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第一章:三十度の微熱

 泉の通う中学校には自動販売機がある。飲み物を売っているそれは校内にたった一台で、それも紙パックが数種類だけ入れてあるものだが需要は大変にあった。
 その自販機は、出入りのパン屋が正面玄関に昼休みの間だけ店を出す事と、外で部活をしている生徒が買いやすいよう、玄関の外れにある猫の額ほどのホールに設置してある。昼休みをピークとして常に誰かしらが並んでいるのを見るこの自販機だが、放課後は帰る生徒もいるため比較的空いている。しかし一日の終わりともなると人気商品は売り切れてしまう事が多く、泉も売り切れの赤いランプを避け牛乳を買う羽目になった。
 べつに牛乳が嫌いなわけではない。いちごオレやバナナオレは泉の舌にはやや甘味料の味が過ぎるし、それに比べれば牛乳はさっぱりしていてむしろ好ましいくらいだ。
 ただ泉は現在、中学二年生という繊細な時期の真っ直中にいる。その真偽に関わらず牛乳イコール身長が伸びるものというあまりにも短絡な図式が定着しているこの中学生社会で、平均にやや満たない背丈の自分が牛乳を買っているところを見られたらもう十中八九こいつは牛乳に相談していると思われる事だろう。
 実際は他人が何を買うか見ている暇な人間など居はしないのだが、泉は良くも悪くも自意識が大きくなるお年頃の少年だった。でもまあ、カルシウムを摂取する事は決していけない事ではない。泉も何だかんだ言って牛乳イコール身長が延びる説の一信者だった。
 自販機の横に据えられているくずカゴの前で、パックから取り外したストローの先端を銀色のフィルムに当てる。ぷつ、と簡単に破けて吸い出せるようになった牛乳を軽く口に含みながら、泉は何とはなしに玄関の外へ目をやった。
 渡り廊下は天井と床以外がほぼ窓だったので光にあふれていたが、同じよく晴れた昼下がりでも壁ばかりの玄関は暗い。当然朝は大勢の生徒が利用する玄関なので入口のガラス戸は大きく何枚もあるが、今は校舎の影になっていていくらの陽光も差し込まず、泉は暗がりから眩しい外を見やるかたちになる。
 あまり強烈な光と暗がりのコントラスト。目が慣れるまで少しかかったが、そうまでして泉がじっと見るのは数時間前先輩が消えて行った正門の方向だった。
 この正面玄関はあちらから入ってきて真っ直ぐに校庭へ突っ切る事が出来る。校庭と正門からの石畳を分けるようにあるのがこの玄関なので、校庭で部活がある生徒もそのまま帰宅する生徒もここを必ず経由するのだ。
 この後部活に参加しなければならない泉が向かうべき校庭の方向ではなく、正門のほうを向いていたのは本当にただの偶然だった。もしかすると昼間の事があったからかも知れないが、泉自身は無意識のつもりだ。

 だからそれを見つけた時、自分が彼を見つける事はもうほとんど運命なのだと思った。時計の上では昼も終わりに近づいた頃だというのに少しも翳らない陽光を受け、彼の色はやはりきらきらする。束を作ってやや跳ねる毛先を光が滑る、それはもう金でなく白だ。光を冠のように髪へ戴く彼に、泉はそれが決まり事のように声を掛ける。
「浜田先輩!」
 白い石畳を彼は歩いてくる。外から今帰ってきたようであるのは気のせいだろうか。まばらに同じ道を歩く生徒全員と真逆に彼は玄関へ向かっており、その少し入ったところでぶんぶんと手を振る泉に彼も気が付いた。
 途端に目元を和ませて泉、と彼も相手の名を呼ぶ。正面玄関の敷居を跨いでしまうとあの白い冠は消えてしまうが、暗がりでも彼の髪はその色を忘れたりはしなかった。
「泉、何してんの」
「こっちのセリフですよ……部活行く前に水分補給してたんです」
「へー……背、伸びるといいなあ?」
「これはそういう意味じゃないです!」
 玄関に入ると彼は学年ごとに割り振られた下足入れを無視し、泉のほうへまっすぐにやって来る。汚れが付いたスニーカーのままなので三和土から上へは来られない彼に替わり、泉もそちらへ歩いて行く。
 三和土へ立つ彼と、そこより一段上のリノリウムに立つ泉。段差は一〇センチほどあるだろうが、中学三年生にして既に一七五センチを超えている彼と年頃の平均に満たない泉では、目線を同じくする事も適わない。
 ほんの少しだけ彼の前髪の方が泉の目線より上だ。そして、同性なら学年が一つ違う事を含めても悔しさを感じるべきその差を、泉は憧憬で染めた目をして見ていた。
 だから彼が自分の手元を見ていたずらっぽく笑い、背が伸びるといいねと左手で頭を撫でてくれた時も、泉はその手を突っぱねながら本当はくすぐったい気持ちをしている。
 こんなのは初歩的な照れ隠しだ。短くしている泉の髪は真っ赤になった耳を隠す事は出来ないし、彼もそれがわかっているのか生意気な事をする後輩を責めたりはしない。
 それどころかくすくすと目を細めて笑う。それに対して、「ふり」であろうが生意気を通すなら唇を尖らすくらいはしなければいけないのだが、良くも悪くもまだ幼い泉は見とれてしまっていた。

 彼は泉の先輩で、浜田良郎という。泉と彼より一学年上の中学三年生である浜田は、この夏まで同じ野球部に在籍した先輩と後輩だ。
 もともとは小学校も同じでよく一緒に遊んだ間柄だ。中学に上がってもあまり学年にこだわらない浜田は変わらず泉によくしてくれていた。
 よくある先輩と後輩の関係。けれど本当はそれだけでない事を、泉だけは知っている。
 大きな目にただの憧憬だけでない光を湛えて泉は浜田を見上げる。彼もそれを見ていたが、その視線がふっと逸れた。
「……オレも喉乾いたな。牛乳一口ちょうだいよ、泉」
 やや間を置いて浜田がそう申し出る。泉が拒否する事などはなから思っていないらしく、差し出した手のひらは泉の手に触れ容易に白い紙パックを浚っていってしまう。
 泉の手から渡った紙パックは彼の顎の前に落ち着き、まっすぐに立ったストローを浜田はくわえる。
 赤い唇だった。暑さのせいだろうか。ストローをくわえた時の動きはその柔らかさを見せつけるようで、一瞬心臓をどくんと大きく鳴らした泉はすぐに彼から目を逸らす。
 視線を落ち着けたのはより暗いところへと続く廊下だ。リノリウムは窓が映す明るい空を反映して艶のようなものをそこへ走らせてはいるが、そんなのはいくらも廊下を明るくしない。
 ただてらてらと光るそれを見て心臓を鎮めながら、泉はそっぽを向いたままぼそりと呟いた。
「……先輩はもう身長いらないでしょ、」
「何だ、そういう意味じゃないとか言っておいて結局泉も気にしてんじゃん。身長が伸びるって話」
「気にしてないです! 世間が気にしてんです!」
「ゴクゴクひょーゆーのフェリクツってゆーんらゴクゴク」
「アンタ飲み過ぎだよオレの牛乳なのに!」
「プハァ。いや、カワイイ泉がカワイクなくなったら嫌だからさ。悪は絶とうと」
「悪はアンタだよ! 何だよもーほとんどなくなってんじゃん、バカ、バカ田先輩!」
 おまえひどいね、と泉の言葉にさすがの浜田も苦笑する。だが泉にしてみれば酷いのは彼の方だ。泉が牛乳を飲んだのはほんの二口かそこらだったのに、ひったくるようにして取り戻した二〇〇ミリリットルの紙パックにはもう一口くらいしか残されていない。
 確認のため振ってみるがパックの内側に当たって起こるのはごく軽い音だ。ぱちゃぱちゃとしか言わないそれを耳の横で振り、思い切り睨みつけると彼は軽く肩を竦めた。
 普通遠慮というものがあるだろう。飲むにしたって一気に飲む事はないじゃないかと思って、泉はふと気が付いた。
 冗談にしたってよほど喉が乾いていなければ二〇〇ミリパックを飲み干すなんて普通はしない。二人の通うこの学校は夏期に限り熱中症への対策として飲み物の持参を認めているが、見た限り浜田は手ぶらだ。
 彼が外へ出て行くのを見たのは午後一番の授業の直前だ。給食は食べたとしても、それからだとこの暑さの中、もう四時間以上は何も飲んでいない事になる。
 外に出ていたのなら途中で何かつまんでいてもおかしくはないし、ベルトに絡んでいるチェーンの先にはおそらく財布が繋がっている。しかし、彼があまり買い食いしないたちであるのを泉は知っていた。

 浜田を見る泉の目が何か言いたいようの色をする。そして言葉を紡ごうと泉が口を開くと、彼はそれを遮るようにやや大きめの声を出した。
 濃い灰色の瞳は泉を見てはいなかった。

「ところで泉、行かなくていいの。部活」
「…………」
 あからさまに話を変えられた。浜田は人と話す時はちゃんと相手の目を見る。それなのに顔ごと背けたわけは、何かを言おうとした泉と、泉の後ろに見える校庭のせいではないのか。
 そう大きくないガラス戸が枠を作る絵は、室内の暗さと対照的にきっと眩むほどに眩しいだろう。土の埃が風に吹かれて舞うくらい乾いた地面の色は明るく悠々と広がる。それを囲うのは砂塵の飛散防止のためのネットだ。さらに上を見れば青く高い高い空がどこまでもある。
 彼の瞼の裏にも焼き付いているはずのその光景。それから目を背けるわけは単に光量だけの話でないはずだ。

 いつもそうだ。
 浜田は本当に肝心な事を言わない。訊ねたところで言ってくれなかった場合を恐れ、何も聞けない自分が悔しいから、泉はせめて憎まれるような口を利く。

「……もうオレらが一番上なんで、ちょっとくらい遅れたっていいんです」
「ふうん、そう。悪いんだな」
 唇を尖らせた泉がそう答えるのを聞いて、浜田は意地悪げに唇を歪ませた。
「じゃあいっそバックレちまうか」
「え?」
「荷物持ってんな、ちょうどいいや。来いよ」
「えっ、ちょっ、ちょっと先輩……!」
 ばっくれてしまおう。そう言った彼はとても楽しい事を思いついた子供のような、いたずらっぽい顔で笑った。突然の誘いに逡巡する泉に手を伸ばすと牛乳パックを掴んでいた手首を取る。

 ほら、と彼が引く方向へのめりながら、泉は彼を見ていた。
 彼だけを見ていた。彼が誘うならどこへでも行ける気がした。

 けれど泉は一度強く奥歯を噛むと、待ってくださいと声を出す。

「……上履きのまんまですから。靴、履き替えなきゃ」
「あ、そっか」
 今気付いたような声を出して彼の手が離れる。都合の良い事に泉の外履きがあるのはひとつ向こうの下足入れで、急いでそちらへ向かうと泉はもう一度、奥歯を噛んだ。
「――――ッ……!」
 彼からは見えないそこで、今度は奥歯だけでなく目もぎゅっと瞑る。そうでもしないと思いが溢れてしまいそうだった。
 泉は彼が好きだった。それは最早憧憬でなく、異性を思うように強く強く慕うものだ。
 けれど彼に知られてはいけない。泉はまだ幼いとも言える年齢だが、同性に思いを寄せる事がどういう結果を迎え、またもたらすのかを知っていた。
 だから世界を一度暗転させると、自分は彼にとっての「生意気な後輩」であると言い聞かせて瞼を上げる。丸い瞳に映り込んだ景色は全くいつもの校舎の様子で、泉は至って普通の様子で靴を入れ替える。その時、右手に持ったままの紙パックにふと目が行った。

 この気持ちを伝えるつもりも、まして叶うことも願わない。
 だからこれくらいは許して欲しいと願った。

(――……甘い、)
 彼が口を付けたストローへ泉もまた唇を寄せる。少し前に彼がそうしたように柔らかく上と下の唇で白いそれを挟むと、紙パックを傾けて吸い込んだ。
 すぐに空気を吸い込むような音に変わりはしたが、ほんの一口ばかりが泉の舌の上へ零れ落ちる。
 飲み込む前に口の中へ広げるように舌を動かすと、その甘さがいっぱいに広がった。量が少なく冷たさが消えるのも早かったのか、ほとんど常温だった一滴の牛乳は甘かった。

 けれど泉はその甘さを大好きな彼との間接キスのせいと思い込んだ。
 きっともう二度とする事はないキスの味。
 それを甘いと、信じてみたかったから。


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