□ 金魚の僕A
ゆらゆら、ゆらゆら、光が揺れる。
うすあおの中の光は太陽だ。いつも鉢の中から見上げているから、さかなはよく知っていた。
ただその白い光を、時々木の葉が遮る。進んでいる方向から後方へ、黒い色をした影が。
猫にくわえられながら、さかなは黒目に映るものをただ見ていた。どんなに体を捩ったとて暴れたとて、腹に牙が深々と刺さってはもう逃げられない。
だからさかなは空を見た。
水の中と同じ春の空なのに、息をしようと閉じた口はただ無意味に空を食んだ。
(なんだ、これ。)
(シュンちゃんが欲しいっていうから。あんた触らないでよ、怒るから、シュンちゃんが。)
ゆらゆらゆらゆら、あのときもこんな空だった。店先から一匹ぎりで連れて来られ、移った先はどこにでもある丸い鉢。砂利と水草の入ったそこで、買い主がきれいと言っていた赤い尾鰭を揺らしながらじっとしていた。
たぶん買い主が眺めるつもりだったのだろう、鉢は居間らしき部屋の卓に上げられていたので、まわりの景色がよく見えた。開け払っている縁側からは外が、部屋の向こうでは店で主と一緒に居た母親が何か手を動かしていた。
これから住む家をまじまじと見ていたが、床板の軋む音がしてそちらに注意を向ける。主の足音より重たげなので、たぶんほかの家族だろう。鰭を揺らしながらそちらを見ると、主が廊下のほうから歩いて来たのらしかった。
否、主ではなかった。よく似た別の人間だった。
少し離れた位置から胡散臭そうな顔でさかなを見、顔が鉢一面に映るほど近くに来たかと思えば仏頂面で軽く眉をしかめている。
何もしていないのに、初対面でなぜこんなにも疎まれているのだろう。さかなは困ってしまった。今まで居た金魚屋に来る人間は何かしら興味があって来るのだから、こんな風な視線を向けられ慣れていないのだ。
また、人間の手によって生かされ愛想を撒く事が血肉に染みた金魚という生き物故の感覚でもあった。にこにこと可愛らしい主に顔は似ている癖に、愛想の欠片もないこの人間に媚びたのは。
横から鉢を覗いていた無愛想な人間は飽きたのか、すっくと立つと一度真上からさかなを見下ろした。このまま、嫌われたままではいけないとさかなは内心おろおろして、ただ着物の膝のわたりを凝視する。
さかなはなにも出来ない。どれほど考えても、周遊にさほどの時間も要しない器の中で浮かぶしか能のないあわれな生き物なのだ。
そんな自分たちにとって致死ともなる「嫌われる事」つまり存在を否定されるというあまりの負荷にさかなはおののき、あわやえら呼吸すら出来なくなるほどうろたえた。
どうか何とか出来ないだろうか。人間からしたら何を思っているやらわからない顔で水を食み食みしていたさかなだったが、どういうわけかこの人間がなかなか立ち去らないのに気づいてしまった。
不思議に思っていると、さかなにまつわる水が僅かに揺れた。さかなは水に住まうものとして何が起きたのか瞬時に悟り、すぐに水面へ向かって尾ひれを振った。
あの人間は、鉢の水へ指を入れたのだ。魚眼は眼前のものを視認するには不向きだが、うっすら水と空気の膜を破って覗く肌の色を見る。
さかなが常に水を食む事からか、こういったいたずらはよく知っていた。ならばさかなはどうするかというと、ふよふよと水面へ泳ぎ、その指のほんの先を軽く食むのだ。
餌でない事などいくらさかなでも知っている。けれどそれ以上に愚かを演じた方が人間は快いと思ってくれる事を知っていたから、そうしたのだ。
誰に愛されても良いが、嫌われては絶対にいけない。それは百年を十束ねる以上の時を人間によって生かされてきた、さかなの本能からの恐怖だった。
ぱくん、ぱくんとさかなは無心で指を食む。端から見たら間抜け面だろうがそんな事には構わない。寧ろ店先で主に買って貰ったよりも必死にそれをした。
嫌われたら死ぬ。もしかしたら既に誰かには嫌われていたのかも知れないが、愚鈍な赤いさかなはわからなかった。だから今この人間にはっきりと嫌われてしまったら、鰭と鱗と身が裂けて死ぬのだと思っていたのだ。
しかし、そう自らを責め苛んでいたさかなとは逆に、指のほんの先の薄皮を食まれた人間は、その一瞬ふと笑った。
今まで仏頂面だったのをその時ばかり、彼が少し眉根を緩め口の端を上げて笑うのを、さかなはちゃんとつぶらの黒目へ映していたのだ。
能なしの自分が、何かをする事が出来るなんて。あんまりの事に、さかなは一時えら呼吸を忘れてしまった。
確かに媚を売る為に指を食んだが、そんなのはままある事だし、またさかながそうする事によって人間の子どもが笑うのもよくある事だ。
でも何故か、金魚はこの人間が笑うのに見とれてしまった。笑うと言っても少し眉間のしわをゆるめて苦笑する程度の変化だ。
けれどそんなのが、さかなは今迄でいっとう嬉しかった。嫌われずに済んだとか、初めて悪い印象を良い方向へ持っていく事が出来たから、余計そうなのかもしれない、が。
この笑顔をもっと見たいなと思った。
たった、それだけの事が、愚鈍な能なしの赤い鑑賞魚が初めて生きていたいと思った瞬間だったのだ。