☆ 氷る夏
【高校生と高校生】
帳を留めた糸がぶつんと切れたようだった。目を開けると今までの黒は一瞬で裾野へ降り、代わりに中央には灰色の天井が据わる。
どこか透明感のある、明るい色だ。本当はその色は灰色でなく、まっさらな白である事を三橋は知っていたが、彼の見上げるその天井はいつだってこんな灰色をしていた。
なぜなら今が、まばゆい季節のただなかだからだ。空は広く、青く、大きな真っ白の入道雲をきらきらさせて輝く季節。
夏だ。それは光の及ぶ限りをどこまでも白くまばゆくする。だから、それを隔絶するこんな建物の中は正反対に影を溜める。
窓辺のここが灰色なのは、影と光がぶつかって、ちょうど色を淡くするから。証拠に視界の右手は暗く、左は白のグラデーションが、天井に投影されている。
そこへ時折、真っ白な光の欠片が走っていく。正体はカーテンの隙間を縫って忍び込んだ外の光が、風によってゆらゆらと揺らめくものだ。
目を覚ました時から細い風が肌を撫でてゆくのを感じていたが、三橋はいい加減になされるがままの状況をやめる事にした。
目覚めてから少し伏し目にしていた目線を、ゆっくりと左の方へ動かす。
それはまばゆい世界の方向だ。まだ目が明るさに慣れておらず、思わず眇めてしまったので、視界は細く狭くなる。
けれど光を絞った為に、その景色はよくよく見えた。狭小のそこには眩い光とそれを負う影がある。
開け放たれたガラスの窓には、かけられた透き通るようのカーテンが風にそよいでいる。音もなく揺れるそれとまばゆいだけの光を負って、影はひとの形をしていた。
それを見て、三橋は口を開く。だいたいのシルエットしかわからないくせに、彼である事を確信している三橋は、阿部くんと影を呼ばわった。
その声に影が震える。俯いているようの影は、しかしそれきり動きも答えもしなかった。
「阿部君。……阿部君。ねえ、」
まるでその名は飴玉であるというように、三橋はそれを舌の上で甘く転がす。
その声音は絶対だ。返答を待つものでなく、ただ呼ばわるだけのものでなく、必ず声が返るものだと信じて疑わない。
だからだ。彼が、影が、三橋の言葉に声を返さないのは。
三橋が望んでいるのは返事だけ。他のどんな言葉も彼は望んじゃいない。そこに自分の意思など求められていないから、影はずっと俯き続ける。
「阿部く。……」
三橋はそれでも何度か繰り返したが、いっかな思ったようのが返らないので、そのうちふつんと言葉を切った。
そうでなくともかすかだった声を飲み込み、薄い唇を静かに合わせると、あとはささやかな風の音ときらきら眩しい音だけになる。
本当にきれいな昼だった。そんな中、三橋は影に向かって手を伸ばした。色の悪い左手が、そろりと伸びて影の腕を掴む。
一辺倒に同じ黒色の影は、項垂れた頭を組んだ両手の甲へ乗せているらしかった。三橋の寝そべるベッドへ両の肘を突き、指を組んで、まるで祈るようのその手へ額をつけている。その片方の腕を三橋が掴むと、ようやく影は身動ぎした。
「阿部君」
ようやくこちらを見た影に、三橋は思わずその名を口にする。
三橋が初めから確信を持って呼ばわったように、その人は同級生の阿部だった。彼は眉間へ皺を寄せている事がよくあるが、更に痛みを堪えるようの細めた目をして三橋を一瞥すると、重々しく唇を開いた。
その声は低音。そばへ侍る三橋でも、ようやく拾えるようの音だった。
「やめろよ、」
「なにが」
「こういうの、もう、やめろ」
「……」
「頼むから。おまえそのうち、本当に死んじまうぞ」
阿部が三橋を見たのはほんの一瞬だった。すぐに視線を落とし、絞り出すようにそう言った彼を、三橋はただただ見つめていた。
彼は切ないようの顔をしている。それをさせるのは、紛れもなく自分だ。三橋は見つめる阿部の黒い影の中で、記憶が途切れるまでの記憶を再生する。
一番最後に受けた授業は、水泳だった。
今日は眩しく暑く、まさに水の中で泳ぐには最高の条件で、はしゃぐ友人たちと一緒に三橋も水に入った。
ただ、やった事は彼らと違う。三橋は水の中へ潜ったまま、いくらか息を止めていた。
どれくらいかはわからないが、限界をとうに超えて、気を失うまでだ。肺から空気が出て、銀色の珠になって水面へ昇って行くのを見た。そうして代わりに塩素臭い水をいくらか飲んだ。
そして気が付いたら保健室のベッドの上というわけだ。死にはしないだろうと思ったが、呼吸出来ないというのはなかなか苦しかった。次はもう少し加減しよう、などと今ほどの阿部の嘆願を全く無視した事を考えていると、彼と目が合った。三橋は考えるのをやめ、ゆっくりと体を起こした。
「ん……」
「まだ寝とけ、クラクラすんのか、」
「へいき、」
仰向けのまま、腕の力で起き上がろうとするが、少しよろけてしまう。阿部はそれを見て、過保護な彼らしくまだ休んでいろと言ってくれるが、それを聞いた三橋が笑う。
平気だと半身を起こすと、三橋は阿部を見た。ベッドの上の三橋とその隣で丸椅子に座っている阿部とでは目線が違うが、阿部はそばへ椅子を持って来ていたから、それほど距離は感じない。
尚も厳しい顔の阿部に対して三橋の唇は弧を描く。三橋は色素が薄い上、まだ少し湿った髪に光が差すと金色になるなど、直射でもないのに光を受けると普段よりずっとずっと淡くなる。
そんな彼に微笑まれると、あまり儚くて胸が痛い。ますます眉間の皺を深くする阿部に、三橋はそっと囁いた。
「阿部君」
「みは……」
「ごめんね。やめるのは、無理だ」
唇は弧を描く。吊り気味の目はそれでも柔らかく和んで、阿部は一縷の望みを持ってしまったのだ。
けれど囁かれたのは否定のそれ。淡く淡く輝く三橋は、程近くで直接耳へ流し込むように言葉を続ける。
「ごめんね。もう、戻れない。やめるなんてできないんだ」
ごめんねと始まるそれは、懺悔には違いがない。けれど悔いても改めようとはしない言葉は、阿部のこころを冷たくした。
いつからだったろう、阿部の過保護を心地好く思うようになったのは。
三橋は阿部から初めて目を逸らし、銀色に光る窓の枠を見ながらそれを考えた。
思えば誰かに思われるという事が、自分には不足していたように思う。中学時代はまるで空気のようだった。好意の逆は嫌悪とは良く言ったもので、薄らとした敵意は見えても、基本的には何もなかった。そこには何もなく、まるで見えていないようの自分は自分でも見えなくなる時があった。
そして辿り着いた高校は、とても気持ちの良いところだった。あたたかなここで、だんだんと自分のからだが見えてきて、喉も言葉を取り戻した頃、阿部から向けられる気持ちに心がもっと温まった。
自分を大切にしてくれている。過保護のきらいがあると友人は言うが、三橋にとってはとてもとても喜ばしい事だった。
そうして嬉しかった阿部の心配が、次第に麻薬めいた快感に変わった。
自分は大切にされている。思われている。取るに足らない自分の一挙一動で顔色を変える阿部を見ると、堪らない快感を覚えるようになった。
わざと倒れるような事をしたのも初めてではない。それも徐々にエスカレートして、今回は本当に失神してしまった。
そのうち本当に取り返しのつかない事になるかも知れない。けれど、三橋が倒れたと聞いて真っ青な顔をして現れる阿部を見ると、もっと欲しくて堪らなくなるのだ。
まるで麻薬だ。やめられず、続けたところでろくな結末にもならない。
自分はもうとっくにおかしいのだ。それを言外に、薄い笑顔に変える三橋を、阿部は直視できなかった。
「……そんな事しなくたって、オレは」
「違うよ、阿部君。違うんだ。そんなんじゃだめだ。そんなんじゃもう、足りないんだ」
「そんな」
「阿部君。オレ、もう、だめなんだよ」
ごめんね。一瞬、睫毛を伏せた金の瞳は空ろの色をした。
阿部はまたも、それに光明を見たが。
「……もし。さっきは失敗したけど、今度こそ息がもう止まっちゃったら。阿部君、泣いてくれるかな」
どうせ空ろの色はやはり、ろくな事を考えない。
想像して再び唇の端を上げた三橋を見て、もうだめなんだな、と阿部も思った。
その目元から、絶望を主成分にした雫がつう、と頬を走った。
小さく丸く、透明のそれ。まるで外の光を吸って、きらりと光って見せたので、三橋は思わずそれを追う。
柔らかく暖かなものが触れたと思ったのは阿部。程近くに睫毛を伏せた三橋がいて、その距離はちゅ、という小さな音で再び離れる。
「……、ああ、」
「そんなもん、舐めるな」
「ん……阿部君の涙は、甘い味がするんだねえ」
ふふ、と三橋は笑った。
甘い、と三橋は宣った。
それは、絶望から出来たものだ。どんな味かは阿部にはわからない。
けれど決して良い味などしないはずだ。それを、「甘い」と笑った三橋は、もうどれくらい壊れてしまっているのだろうか。
そう思うとまた涙が出た。
一心不乱に唇寄せる三橋には、きらきらと白い光を閉じ込めたそれしか見えない。
けれど窓辺に背を向ける阿部に見えるものは、部屋の奥に転がる日陰の黒い色だけだった。
阿部は瞼を伏せる。せめて、また瞼を上げる頃には、部屋に光が満ち満ちて、彼と同じものが見られますように。
祈る阿部の瞼の上へ、三橋の唇が落ちる。
―― frozen our Summer
(But it everlasting glitter)
いただいたリクエストより
「三橋が阿部を泣かせて涙を舐める」
遅くなってしまってすみませんでした!
しかも病み橋で…
abmhの(わたしの中の)先駆者であるさかめしにも相談したのですが、なかなか阿部くんを泣かす方法が見つからなくて。
やりやすいかなと思ったのがバイオネタの二人だったのですが、逆にあそこまで追い詰められると阿部くんは麻痺しそうだという話になり。
阿部くんは自分がどうこうされるよりも、三橋がどうにもならなくなるほうが泣くんじゃないかということで、こんなふうになってしまいました…
いかがでしょうか… わたしは書くぶんにはヤンデレ大好きなのですが、リクエストは受けとる方が最優先ですので、書けたはいいけれどちょっとドキドキしています。
すてきなリクエストありがとうございました!
こういうお話をしてみたかったので、楽しんで書けました! ありがとうございます!