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序章


 九月になっても夏は連綿と続いていた。透明に光る窓の外を見やれば校庭の緑は未だに色濃く、葉や枝に明るい色の芝の上へ黒く黒い影を落として揺れている。
 暑さが収まるという処暑は八月のうちに迎えているはずだが、時たま木陰を吹き抜けるのは熱風だ。相変わらずの青い空と入道雲の、それより高くから注ぐ陽光が今日という日も三〇度超えの真夏日に仕立て上げる。
 しかしその暑さも眩しさも、教科書と筆記用具を抱えて歩く泉孝介少年にはあまり悪い影響を及ぼしてはいなかった。というのは彼が次の授業のために、渡り廊下を進んでいるからだ。
 五分後に始まる授業は調理室や理科室などが集められた特別教室棟にある一室で行われる。普段使っている教室棟からそちらへ向かうには渡り廊下を使うため、さほど広くないそこは泉のクラスメイトが緩慢な流れを作り出していた。
 夏休みが明けてすぐだから彼らの纏う雰囲気はまだまだ浮ついている。時折高い笑い声が起こる夏服の白と黒の流れの中、泉は正面でなくやや斜め前方の校庭を見ていた。
 クラスメイトの楽しげな声で満ちる渡り廊下は、同じくらい光に満ちていた。棟と棟とに渡された細い廊下はその端から端まで、右手も左手もいっぱいの窓が填められている。採光が良好であるのはもちろん、ほとんどの窓が開け放たれているために風通しもすこぶる良い。だから外が炎天だろうとこの渡り廊下にいる限りは比較的涼しく、泉は風の抜けていく方向を見ているのだった。
 特に変わったものはそこになく、あるものといえば校庭の草木だ。この渡り廊下は校舎の正面玄関へ続く道の真上に渡されているため、四階建てのうちの一階部分を欠く。泉がいるのは最も下の二階なので、道の両脇、校舎へ沿うように植えられた庭木がよく見える。
 それが夏らしく濃い色で揺れたり光を弾いたりするのを、泉は何とはなしに見つめていた。伏し目にするとその睫毛の濃いのがよくわかる。長さはそれほどではないが、黒くしっかりとした睫毛が大きな両目を縁取っている。
 本人にそれを言うと不機嫌になるが、泉は可愛らしい顔立ちをしていた。やはり一番それらしいのは大きくて睫毛の濃い目許だが、中学二年生というまだ幼いと言える体つきや輪郭の甘さが彼を可愛らしい印象にする。
それに対する精一杯の抵抗か、黒々とした髪はとても短く刈り込まれていた。前髪なんてほとんどないくらいにして、それでも張りのある髪はどこからか反射した光に当たって艶が走る。
 ぞろぞろと渡り廊下を行く流れの中、眩しい階下を見ているのは泉だけだ。確かに外はあまり明るくて目は傷むし、見ていても体感気温を上げるだけかもしれない。けれど外を見る事は、今や泉の新しい癖になっていた。教室でも窓際の席に座る泉はよく窓の外を見ている。というのも、外には「良いもの」が見える事があるからだ。
 それは外で見かける事が多いくせに、木々ではない別の強い光。それを見つける事に最早特化した泉の目は、視界の端に現れたその光の色を見逃さなかった。
「浜田先輩!」
 その色の持ち主の名を泉は呼ぶ。大音声と、突如立ち止まってしまったために泉はクラスメイトの注意を一身に集めてしまうが、それも一瞬だ。流れはすぐに元の速度を取り戻し、何事もなかったかのように泉を置いてひとつところへ収束していく。
 泉もまた流れを省みなかった。開け放たれた窓のひとつへ身を乗り出すと、更に名を呼ばわる。
「浜田せんぱ――……」
それに向けて声をかける。
「浜田先輩。何してんですか?」
 風で庭木が揺れていた。眼下には涼しい音を出すそれらが正面玄関への道を挟んで延びており、その真白く輝く道の上に彼がいた。
 泉が見つけたのは彼のトレードマークとも言えるその髪の色だ。夏の熱線を受けるとどの季節より鮮やかに光を放つ金色を見つけるのが、泉は誰よりも得意だった。
 癖気味で毛先が跳ねる金髪を揺らして彼は振り向く。動くと光さえ弾くようだ。瑞々しい緑の葉が弾く光よりもそれがずっと眩しくて目を細めた泉を、彼は少し笑いながら見上げた。
 背の高い人だった。泉のたった一つ上でしかないはずの彼は、同じ学年の男子よりもさらに一回り背が高い。けれど泉と同じ制服が包む体はまだ完全には大人でなく、また浮かべる人なつこい表情が彼を少年らしく見せていた。
 ちょうど校舎が作る日陰から外れて現れた彼は、真上から降り注ぐ光にその金髪をいっそ白く輝かせる。泉よりやや長い前髪は視界を遮るほどではなく、曇天色の瞳には髪と同じ色の睫毛だけが細く影を落とす。
 釣り気味の目を柔らかく細めて彼が泉を見上げるわけは、眩しさからか、それとも見つけられた事に笑ったからか。
 けれどそれだけで、彼の事が大好きな泉は満足感で胸を満たした。
 しかしそれは一瞬だけだった。泉の隣へ一人の友人がどうしたのと言いながら並んだのと同時に、彼は何も言わないまま背を向けて歩き出す。あ、と呼び止めようとした泉だったが、時間がそれを許さないと始業のベルを鳴らし始めた。
 二人の他は誰もいない渡り廊下に、ベルは言い聞かせるようにゆっくりと鳴り響く。それでも未練がましく窓から離れない泉を見て、友人が声をかけた。
「さっきの人、部活の先輩だっけ」
「ん、そう」
「あの色だし目立つ人だよなあ。外向かって歩いてったみたいだけど、学校サボり?」
「…………」
 友人の言葉は問うようの色をしたが、泉はそれに答えず彼が消えた道の上を睨んでいた。泉が枠へ指をかけた窓は正面玄関を向いており、彼が向かっていったのは校外へと続く正門のほうなので泉はその姿を追う事が出来ない。
 後に残るのは夏色をした緑と白い石畳の道。今ほどと何ら変わらない筈なのに、彼がいないと思うだけで面白味のない乾いた色に見えてしまう。
 尚も彼のいた場所を睨む泉だったが渡り廊下を大人が一人やって来る音を聞き、友人と慌てて教室へ駆け込んだ。
 起立、礼。そして教師の講釈が始まっても、泉の意識はあの眩しさをこらえるようの彼の表情が占めていた。


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