「まず、君は言ったね『カ行の欄を見るとまず加藤で、次は栗山。キッタという苗字はない。急いで先頭の阿田から、一番下の吉田まで確認した』」 「言ったけど……それがなんだっていうんだ?」 「転校生が来たことのない君は知らないだろうけど、学年の途中で入ってきた転校生の名前ってのは普通、一番後ろに書き足されるものなんだ。五十音順の途中に入れたら、そこから後の番号が一個ずつずれちゃうだろ?」 つまり転校生の名前を探すのに五十音順から見る必要はない、と。 それならカ行にキッタくんの名前がないのは当然だ。 彼はなぜか得意そうにうなずいた。 「幼稚園時代から転園・転校を繰り返してきた僕に言わせれば常識だね」 「けど名簿の最後は吉田で終わってたよ」 そうだ。 ぼくはカ行を確認した後すぐ一番上から最後まで見てキッタくんの名前がないことを確認したのだ。その最後は『吉田』だった。今朝のことだからさすがに覚えている。 「……あ、オレの見た名簿が古い名簿だった、とか? キッタくんの名前が入っていないのは、名簿に付け加えられる前だったからなんじゃ」 「違うよ」 ばっさりと否定された。台詞の途中で。 「それだと四十番目が吉田で終わる理由が説明できないだろ」 「あっ……それも、そうだね」 忘れていた。 『吉田』は四十番なのだ。ぼくの記憶では二年一組は一学期までたしかに三十九人だった。それが名簿には四十人分の名前がある。単に名簿が古くてキッタくんの名前が抜けているとすれば、キッタくんを加えて四十一人……駄目だ、ぼくの頭の方がおかしいということになってしまう。 今朝の机はたしかに四十脚あったのだ。 生徒も四十人全員いた。 でもキッタくんはうちのクラスの転校生で、今日はお休みして学校に来ていない。 あれ? でも後ろの席のやつは『転校生はいない』って言ったよな。 ああもうわけがわからない! 「ところで、Tくんは人の名前を覚えるのがかなり苦手なんじゃないかな?」 「な、なんでいきなりそんなこと訊くんだよ」 突然の指摘。「そんなわけないだろ」と、口ではそう言いながらもぼくの心臓は不意に冷水を打たれたように飛び上がっていた。 たしかにぼくは人の顔と名前を覚えるのに苦労するタイプだ。その上、苦労して覚えてもちょっと会わなければ忘れてしまう。 ひんしゅくを買いそうなので言い出せないが、ぼくは二学期になってもまだ、クラス全員の名前と顔とが一致していない。 「話に出てきた『Sくん』っていうのも君が名前を覚えていないだけだったりして」 「うっ……なんでそんなこと断言できるのさ」 「君のSくんに対する口述が曖昧だったからね。Sくんは『夏休みデビュー』って感じで、日焼けにピアスとなかなか目立つ外見だったんでしょ?」 念を押すキッタくんの言葉を受けてぼくはうなずいた。 「そんなのと一緒に、一週間も同じクラスにいれば、いやでも目に入っている。でも君はSくんに対して『こんな派手なやつクラスにいたのかと思った』と、まるで今初めて気づいたかのような言い草だ。 それに、名簿の名前はそのまま口にしているのに、君の話ではSくんだけ不自然に名前が伏せられている。だからさ、とっさに名前を思い出せなかったんじゃないかって」 図星だった。というより、正解だ。 昨日の放課後話しかけてきた男子生徒を、ぼくはとっさに『Sくん』と怪談話のように伏せて語ったが、彼のイニシャルがSだという根拠はどこにもない。 Sくんの本名を思い出せないからだ。 夏休みという一ヶ月ちょっとの間を置いて、なおかつ『夏休みデビュー』で様変わりしたクラスメイトを見分けるのは、ぼくには少し難しい。まんざら知らない人でもない感じはしたから話を合わせることはできるが…… 「認めるよ……」 ぼくは力なく言った。それとは対照的に 「それだけじゃないよ」 とキッタくんはきっぱりと言いはなった。 「クラスメイトのことを全員把握していれば、吉田というクラスメイトがいないことはすぐ気づく。そして僕の名前をフルネームで覚えていたなら、君は今朝の時点で自己解決できたはずなんだ」 「吉田というクラスメイトがいない……?」 「そうだよ、いないんだ」 いないとはどういうことだろう。ぼくはたしかに、この目で吉田という名前を確認しているのだ。人の名前を覚えるのが苦手で『Sくん』という前科もあるが、つい今朝のことなのだから忘れたり間違えたりはないはずだ。 詳しく問いつめようとしたぼくをキッタくんは右手で制した。 マスクの下の表情はわからないが、首を傾け何事か考えているようだ。 ぼくの方に目を向けると軽く頭をかき、信じられないような一言を口にした。 「君のクラスの名簿が吉田さんで終わっているのは、その吉田さんが僕のことだからだよ」 絶句、とはこういうことを言うのだろう。 言葉が出てこない。 それでもキッタくんの方は話を進めていく。 「僕が『吉田』なんだよ。こっちでは珍しい読みみたいだね。おみくじ引いたら吉とか大吉とか言うだろ? あるいはほら、吉凶を占うとか。あの吉という字は“きち”とも“よし”とも読んでいる」 「そんなこと」 「あるわけないとか言うなよ。“セイシュウ”と書いて“にしあまね”ってのよりはよっぽど親切だ」 拍子抜けしてしまった。 というより、あまりのことに椅子からずり落ちてしまった。 中途半端な体勢で椅子の脚に体をもたせるぼくに、彼は右の手を差しのべた。 逆光になったキッタくんの顔はやはり、ぼくの話を聞いていたときと同じでニコニコしているような気がする。 病人らしく不健康そうな白い手がぼくに迫る。 それは図らずとも握手を求めるかのような形だった。 「挨拶がまだだったよね。『大吉』の『吉』に『田んぼ』の『田』で“キッタ”、二年一組出席番号四十番、吉田かたりだ。よろしく」 よろしくと言われても、ぼくは顔を引きつらせるくらいしかできない。顔が熱を持っていくのが自分でもわかる。変な汗が流れだした。 なんて単純なことだったんだ。 『キッタカタリ』は『吉田かたり』。この九月から転校してきたクラスメイト。彼は体調を壊して転校早々一週間欠席していた。 ぼくは彼を見舞い一度会ったが、翌日になってその存在に疑問をいだいた。 ここでもしぼくが、彼を『キッタカタリ』と認識し、下の名前をも考慮して探していたらこんな間違いは起こらなかった。 しかし、ぼくは名簿の名字、『キッタ』という名字だけに気をとられていた。『カタリ』という下の名前は、人の名前を覚えられないぼくにとって、意識の範囲外にあった。 それでぼくは『キッタカタリ』がいないものと思い―― キッタくんの家に、早退までして押しかけたわけか。 つまり結局、全部ぼくがひとりで騒いでいただけだったのだ。 馬鹿馬鹿しい結論になかば放心状態のぼくを見かねたのか、キッタくんが強引にぼくの手を握って起き上がらせた。ひっぱられるようにぼくは立ち上がる。 生白い見かけに反して熱い手だ。 それはキッタカタリという存在を認めるには十分な、なによりの証明だった。 ぼくは彼の顔を直視できず、うつむいたまま苦笑する。 それにしても手、熱いな……。 恥ずかしさで体温が高いぼくが熱いと感じるなんて、よっぽど謎解きで興奮したんだろうか。それとも涼しい顔して平熱がかなり高めとか? よくよくわからない人だ。 ぼくは顔を上げた。 そして握手できる距離で見て初めて、彼の異常に気がついた。 見るからに、恐ろしく顔色が悪い。もうなんか血の気の失せた肌の色だ。 目は濁って半分死んだみたいな目になっているし、前髪からのぞく額に脂汗が玉の如く浮き出ている。それになんていうか、さっきから気になっていたんだけど握った手が小刻みに震えている。 途端にぼくは今日のエキサイトしていたキッタくんと、昨日のグロッキーと言うにあり余るキッタくんとを思い出した。ついでに『昨日の今日』という慣用句も一緒に浮かぶ。 青ざめたのはこっちの方だった。 back |