39 「どうしてこうなるまで黙ってるかなぁ」 呆れたように、ヘルガが言った。 彼女の手につかまれた右腕は、ほとんど感覚が無い。 赤紫色に変色した皮膚をじっと眺めながら、ヘルガはさらに小言を続ける。 「早いうちに言ってくれれば、もっと簡単に治せたのに。一人で解決しようなんて思ってるの?」 「いいから早く治してくれよ。このままじゃ、授業も出来やしない」 いい加減しびれを切らしてそういえば、彼女は睨みをきかせた。 「反省してる?」 「あー……」 言いよどむと、ヘルガはさらに強い口調になる。 「してるの、してないの?」 「してる、してます。だから早く治してクダサイ」 慌てて答えると、彼女は満足そうに頷いた。 「あまり心配かけないで、ゴドリック」 心配かけるから、言わないなんてことは今この状況では言うべきではないだろう。 ― 思わぬ事故 ― 赤いボールが、広い校庭の上をいったりきたりしている。 パスカットをしたピーターの横をシリウスが通り、瞬きをする間にそのボールはシリウスの手へ。 しかし彼がジェームズに向かってほうったボールは、スリザリン側へ奪われた。 ゴール近くにいたジェームズが悪態をつき、すぐさまボールを追っていく。 アラシはこれではゴール役の出番がないと思いながら、試合の様子を眺めていた。 今のところ、どちらも得点していない。 クワッフルが空高く舞い上がった試合開始から、五分ほど経っていたが、先ほどからこの応酬の繰り返しだった。 「これじゃあ、つまらないわ私達」 ふと声がしてそちらを向くと、リリーが仏頂面で敵を避けるリーマスを睨んでいる。 どうやら彼女は、もう一人のゴール役(確かメアリーとかいった名前だ)と話しているらしい。 「そうね。ポッターたちがすごいのは認めるけど」 メアリーがそういったとき、ゴール寸前でジェームズがそれを阻止していた。 「これ、クィディッチのテストか何かなのかしら」 心底つまらなそうに続けたメアリーは、ちらりとアラシのほうを見た。 「あなたはゴールキーパー志望なの?」 「え、いや。別に。そもそも、選手になろうなんて思っていないし」 慌てて全否定すると、メアリーは意外そうに瞬きする。 その傍らで、リリーが気まずそうに視線をそらしている。 雪合戦のことがあって以来、彼女は時折アラシに話しかけようとしてはためらっていた。 彼女の中で何か葛藤があるらしい。 メアリーは、パスカットをしようとして失敗したピーターをちらりと見ながら言った。 「ポッターは来年チームへ応募するそうよ。噂じゃ、ブラックも入団希望だって」 その二つとも、アラシは初耳だった。 ジェームズやシリウスは一言もそんなことを言っていなかったのだ。 最も、メアリーや他の女の子達が噂しているだけなのかもしれない。 メアリーが興奮した様子で早口に続けた。 「カンザキも、彼らと仲がい――」 「こっちにボールがくるわ!」 リリーが叫ぶ。 慌てて前へ向き直ると、ボールを持ったピーターが恐怖で蒼くなった顔のまま、ものすごい勢いでつっこんできていた。 「ペティグリュー、投げて!」 「ピーター、投げろ!」 ほとんど同時に、リリーとジェームズが言った。 リリーは受け取ろうと、果敢にも箒から両手を離して上へ掲げる。 ピーターが慌ててボールを投げようと、持ち直した。 しかしそのために飛ぶスピードが緩み、スリザリン生が両側から彼を挟み撃ちにしようとする。 次の瞬間、ピーターは緊張のあまりボールを取り落としてしまった。 「ああ、もう!」 リリーが悪態をつくのを尻目にボールは落下し、スリザリンが待ち構える。 これはカウンターされかねないなとアラシが冷静に分析していると、ひゅん、と音がして誰かが急降下した。 「え?」 見間違いではないかと目を凝らしたが、その影はアラシが良く知る友人だった。 「シリウス、無理だ!」 リーマスが叫ぶ。 その後ろで、ジェームズが「やめろ!」と続けた。 さらにその向こうで、リオンが「無謀すぎる!」と悲鳴を上げる。 そして、まさしくその通りだった。 シリウスが降下するより、ボールがスリザリンの手へ渡る方が遥かに早い。 そのまま急降下していけば、地面と激突し兼ねなかった。 アラシは考えるより先に、ポケットへ手を突っ込んでいた。 記憶の奥から、呪文が浮かび上がる。 すぐさま手に馴染んだ杖を掴み、ポケットから引き抜いた。 狙いをシリウスが降下していくボールの下に定め、杖腕を振り上げる。 けれど、それを下ろす前に、今度は別の場所から声が上がった。 「リーマス!」 リリーの悲鳴だった。 驚いて振り返ると、リーマスの体が箒から落ちていく光景が目に飛び込む。 その顔色は最悪に悪く、アラシはもうすぐ満月だということに気が付いた。 今日は体調が優れないのを隠していたのだろう。 「ああ、違った。“ルーピン”だったわ」 リリーが呟いたが、そんなことはかまっていられなかった。 ジェームズが彼を助けようと下に回りこんでいるが、二人乗りが出来るほど学校の箒は丈夫ではない。 どくんと心臓が大きく跳ねた。 シリウスに視線を落とし、もう一度リーマスを見る。 それからは、アラシの思考はとてつもない速さで動いた。 まずシリウスの下に空気の膜を作り、それから杖を素早くポケットに戻すと、しっかりと箒の柄を握る。 リーマスの位置を確認して、ちらりとシリウスがまだ無事だと言うことを見てから、箒に速くと念をこめた。 そのまま、ジェームズが回り込んでいる場所まで飛び、驚く彼に用件だけを伝える。 「一人じゃ無理だ」 ジェームズは一瞬戸惑ったように視線を泳がせたが、間もなく頷いた。 リーマスはみるみるうちに落ちてきて、アラシとジェームズが差し出した腕のところにドサッと音を立てて止まる。 思っていたより軽かったが、それでも一人では支えられなかっただろう。 どうやら彼は気を失っているらしく、青ざめた顔でぐったりとしていた。 けれど、どこか怪我をしているわけではないので、ほっと息をつく。 「だ、大丈夫?」 よろよろとピーターが寄ってきた。 どうやら動揺するあまり箒の操作が上手くいかないらしく、ふらふらと飛んでいる。 アラシはシリウスが空気の膜で支えられているのを、ピーターの肩越しに見た。 それからピーターに笑いかける。 「代わって、ピーター。シリウスを見てくるから」 「え?」 「早く。急いでかけたから、魔法もあまり持たないんだ」 それ以上返事を聞く前に、アラシはリーマスの上半身をピーターに預けた。 ジェームズが心配そうにリーマスの顔を見ている。 アラシは今度は彼に声をかけた。 「ジェームズ、下に降りる時はゆっくり。ピーターのペースに合わせてあげて」 「あ、うん。それはわかるけど。シリウスのアレは君が?」 「じゃ」 問いかけは無視して、シリウスがふわふわとしている場所まで急ぐ。 教授も、グリフィンドールやスリザリンの生徒も、落下寸前でいきなり止まったシリウスを、不思議そうに見ていた。 シリウス自身も状況が全く分からないといった顔で、周りを見回している。 しかしその手にもう箒は無く、どうやらふわふわしているうちに離してしまったらしかった。 箒を持っていればアラシが行く必要はなかっただろう。 アラシは魔法が解ける寸前にシリウスの腕を掴んで、地面に近いところでその手を離した。 リーマスより背も高く、痩せてもいないシリウスはそれなりの体重があり、あまり長く持たなかったのだ。 シリウスは地面に足がついたところで、やっと何が起こったのかわかったらしく、ばつが悪そうに顔をしかめた。 「その、悪かった」 「無事でよかった。間に合わないかと思った」 着地しながら答える。 シリウスが何か言いたそうにこちらを見たが、彼が口を開く前に教授が大声でアラシに話しかけた。 「よくやりました、カンザキ。見事でした。その精神に十点あげましょう」 ぱちぱちと教授が拍手をすると、伝染するように生徒達が手を叩いた。 けれどスリザリンの何人かはいい顔をしなかった。 スネイプもじっとアラシを見るだけで、微笑むことすらしない。 しかしそれでも、グリフィンドール生はこのアラシの活躍と思わぬ寮の点数追加を喜んでいるらしく、ところどころで歓声が飛び交った。 やがて拍手は大喝采となり、遅れて降りてきたジェームズたちが何事かと目を見張っている。 アラシはどうすればいいのかわからず、とりあえず思いついたことを言った。 「リーマスは医務室に行く必要があります」 教授がジェームズとピーターに支えられたリーマスを見て、頷く。 「付き添いも必要ですね」 「俺が行きます」 すぐさまアラシは言った。 リーマスも、事情を知っている人物の方がやりやすいだろう。 医務室のポンフリーがもし人狼のことを知らなかったら、一緒にいたほうが誤魔化しもしやすい。 「落ちかけたブラックも医務室へ――」 「俺は大丈夫だから、授業に残ります」 教授がいいかけたところを、シリウスがはっきりとさえぎる。 ピーターがそれを聞いて、心配そうにその目を彼へ向けた。 「でもシリウス」 シリウスが快活に笑う。 「大丈夫だって。墜落はしなかったし、怪我もしてない」 けれど彼が言い終わるか言い終わらないうちに、女の子の声が割って入った。 「カンザキ君のおかげでね」 リリーだ。 彼女はシリウスを睨むように、一歩前へ進み出た。 「まるで自分の手柄みたいないい方ね、ブラック。無茶したのはどこのどちらさまでしたっけ? カンザキ君が必死だったの、見ていなかったの?」 シリウスがちらりとアラシの方を見た。 リリーもつられたように、教授と二人でリーマスを支えているところを見る。 アラシはなんともいえない複雑な心境になりながら、なんとなく笑ってみた。 すると二人の視線がはずれ、彼らは睨み合うように、互いを見る。 「別に威張っているわけじゃない。それに、あいつが俺を変なふわふわから助けてくれたのも知ってる」 シリウスが仏頂面で唸るように言った。 「ええ、そうでしょうね」 リリーがわめくように大きな声になった。 いつの間にか、アラシたち周辺だけ円が出来上がり、その周りに生徒達が喧嘩を観戦するように見ている。 リリーはそのことにも気付かないのか、シリウスだけを睨みつけていた。 「ブラックは無理をして急降下しながら、彼があなたを助ける魔法をかけて、それからルーピンを助けに行くのを見ていたんでしょうね」 「え?」 シリウスが驚きの声を上げる。 ふわふわの魔法をかけたのがアラシだということまではわからなかったらしい。 けれどリリーのわめき声はほとんど独り言で、彼が聞き返したことにも気付かなかった。 「せめて落ちたのがルーピンだけなら、彼が怪我をすることも無かったのに!」 これには、アラシも驚いた。 リリーが怪我のことを知っているとは思っていなかったし、それどころか誰にも気づかれていないはずだったのに。 「カンザキ、怪我をしているんですか?」 教授がしかめ面でこちらを見る。 「アラシ、本当に?」 「どこを?」 ジェームズとピーターもずいと寄ってきて、言い逃れ出来そうに無い。 アラシは仕方なく頷いた。 「シリウスを助けようとしたときに、左腕を少し。でも大したことはないから」 周りがほっと息をついたが、しかしそれを聞いたリリーはますます暴走し始めた。 「そんなわけないでしょう、自分より重いブラックを持ち上げたのに! それに、ルーピンを受け止めたときだって、衝撃があったはずだわ! ポッターに気を遣って、ほとんど一人で受け止めてたもの!」 ジェームズがぎょっと目を見開き、アラシを見た。 それから彼は、ぽつりと言った。 「どうりで軽いと思った」 教授が眉を寄せる。 慌ててアラシはリリーに負けないくらい、大きな声で言った。 「リリー、心配してくれてありがとう。だから俺も医務室に行ってポンフリーに診てもらうんだ」 「でも――」 「僕が思うに、さっさと医務室に行き処置を受けるのが最善ではないだろうか」 リリーがさらに言い募ろうとしたところへ、思わぬ加勢が割って入る。 生徒達が作った円の一番外側で、スネイプがしかめ面のままアラシを見ていた。 「ミスター……」 どうして自分の思っていることが分かるんだろう、とぼんやりと思う。 教授がその通りだと頷いた。 「スネイプの言うとおりですね。行きましょう、カンザキ。私が戻ってくるまで、箒に乗らないこと!」 アラシと教授、そしてぐったりしたままのリーマスは、城に入り医務室へ向かう。 リーマスの横顔を見ながら、もっと近くにいたら彼の異変に早く気付けていただろうかと思うアラシだった。 - 39 - しおりを挟む/目次(9) |