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雨と鼈甲飴の話 弐

 

「おい文貴。」

「んー。」

「俺は、幾らで買った。台帳にあったろう。」

「まあ、安い方だったね。」

「其れで何時まで働かされる。」

「花の盛りが終わるまでかな。」

「因みに、うちの稼ぎ頭は幾らで買った。」

「泉の三倍くらい。」

「年季の明けるのは。」

「其れも、花の盛りが終わるまでだねえ。」


 忘八め。幾らで買ったものだろうと、使えなくなる迄働かせるのだ。
 幾ら客の相手をしても、しないと代わりないならば、こんな仕事一層したくはない。
 逃げてしまおうかな、と思ったが、自分に良くしてくれるあのひとに迷惑が掛かると思えば其も出来ない。
 結局は、籠の鳥だ。


「泉。」

「何でぇ、文貴。」

「旦那が身請けしたいって言ったら、額は相談するよ。おまえあの人好きだろう。」

「餌くれるからさ。」


 唇の端を自棄の其に歪ませて、泉は部屋を出て行く。
 最早襖は隙間なくぴたりと閉まっていた。誰も居ない其処を見詰め、やがて膝の上で丸まる猫へ目を移した主は一人言を呟く。
 ぶちた猫は目を閉じて、何も見えぬ、聞こえぬ振り。


「ねえ。だって、俺はこんなお宿の主だけどさ、泉の友だちなんだもん。」


 しあわせになって欲しいよねえと、猫の頭を手で撫でる。
 文貴と泉とは、彼が此処に来てからの付き合いだ。
 小さい頃はもっと目がくりくりとしていて、文貴はかわいいなあと感じたが、大人はそうでなかった。
 小さな頃からたった一人で戦っていた所為で、泉は素直な口が利けなくなった。
 本当は良郎が好きなのだ。彼はあんなに固まっていた泉の心を両手でそっと包み、呼吸の仕方を教えてやったらしく、彼を迎える時の泉はとても生き生きとした顔をする。
 其は、文貴にしかわからない、些細な違い。本当は良郎をとても好いているのに、籠の鳥だと気付かされてまた意固地になってしまった。

 だって、文貴は売春宿の主だ。
 仁義礼智忠信孝悌、人として大切なものを忘れた振りでもしなければ、到底こんな役は務まらない。
 其でも、大切な友人のしあわせを願う。忘八には忘八なりの、願いがあっても良い筈だ。


「あの人、泉を好きになって、連れてってくれます様に。」


 ぐりぐりぐりぐりと指で猫の額を押すと、ぶちた猫は嫌がって再び外へ出ていってしまった。
 外は眩しい光で満ちている。昼の間は、宿にとって僅かの安らぎの時間となる。

 復来る夜の為に、悲と喜と交々のまろやかできらびやかな時間の為に、皆眠れ、眠れ。
 文貴が欠伸ひとつして寝間へ下がると、部屋は光で満ち満ちた。

 月と日の光と夜の色。其だけは、誰の上にも等しく注ぐ。


―― They are the Prayer.

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