金魚 | ナノ


□ 金魚の僕@

 

 薄ぼんやりの灯籠の影に何か居る。
 橙色がちりちりと揺らぐ度、それの袖や裾が見えた。
 部屋の片隅に鎮座するそれ。ひたすらの緋色が翻るのは、鉢を泳ぐ赤いさかなによく似ていた。


「…何なんだよ、おまえ。」

「何でもいいでしょう。ほらこうしてふれあえる。それなら何だっていいでしょう。」


 口の端と端とを引いて出来る形は弓張り月。孤を描いて、わらう唇が真一文字の自分のそれにやわらかく触れて阿部は瞼を伏せてしまった。
 首を抱く腕も紛れない本物。その熱も肌の感覚も実在するそれなのに、目の前の存在は感覚以上の明らかさで人間以外の何かだ。

 それは夜にだけ現れる。真っ白の体に緋色の襦袢一枚ぎりの出で立ちで、やわらかく笑ったままでいる。
 日の下ならきっと心の温かくなるような笑顔なのに、阿部にはこわいものに見えた。それはどこか人外の魅力で、心の伴わない形だけのそれに思えたから。


「おまえ、名はねェのか。」

「今夜はおしゃべりだ。」

「おい。」

「…よびたいなら、好きに。」


 布団に沈めた体は手を伸ばし、お喋りだと云って指の背で唇を撫でる。


「ふふ。」


 組み敷くと、生っ白い脚が二本あべの腰に絡み付く。緋い襦袢の裾を割って現れたその太股はやわらかな女性のそれとは違うのに、阿部は捕らえられてしまう。
 もう逃げられないので、阿部はかれに触れた。首から喉に触れ、その間目を細めるかれを少し見て手を胸腹と辿り、襦袢の合わせを乱してやる。

 されるがままのかれはわらう。けれどそこまでした所で、かれが阿部の手を取った。

 ちらと阿部を見た後、かれは両手で取った手を自分の口許に持っていった。目を伏せ、ただ指の腹を唇に当てるような動きを少しすると、そのままゆっくり睫を上げて笑う。
 いつも僅かに笑みをはくその意味を、阿部はわからなかった。ただ普通の理由で浮かべているのではないことはわかっていた。
 が、今の顔だけは。楽しくて自然とそうなった、そういう感情のある表情だった。しかし阿部がそれを云うより先に、かれの唇が動く。


「ね。」

「何だよ。」

「金魚って魚、知ってる。」


 何の抑揚もないその言葉に、阿部は僅か眉を潜めた。何を言うかと思えばそんな事。と思いはしたが、阿部はその気持ちは口にせず適当に返事をした。かれに対する応えにはなっていなかったが。
 言葉を紡ぐ唇を、珍しいと阿部は思っていた。阿部の知っているかれの唇は笑うか意味の無い音を出すか自分のそれで塞いでしまうかしか使い道がないと思っていたのだが、どうやら今夜は違うらしい。
 今夜のかれは飛びきりに饒舌だった。だからだろう、聞いてやろうなんて穏やかな気になったのは。きっとたったのそれだけだろう。


「あれはね。金魚ってさかなはね。大昔から今迄世界で唯一、神様でなくて、人間に作られたいきものなんだ。」

「へえ。存外物知りだな。」

「ああ、そうだよ。とても詳しいんだ。それで、人間に作られて、あのさかなはずっと人間といっしょだった。その手を離れたら死んでしまうから。」

「そうか。」


 さらさらと流れるようなその内容は、阿部の耳を右から左へ抜けるだけだった。まともな相槌は始めの一言のみで、後は聞いてすらいない。
 阿部は直ぐに飽きて、喋り続けるかれの髪をいじったり肌を触ったり脱がしたり等と悪戯を始めた。その間にもかれはしゃべり続ける。阿部へ話している癖に、阿部の事等見えちゃいない様だった。


「それで。あの、訊くけど。」

「何だ。」

「あのさかなは、人間の手で、人間の好む様に変えていかれた。だから人間に好かれていなくちゃ、生きている意味が無いんだ。」

「はァ。そう。」

「あなたは、おれが、好き?」


 かれがそう云ったのは、最早話をしている事を忘れた阿部が、唇を塞いで仕舞おうとした時だった。
 ほぼ零の距離で、相手の熱が鼻先を掠めるほど近くで、かれは唯真っ直ぐに阿部の目を見つめる。
 それは揺らぎすらしない。二つの丸い金色に映った阿部は、少しの間ふっくらした唇を指で撫でていたが、そのうちそれを見るのをやめた。指を離すと目を瞑って、そのまま口付けた。

 割と長い事それで戯れた。あんな下らない物語は忘れッちまえばいいと考えたのもある。だがしかしそのくちから舌を抜いても、かれは唇を薄く開けて真っ直ぐ阿部を見るのだった。


「………」

「ねえ。」

「…好き、なんてのは、恋仲がやるもんだろ。」

「よくわからない。…でも、じゃあ、それなら何て云えば。」

「どうせ考えたってわかんねえよ。」


 阿部はいよいよ面倒になって、帯を解きながらそう云った。
 得体の知れない心の作用へ無理に名をつけるなんてしてはならない。名をつけると、そう錯覚してしまう。ましてやその心に向かう先があっては、押し付ける事こそ悪徳だ。

 だからそのまま、黙っていようと思った。けれど剥いた体に触れて、首の筋に点々と痕を付けながら、ふと思い付いたので阿部はそれを口にした。
 ぐだぐだと面倒だから、もう二度と言わせないように、適当に作った答え。ちゃんと考える気なんて全く無かったが、別に嘘というのでもないから、構わないだろう。


「おまえが毎晩俺のとこに来るのと同じだよ。」


 もう一言も発する気は阿部にはなかった。だからかれが小さな声で阿部の言葉を復唱しても一音の返事も生まれる事なく、会話はそれで終わって仕舞った。それでほんとうの最後だった。

 後はいつもの夜が始まるだけ。
 けれど、自分の言葉にかれがひどく満足した事は。その事には、阿部はついぞ知り得ない。
 体の下にしたかれが、その陰で一番わかりやすい答えだと再び笑ったのだがそれもついぞ知り得ない。

 自分と同じ。同じ気持ち。ああ、それったらなんて素敵なのだろう。
 別個のからだで、同じ生き物ですらないのに、同じふうに思っているだなんて、ああなんて素敵でしあわせな事だろうか。そう思い、かれは目を閉じてしあわせそうに笑った。


かれが姿を現した、それが最後の夜だった。
薄い月の夜だった。


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