られたように、目を見開いてこっちを見た。
ああ、なんて顔だ。そんな表情は、めったに見られないぞ。

「なんていうか、お前は……楽観的だな」

いやいやいや。

何で君はそう、鈍感かな。

「俺が言いたいのは、なんでこんなに忙しいのかってことなんだけどね」
「テストの採点だからだろう」

にべもなく、冷たい目で切り返された。

― ここにいる ―


息を落ち着かせ、体を奮い立たせる。
まだやらなくちゃいけないことがある。
足元を見ていた視線を上げた。
視界に入るのは、ドアが幾つも作られたいつもの男子寮の廊下だ。
こまま真っ直ぐ行けば、談話室へ繋がる階段がある。
廊下にはだれも居なかったが、それぞれの部屋から愉快な話し声が上がっていた。
まだ消灯前、当たり前だ。けれど今は、それがとても奇妙なことに思えた。
どうして自分はこんなに苦しいのに、愉快な声がするのだろう。
笑い声や、楽しげな会話があるのだろう。
どうしてこの寮はこんなに賑やかで、生徒には親友などがいて、どうして自分にはそれが無いのだろう。
わけのわからない激情がこみ上げてきて、小さく息を吐くのと同時に涙腺が緩んだ。
それをぐっと息を呑んでこらえ、深呼吸する。
リリーのところへ行って、それから厨房。
階段へ、向かった。

「リリー」
「アラシ! どうしたの、顔色が……」

談話室の一人掛け用ソファーにリリーはいた。
立ち上がり、心配そうに顔を覗き込んでくる。
慌てて顔をそらし、アラシは笑みを浮かべた。
どうして彼女にはわかってしまうのだろう。

「ジェームズが待ってる。男子寮の部屋へ行ってあげて」
「え? でも……」
「大丈夫、違反じゃないから。――俺は厨房へ行って、夕食をもらってくるよ。皆腹ペコだからね」

早口に告げる。
リリーは怪訝そうな顔をしたものの、「わかったわ」と頷いた。

「じゃあ先に行ってるけど。プレートを見ればわかるのよね?」
確認するように、彼女はちらりとアラシが今降りてきた階段を見やった。
談話室にはまだ何人かの生徒がくつろいでいるが、彼らは全員上級生でこちらに注意を向けていない。

「うん、そんなに奥じゃないから。念のため、あまり見られないようにね」
「ええ。――あなた、本当に大丈夫?」

リリーが眉を寄せて小首をかしげた。
さらりと赤毛が揺れる。
知らずに心臓が跳ね上がり、けれどそれは一瞬のうちに静まった。
彼女を安心させるために、笑う。

「なんでもないんだ。少し疲れただけだよ。やけに長い一日だからね」
「それならいいんだけど……あの、一緒に厨房に行きましょうか?」

リリーはそう言っておいて、ぽつりと「そういえば厨房ってどこにあるの」と呟いた。
その様子が心を穏やかにしてくれる気がした。
なんでもない日常が、他愛も無い会話こそが、何より求めていたものだった。

「ありがとう、リリー。でも一人で大丈夫だよ。それに、ジェームズが君を待ってる」
「ポッターが?」

どうして、と言いたげな顔なリリー。
アラシは少々ジェームズに同情しつつ、精一杯のフォローの気持ちを込めて言った。

「謝りたいみたいだよ」
「ああ……そうね。そういえば、さっきそんなことを言ってた気がするわ」

リリーは何度か頷いて、くるりと方向転換した。
ふわりと髪が揺れ、一瞬甘い香りが鼻をつく。

「それじゃ、アラシ。貴方の部屋で待ってるわ」

いや、五人部屋なんだけど。
出しかけた言葉は結局飲み込み、アラシは困惑気味に笑って頷いた。
いきなり優しくされるのも、むずがゆいものがある。
リリーはにこりと微笑んで、階段を素早く上って行った。
あの様子なら、すぐに部屋も見つけるだろう。
アラシは彼女の姿が見えなくなるのを待って、談話室から出た。
まだ二月半ば、寮から出れば夜の闇に包まれた廊下は、少々肌寒い。
一つ身震いをして、「どこへ行くの」という太った婦人の問いかけには答えずに、歩き出した。
グリフィンドールの寮は、城にいくつかある塔の中の一つだ。
厨房は地下にあるので、七階にあるこの場所からでは、行って帰ってくるだけで三十分はかかるだろう。
アラシはそう見当を付け、少々早めに足を進めた。動き回る階段をひたすら降り続ける。
ひたひたとした自分の足音が、やけに響いていたが、けれどそれを怖いとは思わなかった。
――何よりも“知っている”城の中なのだから。
けれどそれを“知っている”ことこそが、今は悩みの種となっている。
動く階段を降りおえ、さらに地下へ続く階段を行く。
魔法薬学への教室へ向かう時にも使用する階段だ。
ここまでくれば、厨房はすぐそこだった。
もちろん、その場所を知っている者だけの話である。
屋敷しもべ妖精は、すぐさまアラシの要望に答えてくれた。
彼らは魔法使いのために働くことが大好きだ。
それゆえ、彼らはこう申し出た。

「良ければ寮のお部屋までお料理を持っていきますよ、ええ」

しきりに頷いてみせるしもべ妖精に、それは助かるとアラシは間髪入れずに頷いた。
リリーには大丈夫だと言ったが、一人で大量の食料を運ぶことなど無理な話だ。
しもべ妖精たちは喜んでその役目を引き受けてくれた。
しかしアラシも彼らを手伝おうとすると、自分を罰したり、罵ったり、さらに嘆いたりするので、手を出せなくなる。
結局、全てを妖精たちに任せ、彼らより先に寮へ戻ることになった。
厨房を出て、来た道を引き返す。
八時半を過ぎたところなので、消灯時間を心配する必要も無かった。
アラシは一階のフロアへ出て、ギギギギと音を立てながら動く階段へ向かおうとして――足を、止めた。
食事は屋敷しもべ妖精が運んでくれる。
寄り道をしても、困るのは自分の腹の具合だけだ。
――それに。
それに、まだ、戻りたくない。
方向を変え、逆にある医務室へ向かった。
逃げているのだと、どこかでわかっていた。
それでグリフィンドールの生徒なのかと、おかしなことに“誰か”に責められている気もした。
それでも、逃げたかった。
今だけは、目を背けていたかった。
ピーターの目からも、シリウスの震えからも。
溢れ出てくる奇妙なまでの寂しさと、悔しさは、自然と歩むスピードを速める。
医務室の手前で立ち止まり、アラシはドアをノックした。
一拍ほどの間があり、「はい?」と少年の声がする。
マダム・ポンフリーは不在らしい。
時間が時間なので、もしかしたら自室に引っ込んだのかもしれない。
アラシはドアを開けた。

「リーマス」
「アラシ?」

ベッドの上で、リーマスが目を見開いている。
上半身を起こし、手には一冊の本があった。
暇つぶしに読んでいたのだろう。
相変わらず顔色は悪いし、いつも以上に痩せて見えた。
けれど、そんな彼がそこにいることに、安心した。
リーマスは、微笑んだ。

「昼間は、ありがとう。僕、落っこちたんだってね。ポンフリーから聞いて驚いたよ」
「無事でよかった。体の調子はどう?」

言いながら、ベッドへ歩み寄る。
リーマスは本を閉じ、膝の上に置いた。
ベッドの傍にあった椅子にアラシが腰掛けるのを眺めながら、答える。

「うん。大分いいよ。もうすぐ満月だから、不安定なんだ。心配をかけてごめんね。アラシの方こそ、怪我は大丈夫?」
「たいしたこと無いよ。そのうち治るってさ」

肩をすくめて笑って見せた。
リーマスが安心したように微笑む。けれど、すぐに眉を寄せた。
怪訝そうにこちらを見て、一言。

「何かあったかい?」
「……そんなに、落ち込んでるように見えるのか」

苦笑が漏れた。
リーマスにまで気付かれるのでは、リリーがあんなに心配していたのも頷ける。

「えっと……僕、で良ければ話くらい、聞くよ」

戸惑ったように言うリーマスだったが、けれど彼はぐっと身を乗り出した。
言葉は少なかったけれど、それだけで胸が軽くなるような気がした。

「うん」

短く、頷く。
押さえ込んでいた感情が、今にも零れて、爆発してしまいそうだ。

「リーマス」

声が、かすれた。
視界が歪む。
辛い、苦しい、寂しい、悔しい。
――助けて。

「り、ます……。俺……くる、しい」
「……アラシ……?」

戸惑う声。涙で歪んだ視界では、もうその表情はわからない。
名前を呼ばれたというだけなのに、何故かそれがさらに涙を誘い出した。

「“俺”は“誰”なん、だろ……っ」

“ゴドリックだった。”
それは変えようも無い事実。
けれど今はどうだろう。
今は“ゴドリック”なのか、それともただの“生徒”なのか。

「わから、ないんだ……ぐちゃぐちゃで、考えるほど、もっともっと、わからなくなって……」

見てきたものも、聞いてきたものも、全てを“覚えて”いて、時には昔の友人たちに会いたいとすら思うことがある。
けれど、その一方で心のどこかでは、その全てを拒否していた。
ホグワーツに来るまでは、ちょっと田舎で穏やかな町で暮らすだけの、ただの小学生だった。
自分が誰かの手によって“生まれた”ことも知らなかったし、あまつさえ魔法使いなんてものが存在することも考えなかった。
ここへ来て、全てが覆されるまで、確かに自分は“一人の人間”だったのだ。
記憶がよみがえり、わからなくなる。
考えれば考えるほど、“彼”との境界は曖昧で、不確かで、時には自分が“彼”と全く同じモノだと思うこともある。

「誰って、君は君だろう……?」

困惑気味の声音に、はたと我に返った。
いつの間にか俯いていた顔を上げ、涙を拭う。頬がわずかに痛かった。
リーマスが、困ったような笑顔を、そのまだあどけない顔に浮かべた。

「何があったのか、話してくれないかな」
「ご、ごめんリーマス。いきなり」

今更、恥ずかしくなった。
目の前で、しかもこんな近くで泣いてしまったし、意味の分からないことを口走った気がする。
慌てて取り繕ってみたが、リーマスは穏やかだった。
クスクス笑うことも無かったし、かといって「気にして無いよ」とあからさまな嘘をつくこともしなかった。
ただ、同い年とは思えぬほどの落ち着き振りを発揮して、安心できる笑顔を、くれる。

「すっごく失礼だし、不謹慎だと思うんだけどね」
「え?」
「君が僕を頼ってくれて、嬉しいなぁ……とか、思ってる」

唐突に、リーマスはそう言った。
照れくさそうに笑って、布団を剥ぎ、ベッドのふちへ腰掛けた。つまり、アラシと向き合う形だ。
何を言ったらいいのかわからずに、ぼんやりとリーマスを見ていると、彼は「ごめん」と謝った。

「いきなり変なこと言って、ごめん。えっと、それで何があったの?」
「あ……うん」

かいつまんで、説明をする。
まずは遡って、ゴーストのことから順番に。
話の最中、リーマスは決して口出しをしてこなかった。
コチコチと針の音が響いているだけの中で、アラシは厨房からここへ来たことまでを話し終えた。
説明が終わってすぐ、リーマスが口を開く。

「わかるよ、すごく」

彼の目は、どこか遠くを見ていた。

「僕も自分とは別の“モノ”として、扱われてきたから」
「あ……」

思わず、声を上げる。
忘れていたわけではなかった。
むしろそれを知ってからというもの、ずっと意識していたし、気を遣った。
――リーマスは、アラシよりももっと酷いのだ。
何も、言えなくなる。
彼は、半年なんてメでは無いほど長い間、それに耐えてきたのだから。

「僕と君は、全然違うことで悩んでるけど、共通するところもあると思うんだ。“特別な目”で見られる辛さは、よくわかるよ」

リーマスは静かに言った。
遠くを見ていた目は、今度はしっかりとこちらの視線を捉えている。

「だから、君みたいに“僕”を見てくれる人がいると、すっごく嬉しい」
「……うん」

ふと、ダンブルドアが頭に浮かんだ。
彼だけは、最初から知っていてもアラシのことを決して「ゴドリック」とは呼ばなかった。一度も。
当初はそれがとても無礼だとも思ったけれど、今は酷く胸が締め付けられた。
きっとアラシだけではなく、リーマスのことも、ダンブルドアは一人の大事な生徒として見ているのだ。
リーマスが、微笑む。

「だから僕も言うよ。君は、君だ。“アラシ・カンザキ”は、ここにいるよ」

どくん、と心臓が跳ねた。
名前を、呼ばれる。
たったそれだけのことなのに、どうしようもなく嬉しくて、切なかった。
不覚にも、また目頭が熱くなる。

「ありがとう……リーマス」

感謝の言葉は、鼻声になった。
歪んだ視界で、リーマスが照れたように笑う。
じわりと、胸の辺りが暖かさに包まれるような感覚。
彼に勇気と力を、もらった気がした。


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