雨と鼈甲飴の話 弐
【和風ネタ2】
風呂は好きだ。
ろくな宿じゃないから風呂場は広くもないし、綺麗でもないが、仕事終わりに熱い湯を浴びるのは気持ちが良い。肌に纏わり付く汗だの何だのをすっかり落としてから寝るのも復た気分が良い。
まあ、何でもすっかり落ちると云う訳じゃあないが。変な痕が薄く残った手首を晒して髪の水気を拭き取りながら廊下を歩いていると、襖の少し開いた部屋があって、其れに手を掛ける。
すう、と静かな音を立てて襖を開くと、頭の茶っこい男が文机に向かい、何やらすれすれまで帳面に顔をくっ付けていた。
まさか途轍もない近眼という訳でない。泉は肩を落として息を吐くと、その男の名を呼んだ。
「文貴。」
「ふにゃ。……あー、泉。」
「鼻の頭、墨付いてンぞ。」
帳面すれすれの様に見えたが、鼻がくっ付いていたらしい。名を呼ぶと其奴は茶っこい頭を上げ、後ろ手で襖を閉める泉を見つけてふにゃりと笑った。
何の実害もなさ気な、ついでに何の役にも立たなそうな奴だ。
その精彩さを欠くふやけた笑顔を見ると大半の人間はそう思う訳だが、何を隠そう此れが泉の宿の殿様なのである。
一年前に宿を継いだ文貴は、年が泉と同じと主を名乗るにはまだやや若く、其れに此の有り様だから、先ず舐めて掛かられる。
中身も見た目と大差ないから仕方ないと云えば仕方ないのだが、此れでも彼は忘八と云う碌でなしの一員だ。
舐めて掛かると、意外に酷い目に合う。
袖で鼻の頭を擦り、取れたかと訊いて来るので泉が頷くと、彼は此方を向いた。
其の鼻には墨が薄ら残っていたが、泉はおもしろいので黙っていた。
「泉、此れから寝るとこ。」
「おう。」
「今日もご苦労さん。夜は復たアレかい、あの、頭のキラキラした旦那が来るの。今日は違ったろ。」
「何、たったの一日置いただけで復た来るもんかよ、幾らこんなとこでも金が持ちゃしねェ。」
主の前でこんなも何もないが、付き合いは古い。文貴の気の良いところも手伝って、関係は限りなく友人の其れだ。
其の証拠に彼は気にした風もなく、代わりにアレと目を丸くした。
「泉、知らないの。」
「何だよ。」
「旦那、役者だってよ。結構人気あンだって、訊いたら姉貴が云ってた。」
女ってああ云うの好きだろう、そう云う文貴の黒い鼻から、泉は久方振りに目を外した。
彼の云う頭のキラキラした奴とは、此の間から泉のところへ遊びに来ている客の事で、名を良郎と云う。
雨の日に迷い込んで来た、体の大きくて、人好きのする顔で笑うひと。一等目立つのは其の髪の色で、べっこうの様な透き通った明るい黄色の髪をしている。
もう何度か来ていて其れなりに話もしているが、役者をしているなんてのは初耳だった。
何故か泉は驚いてしまい、やっとの事で、あんなのがか、と言葉を返す。
「うん。ホラ、あの頭目立つろう。そんで人が、わらわらーっと」
「虫かよ。」
「あは、冗談。あの人、人が良さげな感じだけどさ、芝居の時は何かすげぇ綺麗なんだって。俺は見てないからわかんねえけど。」
「ハア。」
あんなのが綺麗とは、悪いが如何いう目をしているのだろうと思ってしまった。
綺麗と云えそうなのは、あの髪の色位だ。顔だって好い男だなとは思うが、そんな風に云って貰える様な繊細な作りでは決してない。
背だって妙に高いし、筋肉は付いているし、おおよそ綺麗と云える見てくれとは違うが。
もしかして、舞台に上がると違うのだろうか、と泉は思った。
外に出られない泉は話でしか聞いた事はないが、芝居とか舞台とは、もしかしたらそういったものなのかも知れない。
見てみたいな、と思ったが、其れは成らない事だ。なのに、文貴のあほうは宣った。
「今度おねだりして、連れてって貰えばいいじゃん。」
「……おまえ、売春宿の主として、自覚が欠けてるぞ。」
「えー、泉は逃げないでしょ。良いよお芝居見に行って。」
何処の郭にそんな事を云う主がいるか。見す見す逃がす様なものだろう、と睨めつけると、文貴は縮こまる。
だって、と続けた言葉は、泉は逃げないだろうというものだった。
確かに、泉は機会を与えられたとして、逃げるつもりはなかった。
やりたい事もなければ行く宛もなし、金の稼ぎ方なんて他に知らないから、結局雨風凌げるこの屋根の下に戻って来て、同じ事をするだろう。
「そうだなあ。」
良く知っているじゃないかといつもの減らず口を叩いて遣りたいところだったが、図星で言葉が出て来ない。
泉が言葉を返せないでいると、戸を開け払った縁側から、ぶちた猫が一匹入って来た。
文貴の飼っている奴だ。其れはとことこと歩いてきて、飼い主の膝に座る。
外の様子を見る限り今日は晴れる様だが、明らかに外から来たものを気にせず膝に上げるのは如何なのか。
脚に付いた土くらい気にした方が良いのじゃないかと思うが、文貴は膝の猫を撫でる。
「万一逃げたら、あの旦那に吹っ掛けるだけだよ。」
優しい手付きで猫の毛を撫でるくせ、言う事はほぼ脅迫だ。
懇意にしている良郎の芝居を見に行って其の侭泉が消えたと云えば、良郎が手引きしたと思うのが妥当だろう。だから彼に損失を埋めさせようとする。だが、泉が勝手に消えてしまうという事だって考えられられない訳ではないのだ。
文貴はどちらだろうと良郎に吹っ掛けるつもりなのだ。泉に客を取らせるよりは、彼に金を出させた方が余程実入りが良いと踏んだのだろう。
逃げてくれた方が良い、とさえ思っているのだろうなと、泉は俯いている彼の頭を睨めつけた。
「…今度来たら、ねだってみるさ。外泊くらいさせてくれるんだろう。」
「勿論。あんな上客うちにゃ中々来ねえから、是非是非捕まえといて。」
ばかのくせに、矢張食えない奴。
鼻の頭のを黙って居りゃ良かったと思っても遅い。柱に背中を預けて立っていたが、後ろ頭も付けて泉は溜め息と共に天井を仰ぎ、部屋を出る。
襖に手を掛け、そこで泉は思い出したように彼に問うた。