★Room
自分はそれなりに不遇な男である、と浜田良郎は思う。
まず生まれがそこそこに貧しかった。現代っ子であるが最新のゲーム機などとは縁遠く、遊びといえばもっぱら外でするものだった。
しかしそのおかげか遊びでやっていた野球が得意で、その延長で入った小中学校の部活動ではかなり活躍したのだが、最後は故障により断念せざるを得なくなった。
わりとショックだったところへ更に追い討ちをかけるように、父親が勤め先の首切りに遭い、家族が遠いところに引っ越す事になった。
なんとか親を説得し浜田だけは生まれ育った町に残り、高校四年間(留年した)の学費と生活費は自分で働きながら稼なんとか卒業したが、進学は資金不足とそもそも勉強が不得手であった為にすぐ社会へ出た。
自分の人生には金と運が慢性的に足りていない。
そう信じていた浜田だったが、ここ最近は運の巡りが良い。
働き始めてはや数年、真面目に働いていたおかげで、まず正社員になれた。貯金も余裕ができた。生活に余裕ができた。
生まれてこのかた貧乏長屋を転々としてきた浜田がそろそろ快適な住まいを、と転居を考え始めた頃、なんと高校からの悪友が宝くじで高額配当のそれを当てた。
彼はそれを元手に夢を叶えようと、目をつけていた駅裏のやや古めかしいビルをまるごと買い、大改装を施した。
悪友は酒が趣味で、更にもう一人の悪友が食べ物が趣味なのでビルの一階を飲食店とし、残る上の階を居住スペースにした。その一室を浜田に格安で貸してやろうと言うのだ。
是非にと入居を即決した浜田にとって、今日が新居で始まる生活の初日だった。
荷物の運び込みは済んでいる。もらった鍵を指に引っ掛けてぶんぶん回し、スキップしそうな軽やかな足取りで階段を駆け上がりながら、浜田は新生活に思いを馳せた。
「んふふふ、ねっこー、ねこー♪」
思いが駄々漏れであるが、聴いている人間はいないので別に気にしない。
浜田が新生活を楽しみにしているわけは、部屋が今までのどれよりも見た目がきれいである事と悪友たちがすぐ近くにいる事と、そしてその悪友たちが提案してくれたものによる。
そもそもその提案も浜田が先に彼らに尋ねたものによるのだ。それは、ペット可であるかという質問だった。
浜田には小さい頃からの夢があった。ペットを飼う事である。
今までの貧乏長屋はペット不可であり、浜田少年は友人宅のネコだのイヌだのに大変憧れた。
ふわふわもこもこキュートな生き物。浜田少年も祭り場で金魚すくいから真っ赤な金魚をいくらかもらって帰ったが、そもそも触れもしない、ふわふわもこもこでは一切ない魚類である。死ぬまで面倒は見たが、ズレを感じた浜田少年の心が満たされる事はなかった。
だから、もしいつか転居する事になったらペット可の物件にしようと思っていたのだ。
その旨を悪友たちに話したら、許可は下りたが条件を付けられた。
ペットは悪友たちが誂えるという。しかし爬虫類や魚類は浜田のイメージと違うのでそれを聞いた時はたじろいだが、誂えるのはネコだというのでむしろお願いしますと頭を下げたくらいだ。
コンパスの大きい浜田の脚がスキップすると、階段なんて一瞬だ。すぐに部屋のドアが見え、振り回していた鍵を差し込む。
悪友どもの話では、まだ小さい子どものネコだと言っていた。毛色は青みがかった黒それ一色らしい。
目の色は毛よりも明るい青だとかで、想像するに高級そうなネコだ。
ただ残念ながら生まれたての仔猫ではないらしいが、それでもまだあどけない感じの子どもらしいし、それに黒ネコは他のネコより甘えん坊の傾向があるという話だ。大変楽しみである。
これからぴかぴかの新居で甘えん坊のかわいいネコと寝起きを共にするのだ。しあわせすぎる。
ネコは既に部屋にいるというので、期待からドアノブを回す手も焦りぎみだ。
「ちーす。ねこー?」
「…………」
「……え、」
あまり恵まれていなかったオレの人生にも良い風が吹き始めている、と頬を緩めながらドアノブを引いた浜田の前には、人間がいた。
部屋には人間がいた。
ネコではなく、人間がいた。
全裸で。
「え、え?」
「ん。」
「え……何で手挙げてんの、」
「『ねこ』って呼んだだろ。ねこだから、オレ。」
ネコがいると思ってドアを開けた新居には、全裸の人間がいた。
玄関のドアを開いたまま硬直している浜田に向かい、その全裸人間は挙手をした。
肘を伸ばした大変きれいな挙手であるが、意味がわからない。浜田が混乱しているなりに質問すると、先客は挙手をした手と反対のそれで自分を指した。言うに事欠いて自らをネコだという。
くそ、梶梅め、悪ふざけにも程があるぞと今ここにいない悪友どもを心の中で罵って、浜田は部屋の中を見回した。今頃隠しカメラでこの様子を見て大爆笑しているかもしれない。鍵だけ渡して付いてこなかったのはその為か。
ともかくも部屋に入り、ドアを閉める。細い廊下に積んである荷物は見覚えのある段ボール箱で、ここが浜田の部屋であるのは間違いない。
この子は、悪友たちに頼まれたイタズラの仕掛人なのだろうか。これだから人間余分な金を持つとろくな事がない。
それにしたって、裸にひん剥くとはイタズラの度が過ぎている。更にネコと言い張るだけあってネコ耳のカチューシャと尻尾まで付けている。いかがわしい店から派遣されて来たかのようなわかりやすい格好に、浜田はため息を吐いた。
まだ裸のおねえさんがいるのならドッキリらしいが、見れば若い男の子だ。あまり凝視はしないが窓からの日の光が浮かび上がらせた体の線は細く、上背もあり肉付きの良い浜田と比べれば子どもみたいなものだった。
中学生ほどではない、子どもよりも大人に近い、高校生くらいの骨格だ。
高校生を裸に剥いてこんなふうにするのは最早性犯罪だ。もしくはお金欲しさに本人が望んでいるのかも知れないが、この度の悪友どものイタズラは度が過ぎているというか悪質過ぎる。
だから、浜田は毅然と応対した。
どこかにあるのだろうカメラにちゃんと聞こえるよう、梶梅の悪戯だろうと言い、まず服を着ろと少年に言う。
しかし彼は服は嫌いだとか訳のわからない反抗をしたので、浜田は近くにあった段ボール箱から自分のTシャツを引っ張り出すと、ずかずかと部屋に上がり込んで無理やり上からTシャツを着せた。
とりあえず目のやり場には困らなくなった。真っ青のTシャツがチュニック丈になってしまっている少年は、ものすごく嫌そうな顔をして浜田を睨み付けた。
「いきなり何怒ってんだよ!」
「んなタチの悪いイタズラされりゃあ誰だって怒るだろ。何がネコだ何が」
「オレはネコだっつーの!」
「はいはいわかったわかった」
いわゆる逆ギレというやつだ。少年は心底わからないといったふうに浜田を問い質すが、真面目に取り合う気はない。
カチューシャの猫耳は出来が良いが、偽物は偽物である。人間がそんなもん付けたところでネコにはならない。
さっきまでうきうきしていた分イタズラとわかり落胆も相当だが、見知らぬ少年に怒鳴り付ける程浜田は大人げ無くはない。
少年は尚もネコであると主張するが、浜田は最早見もしない。もう行け、と手で示す浜田を見て、少年は盛大に床を踏み鳴らしながら、浜田の横を通って玄関へ向かった。
少年のお帰りである。ガチャ、とドアノブが回る音に、浜田が一言言う為振り返る。
「あいつらにたっぷり請求しとけよ。当分小遣いに困らねーくらいさ」
「…………」
浜田が玄関を見ると、少年は開いたドアを背にしてこちらを見ていた。そういえばTシャツを着せたままだが、もうだいぶくたくたのものだからくれてもいいか。
明るい外の空気を負う少年の姿を、浜田は初めてちゃんと見た。
線の細い体つきに、見慣れた自分のTシャツ。鎖骨が出てしまうくらいサイズの合わない青いTシャツの上には、小さめの顔が乗る。
まだ甘い線の輪郭を撫でるように降りた髪はやや長く、光を受けて青く輝いている。そのてっぺんには一対の三角耳が付いて、よく見ればTシャツの裾から尻尾らしいものまであった。どうやって付けているのかは想像しない事にする。
こちらを見つめていた少年が、背中でドアを押す。
部屋に入ってくる光が増え、ドアが開ききると、少年はこちらを向いたまま足を一歩後ろへ踏み出した。
少年が部屋から通路に出た、その瞬間、少年が消えた。
踏み出した後退の一歩から動いていない。急に消えたのだ、証拠に、彼に着せたままのTシャツだけが引っ張られるように通路へ落ちた。
「消えた……?!」
まさか、通路から落ちたのでは。
そう考えてぞっとする。だいぶきれいに改装されたとはいえ、造り自体は昔のそれから変わらない。ほぼ外に作られた通路と階段は補強はされても幅が狭く、転落防止の為の柵はあるが壁でないのでずっと脆弱だ。
消えたように見えるほどすんなりと転落したりはしないと思うが、それでも急に人間が消えるという現象など見た事のない浜田は慌てて玄関へ向かった。
「……あれ、」
玄関から一歩通路へ出た場所に、あの少年に着せた青いTシャツが落ちている。
Tシャツごとすり抜けたのだろうか。その中で動くものに目を引かれた浜田は、安否を確認すべき行方不明の少年から一瞬だけ気が逸れた。
確かにあの少年にはサイズはぶかぶかだったが、ほぼぺたんこになったTシャツの中で蠢くほど彼は小さくない。屈んでつまみ上げると、だるだるになった襟ぐりから小さなネコが顔を覗かせた。
青みがかった黒ネコだ。真っ青の猫目で浜田を見上げるネコが、なう、と可愛い声で鳴くので、一瞬だけ少年の事を忘れて手が伸びてしまった。
あれだけ焦がれたネコだが、しかし、今はあの少年だ。
ネコを抱き上げつつ柵の下や通路のあちこちを見てみるが、少年の姿はどこにもない。
よっぽど脚が早いのか、手品かなんかだったのだろうか。もしかすると忍者とかかも知れない。鍵の掛かっていた部屋に忍び込んでいたし。
柵の下を見つめながらそんな下らない事を考えていた浜田だったが、腕の中からまた可愛い声がしたので、勝手ながら少年はきっと無事であろうと結論付けた。
おそらく姿が消えるところまでがイタズラだったのだ。だから少年は落ちたわけでないから大丈夫、という事にして、浜田は頭をネコに切り換えた。一瞬で。
「なう」
「なんだおまえ、どっから出て来たんだ?」
甘ったるい鳴き声に視線を下ろすと、世間一般が認めるれっきとしたネコが腕の中にいた。
小さくて可愛いネコだ。すらっと伸びた手足や細い体つきなど、まだ仔猫の名残があるが、生まれたてのようなふわふわした丸っこさはない。正確な年齢はわからないが、子どもを脱して、大人になろうとしている頃だろう。
ネコはだいたい可愛いものだとは思うが、この子は目が大きく、目尻の垂れているのが特に愛らしい。
その小さい頭部に対して浜田の手は大きすぎる為、親指一本だけで額を撫でてやると、目を細めて甘受する。
毛が艶々してきれいだ。仔猫はふわふわした感じだが、大人になりかけのこのネコは柔らかい毛と大人のしっかりしたそれの間くらいの手触りで、撫でると艶が指に付いて流れてくる。
そういえば、悪友どもが話していたネコはちょうどこんな感じでなかったか。
部屋に入った時には間違いなく居なかったから、もしかすると、あの少年と入れ替わりで現れるという妙な出し物だったのかも知れない。
あのイタズラの件について、悪友どもは後でシメるとして、とりあえず荷解きしながらこのネコにおやつでも与えよう。かつぶしくらいなら持って来ていた気がするから、まずはそれの入った段ボール箱を探さなくてはならない。
そんな事を考えながら、浜田がネコを抱いたまま部屋に戻る。
バタン、と閉じたドアが壁と平行になると、腕の中が急に重くなった。
一体何が起きたのか。理解する前に何故か顎先を打ち、頭がのけ反る。
「ってえ?! あっぶね、舌噛む……」
「顎、大丈夫か?」
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