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眩む

 
 真夏の風は透き通る。日陰にいるほどそれはそばを吹いて、昔ながらの大きな木枠の窓から入る風に硝子の風鈴がりりりと鳴いた。
 自分にその記憶はないけれど、こういう感情を郷愁というのかもしれない。夏を旨に作った木の家は天井が低く、窓が大きく、天井や柱は時を経て黒ずんだ木目。窓の外に植えられた木々の陰で蝉が声を上げている。
 マンション住まいのおれにはそういうものと縁がない。だから、あんまりの夏に眩んでいたのだ。


「……ぃ…。」

「いるよ。…いいから寝てろって。」


 そしておれの見上げる空を切り取る窓の隣にベッド、そこに寝ている奴の右手は、おれの手の中に収まっていた。


「田島」

「………、」

「タオルの水ぬるくなってきたから、替えて来る。」


 隣に置いた盥の水を空いた手で示すと、喋るのも億劫な彼は繋いだほうの手を少し強く握った。
 どこにも行くなと言うのだろう。けれどしばらく繋いだ手は彼の体温と同じくなって熱い。早く良くなってもらわなければならないのは勿論だが、タオルがぬるくてつらいのは彼なのだ。
 すぐ戻ると言っても彼は手を放さない。だから額に乗せたタオルを裏返しながら、その陰から窺う目にどこにも行かないよと呟いて、ようやくその手は放された。

 田島が夏風邪をひいた。友達が風邪をひいた、それだけの事なのに、おれは田島の家にいた。

 全ての始まりは朝練を終えた後の田島がふらふらしていた事による。瞑想の時繋いだ手がいつもより熱いなとは思ったが、次第にふらつき始めたので無理矢理保健室に連れて行ったら、体温計は三九度を指し示した。
 なのに高熱でつらい筈の本人は帰りたくないとぐずりにぐずり、仕方ないので家まで引っ張って来たらこの有り様になってしまった。
 学校の隣だからと家まで来てしまったのが悪かった。保健室まで付き合い家まで付き合い最終的には帰宅するなり動けないとへたり込んだ田島を担いで部屋のベッドに押し込んだ。
 我ながら面倒見の良さに泣けてくる。おれは年の離れた妹が二人もいる為にこんなんで、田島は大家族の末っ子だから、甘えるのが上手かった。
 緊急事態につき、勝手に薬とタオルに盥なんかを用意してやって学校に戻ろうとしたら、田島は行かないでよと言った。
 熱に浮かされた涙目で弱々しく。家族は出払っている様で、熱のある彼が頼れるのはおれしかいない。またあんなに帰らないとぐずっていたから、目を離さないほうがいいか、とも思った。

 そしておれは残ってしまった。弱った田島は時折目を開けて、おれがそこにいるかを確認する。


「田島。タオル替えるぞ。」

「…ん…」


 冷蔵庫から氷を少々失敬して、浮かべた水へぬるくなったタオルを浸す。そうして冷えた頃、水気を少しだけ残したそれを額に乗せてやると、田島は薄く目を開けておれの手を探した。
 何か、不安なのだろうか。手を繋ぎ直すと満足したふうにまた微睡む。氷水へ浸けた手が彼の熱っぽいそれと重なり、触れたところからじわじわと同じ熱になる。
 融けるようだ。彼の熱を吸い彼は冷えた熱を吸い、等しくなってもそれは常に繰り返される。
 おれの手に比べれば彼のそれなど一回りより小さい。そのくせ熱くてまるで子どもだ。そういえば、いつか三橋の家で話をしていて、「ひとりでとてもさみしかった」などと言ってはいなかっただろうか。
 まあ、そうでなくとも弱っていては、ひとりはとても心細かろう。今日も今日とて夏日なのに薄手の夏布団から顔だけ出した丸い頬はりんごみたいで、苦しそうに口で呼吸を繰り返している。
 元気が取り柄みたいな奴なのに。こんなふうに弱って、頼られてもおれはなんにも出来やしない。


「はない。」

「ん?」

「…ないの手、冷たくて、気持ちいい。」


 くす、と田島が笑った。そんな事言ってないで少しでも寝てくれ、と思ったが、おれは何故か小さく笑う田島から目を離せない。
 田島の茶色い丸い瞳は、窓から光が差してとても明るく光っている。上がりきらない瞼は微睡むように少し伏せられ、細かい睫毛の並びがよく見えた。


「………」


 おれが何も言わないので、田島がおれを見た。光の強い彼の瞳はいつだって饒舌だ。
 おれは何も言わない。田島はおれを見つめるばかりで何も言わない。
 乾いた赤い唇が動く。


「花井。」


 ぞくりとした。
その熱っぽい声が唇が、おれの名をなぞっただけで、おれは一瞬熱めいた。


「……た、」

「あらぁ。だれか帰ってるの?」


 何を言おうとしたのかわからない。ただ何か言わなくてはいけない気がして口を開いたら、玄関のほうから声がしておれは繋いだ手を解いた。
 おばさんが帰って来たらしい。ビニールのガサガサいう音がするから、スーパーの朝市にでも行っていたのかも知れない。
 既に腰が浮いているおれは、彼が目を閉じてしまったのを視界の端で確認した。繋いでいた手は当然ながら空で、何故か少し寂しそうだなどと思う。

 だからおれは部屋を後にして、おばさんに田島が熱を出して早退した事を伝え、そのまま部屋に戻る事なく学校へ戻った。
 何か逃げ帰るように戻って来てしまったな、とは思ったがどうしようもない。あの時おれは、何を言おうとしたのか。何で彼から目を離せなかったのか。

 考えたってわかりゃしない。きっと、夏に眩んだのだろう。


「まー、花井君こんな事までしてってくれたのねぇ。さすがお兄ちゃんだわねぇ。」

「おかあさん」

「なに?喉渇いた?」

「いいとこだったのに…。」

「あらそう?」


 その頃田島の家では息子が母に愚痴っていた。多分よその母なら何を言っているんだと困るところだろうが、彼女は常ににこにことして右から左へ流す。
 わかっていないのではない。きっと彼女はわかっている。まあ子どもはいっぱいいるし一人くらい変わったのがいても構わないと思っているのかもしれない。
 どちらにせよ母にだけは勝てる気がしない末っ子は、言いたい事は言ったしそろそろ本当につらくなって来たので寝る事にした。風邪なんて今日中に治して明日の朝練に行きたい。まあ、そのお陰で楽しい事もあったけれど。

 頭は熱と眠気がひしめいて、何かを考えられるスペースはもう残っていない。だから田島は布団の外に出していた片手を最後に見て、瞼を落とした。
 緊張でもしていたのか、冷たくて大きな手だった。薄くて指を絡めると、長い彼のそれはするすると間を縫ってしっかりと手を繋いでいてくれる、すてきな手だった。
 心地がよくて安心する、あれが欲しい。今まで欲しいと願ってこの手に入らなかったためしはない。いつだってこの才覚で得て来たのだ。

 だからあれもきっとそうなる。明日からどうしてやろうかな、とうつつの風邪引きは夢の世界へ落ちた。
とても楽しい夢を見た。



―― You 'll be mine. A-Ha!


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