ある朝、少年がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が見慣れない天蓋付きの寝床で寝かされているのを発見したので、これはまたぞろ誘拐か監禁でもされたなと思った。すぐには身体を起こさない。まずはゆっくりと目だけで辺りをうかがう。周囲に人の姿はない。天蓋つきのベッド? すぐそばのカーテン越しにぼんやりと光が漏れてきているところを見るに、時刻は日中、朝方だろうか。室内は、意外にも小綺麗で広々としている。ホテルか何かの一室、にしては妙に生活感がある。クローゼットに絨毯、調度はどれも落ち着いていて上品なしつらえだ。少なくとも病室には見えない。シーツをかけられているほかは拘束をされている様子もないし、服も、これは寝間着だろうか? さしあたっての危険はなさそうだ。――と、枕から頭を浮かせようとした途端、思い出したように頭が痛みを主張しはじめた。脳みそ全体に響くような、痛みで目がちかちかとくらみ、思考にもやがかる、鈍く重い痛み。手で触れて確かめるが、髪の下の皮膚に傷やこぶはない。痛みはおそらく内側から来るものだ。ということは、殴られて昏倒させられたという線は薄い。よかった。頭の怪我は怖いからな。さては薬でも盛られたか嗅がされたか。状況を踏まえて想像するに、犯人は単純に痛めつける目的でさらってきたのではないらしい。それにしてもこの痛み方はどうだろう。がんがんと脳裏で太鼓が打ち鳴らされているような、話に聞く、二日酔いのような――
 までをてきぱきと分析して、少年ははたと我に返った。
 ……どうしてこの状況でここまで冷静なんだ?
 また誘拐か監禁でもされたな、なんてまるで他人事じゃないか、我ながら不気味だ。そうは思えども、もう一方の頭では、これくらいは当然だ、とばかりに動じていない自分がいる。相反する認識の間で意識が明滅するように感じるのは、自分の中に自分が複数いるからだ。体感と経験の差。こんな状況はおかしいのではないかと感じている自分と、もう慣れっこだと感じている自分。
 そうだ、自分は少年探偵なのだから、こんな状況は初めてではないはずだ。
 目覚めたら知らない天井、それがどうした、ベッドなんてまだましだ、目が覚めたら岩屋の暗い牢だったこともある、ブリキ人形に閉じこめられていたこともあるぞ、と少年の脳裏に実感を伴わない経験が次々と浮かぶ。いずれも、少年探偵としての自分がかつて直面してきたのであろう場面の数々だ。それらは実感こそないが、少年にとって何ら違和感を伴うものではない。中には一部理解しがたい経験もあったが、おかげでいくらか考えを整理することができた。
 少年探偵にとって拉致監禁はよくあること。
 こういうときはまず落ち着いて、周囲をよく探索すること。
 拘束されていないのなら、室内での自由は保証されている。まずはそうだな、出入口を確かめよう。ドアの鍵は開いているんだろうか。窓から外に出られないかな? いずれにせよ、いつまでも僕を放っておくはずはない。いまは見張りを置いていないようだが、どこかで監視している黒幕《怪人》が、そのうち姿を現すかもしれないから――

 思考をめぐらしつつ、少年は今度こそ身体を起こした。思い出したように側頭部で主張しはじめる痛みに、歯を食いしばる。
「いッ……っ、?」
 知らない男の声が聞こえた気がして辺りを見回す。
 やはり誰もいない。誰の姿もない。声はすぐ近くから聞こえたのに。
「気のせ……」
 言いかけた口が止まった。
 気のせいでは、ない。声は近くから聞こえた。落ち着いた男の声だ。
 気のせいでなければ、声はここからした。
 気のせいでなければ、言ったのはこの喉だ。
 真っ直ぐ上げた視線はそのままに、少年はこわごわと自分の喉に指を這わせた。まさかそんな、と疑う少年を裏切るような質感がたしかにそこにあった。未知の感触が、喉のしこりが、まるで大人の男性にあるような、立派な喉の感触が、たしかにそこにあったのだ。
「えっ? ……あ。あっ! うわあ!」
 少年は驚いて身体を跳ねさせた。ベッドのスプリングが重く反動を伝えてくる。よく跳ねるスプリング、ちがう、重いのは身体のほうじゃないか?
「な、なんで……」
 ――間違いない。声は自分の喉から出たものだ。こんな低い声、僕の声じゃない。喉、喉仏? 手。いや、手も変だ。指、指が長くなって、骨ばっていて、腕、胸もこんな広く、成長した? いつのまに? なんで? 変だ。僕が僕じゃない。僕じゃなくなっている。髪も、だって僕、こんな縮れっ毛じゃなかったのに!
 鏡。
 混乱する意識が導き出す。
 ――鏡。どこかに鏡がないかな?
 少年は勢いよくベッドから転がり出た――比喩ではなく、転がり出たのだ。変貌したのは声や手だけではない。足もまた少年の本来の縮尺からすると、倍もありそうな長さに変わり果てていた。おかげで少年は足をもつれされ、絨毯の床に顔から突っこんでしまった。まったくなんて身体だ、脚が長すぎる! ひりつく鼻頭をおさえ、少年はあたりを見回した。
 やはり部屋に鏡台のようなものはない。試しにクロゼットを開けてみたが、鏡は備え付けられていないようだ。中には背広が数着吊られている以外に、特にめぼしいものもない。この部屋の主は男性なのだろうか。全身が映る大きさのとまでは言わないが、顔を映すくらいものはあってもよさそうなのに。身だしなみを気にしないタイプなのだろうか。
 ――窓なら鏡の代わりになるかもしれないな。
 一刻も早く自分の身に起きていることを確認したい。少年はその思いでカーテンに手をかけ、その手がどう見ても自分のものではない、骨張った大人の手であるのを認めて――大きく深呼吸した。
 よし、監禁も誘拐も拉致も少年探偵《僕ら》にはよくあることだ。
 目が覚めたら妙ちきりんな着ぐるみを着せられていたこともまあ、よく、あることなのかもしれない。本当にあるのか? あるね。よくある。あるあるだ。そうなんだ……そっか……。
 額からこめかみに冷たい汗が伝う。少年探偵、いや、僕ら、僕、のことを考えるのはいまはよそう。着ぐるみくらいはよくあるらしいし。
 それなら、寝て起きたら大人になっていたことはあるだろうか。
 ない。ないな。あるか? ないだろう。少年探偵をなんだと思っているんだ。少年だから少年なんだぞ! ……内なる|少年探偵たち《僕ら》が異議を唱えているのがわかる。でもどう見ても青年くらいの僕と、女の子だけど少年の僕もいたじゃないか! ……少年は反論しようとしてやめた。いまの自分が感じている違和感はそういうものではない。そんな予感めいた確信があったのだ。仮に目が覚めて青年の自分や少女の自分になっていたくらいなら、ここまでの違和感は持ちえなかったのではないか。自分(少年探偵)の姿形が一定しないのは今に始まったことではない。これはもっと、朝起きたら虫になっていたというのと同じような、確認するのが嫌な部類の予感だ。
 少年はカーテンを握る手に力をこめた。
 大丈夫だよ。なんだってそんな不安がることがあるんだい。ちょっと自分の顔を確かめるだけなんだから。先生の一番弟子がこんなことくらいでまごまごと時間をかけていて、恥ずかしいじゃないか。こんなくらいで怖がるなんて。なあ?
 自分で自分に言い聞かせ、少年は口を結んだ。
 ひと思いにカーテンを引く。カーテンの向こうは快晴だが、ちょうど太陽は背面に回っているらしい、陰になったガラス面にうっすらと影が映っている。少年は鼻先を押しつける勢いで窓の影をのぞきこんだ。
「や、やっぱり……」
 かすれたうめき声が喉から漏れる。
 やはり自分の顔ではない。それは少年のほうでも予想していたことだ。だが、まったく知らない顔だというわけではなかった。むしろ少年にとってはごく身近な、これ以上なく頼りになる人物の顔だ。問題はその顔が窓の向こうに立っているわけでもなく、後ろに立っているのが映り込んでいるわけでもないことだ。少年はこれまで、そのひとがこんなふうに驚愕に目を見開き、口元をひきつらせているところを見たことがない――いや、見たくなんてなかった。だって、そのひとは、

「……せんせ?」

 ふるえる語尾でつぶやく、声にも覚えがあるのは当然だ。
 なぜならそれは――窓に映っているのは、探偵の顔だった。
 さて、探偵。それがだれのことを表すかは明白であろう、世界でも指折りの名探偵にちがいない。数多の犯罪者と渡り合い、事件を解決せしめてきた優秀な頭脳、そしてタフな肉体、少年探偵である少年にとっての師にして恩人。少年がもっとも慕い、そしてまた尊敬するべき相手、で、あるのだが。
 少年はおそるおそる自分の顔に触れた。窓に映るのではない、自分の、自分のものではない顔にだ。指先に感じる頬のぬくもりはまるで他人のもののようで、産毛でざらっとした肌の質感はかえって現実離れして感じられた。だが、確かに触れられる。存在している。ここにある。頬骨、眼窩、鼻梁、眉間。少年の指の動きとそっくりそのままに、窓に映った相手もまじまじと自分の顔に触れて確かめ、食い入るようにこちらを見つめている。
 ふとその顔が怪訝そうに眉をひそめた。
 ……どっちだ?
 少年が真っ先に考えたのはそのことだ。
 自分はいったい誰になってしまったのか?
 この顔の示すとおり、探偵そのひとになったのか。
 あるいは、探偵に化けた怪人になってしまったのか。
 ――後者だろうな。
 少年は冷静に判断を下した。驚いていいのは最初の一瞬だけ。たとえ目の前に現れたのがカニの形をした宇宙人の化け物だったとしても、パニックになって思考を止めるようなことがあってはならない。次になすべきことを考えるのだ。それが少年探偵たるものの条件だ。別に無理に落ち着き払おうとしているわけではない。
 そうとも、探偵《せんせい》がここにいるはずがない。
 少年は再度、自分を落ち着かせるために深呼吸をした。
 先生はいないのだ。事情はわからないが、探偵という存在は表舞台から去ってしまった。いまではもう、どこにいるのか誰も知らない。そしてそれはまだ続いているはずだ。その証拠に、少年はいまだに探偵の名前はおろか、自分の名前も思い出せない。
 ならば、一夜にして自分の身体が大人に成長したという案はどうだろうか、と少年は考えたが、窓に映る顔を見るにその可能性は薄そうだった。先生と自分とでは顔立ちから何から違っている。風貌こそ真似できようが、たとえどのように成長したって先生のような顔にはならないだろうと思われるし、何より自分はこの顔を先生のものだと断じている。ならばこれは先生のものに違いない。
 するとやはり答えはこうだ。ここにいるのは先生本人ではなく、先生そっくりに変装できる人物である――つまるところ、怪人だ。なぜならあの変装の達人は、本物の先生が見つかるまでの間だけという条件付きで、先生そっくりに化け、少年とは一時停戦中の関係にあるのだ。だから探偵の顔をした怪人がいることには何の不思議もない。
 少年は自分で自分の推理に満足してうなずいた。
 いいぞ。悪くない推理だ。窓に映る顔もなんだかほこらしげじゃないか。これが本当に先生の身体で頭脳なんだとしたら、知恵が回るのは先生のおかげと喜べるところなんだけれども、あいにくと身体は関係ないんだよなあ。だって、これは先生の身体ではなく怪人の身体で――と、少年は視線を上げた。
 なんだかおかしいぞ、という顔の大人がこちらを見つめ返している。
 考えなおす。
 ええと……僕はいま怪人の身体に乗り移っているということで、肉体改造手術でも受けたんでない限り、自分の身体はどこかに別なところにあるはずで、それはつまり、つまり――
「…………」
 少年はさっと血の気が引くのがわかった。
 怪人の身体がここにあって、少年の精神がここにある。その一方で、怪人の精神と少年の身体はここにない。それはつまり――自分の身体が怪人に乗っ取られているかもしれない、ということだ!

 少年は足をもつれさせながら部屋を飛びだした。出てみれば何のことはない。扉の向こうは探偵事務所があるビルディングの廊下だ。四角い建物が三階建てだか四階、もしくは五階建て。ここは最上階であるため階段は下にしかつながっていない。さっきのは監禁されたわけじゃなかったんだな、と少年は階段を駆けおりながら苦い思いとともに考えた。怪人はこの建物の一番上のフロアを我が物顔に陣取っている。さっきの部屋は寝室だったのだろう。やつは、はたして部屋にまだいてくれればいいのだが。
 一つか二つ、あるいは三つ降りた先のフロアを突き当たりまで足早にぬける。廊下の突き当たりの木製のドアが少年の私室だ。少年はまずは落ち着いて扉をノックした。しかし物音ひとつしない。ノブを回す、が、回らない。鍵がかかっている。少年はもう一度、今度はドンドンと大きく扉を叩いた。
「おい、ちょっと、いるんだろう! おおい!」
 大声で呼びかけると、頭の中に響く声がいっそう自分のものではないとわかって気持ちが悪い。
「ゴホン……大変なことになってるんだ! とにかくここを開けてくれ」
 やはり一向に反応がない。扉の向こうは静かなままだ。
 鍵をかけて外に出た? まさか! ここの鍵は内鍵だ。外に鍵穴があるタイプのドアではない。鍵がかかっているからには、中に人がいるはずだ。まさかこれだけ騒いで起きてこないということもあるまい。
「ねえ、寝てるのか? のんきに寝てる場合じゃないぞ」
 呼びかけながら靴底をまさぐろうとして、上げた足が中途半端なところで止まった。いつもならば少年は靴底に針金を隠している。だがいまは靴どころか靴下も履いていない。ベッドから裸足で飛びだしたのだ。くそっ、と悪態をついて太股を叩き、苛立ちまぎれに声を上げた。
「ああもういるんだろう、おおい! きみのせいじゃないだろうなこれ!」
 どん、と乱暴に叩くと、木製の扉は不吉な音をたてた。手のひらに体重をかけると、木がわずかにたわむ感触とともに、蝶番がギシギシきしみを上げる。古びているのもあるだろうが、意外にもろそうだ。体当たりでもすれば破れるかもしれない。気は進まないが、もし閉じこもる気があって閉じこもっているならば、早々にここを開ける必要がある。でなければ、中でなにが起こっているかわかったものではない。少年は深く息を吐いた。
「……そうかい。わかったよ。そんならこっちにも考えがあるさ。いいかい、いまから三つ数えるうちに返事がないんなら、扉をやぶらせてもらうよ。まさか僕にできないとは思わないだろうね。脅しだとは思わないことだね。いいね」
 言いながら、少年は袖をまくった。寝間着の――ナイトシャツだ、どおりで足元の風通しがいいと思った。着替えるなんて思いつきもしなかったとはいえ格好がつかないな――と思考が脱線するのを、目の前の現実に引き戻す。
「いいかい、いくぞ」
 こうなったらやぶれかぶれだ。
「いち、……にい、」
 じっと扉を睨み据える。
「……さん」
 と、たっぷりと間を置く。
 しかし反応がない。
 本当にいいんだな、いいならいいんだぞ。
 扉から三歩ほど後退し、足の裏にぐっと力をこめる。
 だが――これからぶちかましてやるぞというところで。
 かちん、と。
 金属音がしたものだから、少年は踏み出そうとした足のまま固まってしまった。目の前でノブが回る。鍵が開いたのだ。ゆっくりとこちらへ向かって扉が開く。
「あっ、……」
 現れた人影に、少年ははっと息を飲んだ。
 部屋の中から姿をのぞかせたのは小柄な、年は少年と同じくらいであろう少年だった。線の細い、背丈にしていまの少年の半分ほどの、パジャマ姿の少年で、自分で言うのもなんだが顔形は整っている――自分? そうだ、自分だ。この部屋は少年自身の、廊下で立ち尽くしているほうの少年の部屋だ。だから自分がこの部屋から出てくるのは当然のことで、中にいるのもわかっていたはずだが、いざ自分自身の姿を目の当たりにすると言葉に詰まった。
 少年が立ち尽くしていると、目の前の少年は、寝癖のついた黒い髪の合間から、小動物のうにきょろきょろとあたりを見回すと、おそるおそる口を開き、
「あ、あの、いったいどうなすったんですか、先生」
 と、そう言った。
 これには言われた側の少年もいよいよ言葉を失った。
 先生、とはいったいどういうことだ?
 こいつの中身は怪人が入っているはずだが、どういう魂胆があってとぼけているのか。少年があっけにとられているのをいいことに、向こうは首をかしげて言葉を続けた。
「おはようございます。ええと、こんな朝の早い時間からそんなに慌てて、どうされたんですか? すみません、ぼくさっき起きたもんですからちっとも気がつかなくて。先生がドアの向こうで何事かおっしゃってるのは聞こえたんですが」
 と顔色をうかがう――どんぐりのような両目をぱちぱちと瞬かせ。
「あの、もしかしてなにかまた事件ですか? それともお客さま、でしょうか? いまからどこかへ出発されるとか? オヤ、でもおかしいですねぇ。先生もまだ寝間着のまんまじゃないですか」
 とくすくすと笑う――りんご色のほっぺをわずかに赤らめて。
「なんです先生、だんまりだなんて。もしかして寝ぼけてらっしゃるんですか? ……ウフフ、珍しいこともあるもんですねぇ。いいですよ。すぐ支度します。先生はこのまま事務所のほうで待っててください。大丈夫ですよ、お客さんはいれませんから、たまにはゆっくり朝ごはんにしましょう。ぼく、なにか目の覚めるものでもお持ちしますから」
「……なに、ふざけてるんだ?」
 少年は――どんぐりまなこでもなければりんごほっぺでもなくなってしまった少年は、やっとのことでそう絞り出した。それを言うのがやっとだった。
 しゃべらせるまましゃべらせておけば、いったいなんの小芝居を見せられているのか。用件は済んだとばかりに閉められようとしている扉をつかんで、強引にこじ開けると、ノブを握ったままの相手は振り回されるようにして廊下へつんのめった。
「ワァ! 急にあぶないですよ」
「こいつは、きみが仕組んだことじゃないのかい」
 少年は間髪を入れずに詰め寄った。
 詰め寄られたほうは身をすくめ、こわごわと少年を見上げて答えた。
「仕組んだって……なんのことですか?」
「しらばっくれても無駄だよ。見てわかるだろう、この状況だよ。本当にきみのしわざじゃないのか?」
「せ、せんせ? さっきからなんだか様子がおかしいですよ。状況と言われても、ぼくにはなんのことだかさっぱりわかりません。どうしたっていうんですか。ぼくがなにをしたっていうんですか?」
 少年のことを先生と呼ぶこの少年は、迫力に押されるようにしてじりじりと後ずさった。こうして見ると小柄な身体だ。小さくていかにも無害そうな顔立ちで、なるほど、これを疑う人間がいるならそのひとは相当疑り深いか、先生のように見た目に惑わされない人間なのだろうな、と少年は他人事のように考えた。そして怯えるように胸元で交差された手首をつかみ、無理矢理に引き寄せた。
「ヤッ、な、なにするんです!」
 少年は――隙を見て逃走しようとしてたこの少年は、身をよじった。その顔は真っ青だ。脂汗まで浮かべて、本当に怖がっているように見える。
 ――本当に中身は『僕』ではないのだろうか?
 分裂した自分が別にいる、という可能性もある。ややこしいが、あるのだ、そういうことが、たしかにある、現にあった。少年は正体を見定めようとして抵抗は無駄だと悟ったのか、大人の手につかまえられた少年は暴れるのをあきらめて、その代わりに震える声で小さく、やめてください、と言った。
「ほ、ほんとにへんですよ。どうしたっていうんですか? せんせ、ぼくにこんなことをするなんて先生らしくないですよ。なにか怒らせるようなことをしたんなら謝りますから、い、痛いですから、お願いですから落ち着いてください。どうか放してください。お願いです。いつもの冷静な先生に戻ってください」
 前提が間違っているんだろうか?
 目の前で涙ぐむ少年をよそに、少年は考えを進めた。
 たとえば、自分が探偵助手のまま成長して、探偵事務所を引き継いだ世界、とか。ただでさえ時空間がでたらめに継ぎ合わされた世界だ。そのくらいはあり得る。もしもそんな可能性の世界に迷いこんでしまったのだとすれば、この少年は正真正銘の少年助手で、彼が怯えているのはもっともなのかもしれない。彼にしてみれば、自分の先生が急に錯乱してしまったようにしか映らないだろう。というよりも、客観的に見れば先生が弟子の部屋に押しかけて無理やり引っ張ろうとしているようにしか見えない。最悪だ。思わず冷静にもなる。
「せんせ? あの、なにかおっしゃってください。そんな顔で見られると怖いです。おそろしいです。それともぼくを試していらっしゃるんですか。助手であれば先生の心のうちくらい読み取ってみせろと、」
「いや、やっぱりそれはおかしいや」
「え?」
「僕が成長したって、たぶん先生そっくりの顔にはならないもの。先生といるとよく親子みたいだって言われた気もするけれど、あれは年の差だけ見てそう判断したんじゃないかな。先生はどちらかというと彫りの深い顔立ちだった気もするし、僕はほら、その点さ、こうやって向かいあっていると、やっぱりこっちのほうが僕の顔だと思えてくるしね」
「な、なんですって? 冗談ならよしてください」
「きみこそ、冗談はそこまでにしないか」
 少年は慣れぬ声を見事に使いこなし、脅しつけるように言った。
「そうやってしらを切ったって無駄だよ。きみの正体はすっかりわかっているんだ」
「正体?」
 と、つかまえられたままの手首がぴくりと動いた。
「なんですそれは。ぼくがぼく以外の誰に見えるってんです?」
「外見はいくらだって変えられる。きみを言うのに見た目の特徴は当てにならないよ」
「ハハハ、だからってまさか大人が子供に変身できる魔術はないでしょう!」
 目の前の少年はせせら笑った。ドスをきかせるには声の幼さで失敗している感があるが、それでもさっきのいままで涙ぐんでいたのが嘘のような変わりようだ。やっぱりじゃないか、と少年のほうでは鼻白む。
「それともなんです、ぼくが偽物とでも言うつもりですか。どこぞのちんぴらとでもすり替わっているとでも? なら先生の目にはこれが変装に見えるんですか。自分で言うのもなんですが、こんな可愛い男の子が世に二人といるとは思えませんがねぇ」
「おい、」
「そんならきみの言う正体ってのは誰なんです」
 目の前の少年は矢継ぎ早に続ける。
「曖昧に濁してばかりじゃ言い当てたことになりませんよ。そんなに僕の名前を言い当てるのが怖いのですか。言ってごらんなさい、このぼくの正体というのを、わかるもんなら言ってごらんなさい」
 さっきまで青ざめていたはずの顔は、紅潮してほんのりと赤らみ――しかし、紅顔の少年と呼ぶにはまったく不釣り合いな不敵さでもって、彼は自らの手首をつかみとめる手に、するりと自分の手を這わせた。放っておけばそのまま頬ずりでもしかねない陶酔でもって先を促す。
「ふふふ、どうしたんです先生? やっぱり寝ぼけてたんですか? 誰がどう見たってぼくはぼくじゃないですか。どこからどう見てもぼくはぼく、先生の助手、一番弟子にして優秀な探偵、でしたっけ? 先生もよくご存知のとおり、ね?」
 目配せする視線とともに、重ねられた手がにぎにぎと媚びを売る。
 それで少年はとうとう確信した。
 わかっていて楽しんでいるのだ、この状況を。
 こいついったいなに考えてるんだ。
 文句を言ってやりたい衝動を少年はぐっとこらえた。要は、これも遊びの延長だ。探偵による犯人の暴露、そんなごっこ遊び。状況が特殊であるのに便乗して、このときとばかりに楽しんでいる。
「……きみには二十の目と四十の顔がある」
 請われるまま、少年は重い口を開いた。人質は、ほかならぬ少年自身の肉体だ。乗らないわけにはいかなかった。
「だがどれひとつだってきみの本当の顔ではない。きみに本当の顔はないのだ。あいにくといまはその名を呼んでやれないが、正体なら言い当ててやれるよ。変装の名手にして悪党を束ねる親玉、探偵《僕ら》を目の敵にして復讐の機会をうかがう人物と言えばひとりしかいない――そうだろう、怪人。どんな魔法を使ったのか知らないが、いいかげんに観念したまえ!」
 怪人――宵闇に出歩く変幻自在の魔人。美術品ばかりを狙って大胆不敵な魔術でもって盗みを働く、稀代の大悪党。名探偵である先生と少年助手たちを相手に、幾度となく挑戦を仕掛けては退けられを繰り返してきた――それが怪人だ。それは本来であれば敵の本拠地である探偵事務所のビルで寝起きしていていい存在ではないのだが、平然と寝起きし我が物顔で闊歩している点はいまはさておく。
 果たして怪人と呼ばれた少年は、

「なぁんだ、本当に先生じゃないのか」

 しらけきった顔つきで言うと、じっとりとした目つきで少年を睨んだ。
「……と見せかけて、実は本当は先生だったりしないだろうな? さも中身だけ入れ違ってるように見せかけて、のうのうと先生本人が帰って来ていたりはしないだろうねぇ」
「ややこしいなあ」それは少年の本心からの言葉だ。「そんなややこしいこと、誰がやるもんか」
「きみはなんにもわかってないねぇ。あれはおれを罠にかけるために、自分とそっくりな影武者を立たせておくようなやつだよ。戦国大名でもあるまいに影武者なんて用意しやがって、それで自分はなにをするかって、おれの手下に化けて『へえ首領』なんてへいこら言って油断させて、罠にかかったおれがあたふたするのを真横で見守るようなやつだぞ! くそっ」
 いやに具体的な怒り方だ。|何の事件の話《実体験》かしら。目を吊り上げて地団駄を踏む自分の姿なんて見たくなかったな……、と少年はそっと顔を背けつつ尋ねた。
「だいたい、どうしてまた僕のふりなんてするんだい。これでやってきたのが本物の先生だったら、僕に成り代わるつもりだったのかい」
「もちろん」怪人はさも当然のようにうなずいた。「これにはさしものやつもアッと驚くだろうねぇ。想像もするまいよ。愛弟子の中身がそっくり宿敵に入れ替わっているだなんて、言われたってそうそう信じられまい、きっと騙されるよ。そのときはそうだなあ、しばらくきみとしてかわいがられるのも面白そうじゃないか」
 少年探偵の姿をした怪人はにこにこと、確かめるように口元をなでた。
「いやぁ、それにしてもずいぶんと面白いことになったねぇ。おれがきみできみがおれか。ふふふ、おれの身体の居心地はどうだい。きみはずいぶん小さいねぇ。これでもいろいろなものに変装してきたつもりだが、身体ごと縮んじまったのは初めてだ。さっきは驚いたよ。自分をこう、この角度から見上げるってのも……ううん、顔がやつのじゃなけりゃあな。だが身体が軽いってのは悪くないねえ」
「…………」
 調子よくしゃべり続ける自分を見ていると、少年はだんだんと今朝の頭痛がぶり返してくる思いがした。まさかこんな、探偵助手《僕》と探偵の変装をした怪人《やつ》が、中身だけそっくり入れ替わってしまうとは。いったいどんな冗談なんだろう。これならさっきの、ふりだけでも探偵助手らしくしてくれていたほうがまだましだったかもしれない。いつもと身体が違うせいか、ため息も長く大きなものになる。
「……それで、きみのしわざじゃないんだろうね? 誤魔化すときみのためにならないよ」
「怖い怖い。そうひとのことばかり疑うもんじゃありませんよ。さっきも言ったろう、おれだって驚いてるんだ。被害者だ! まさか目が覚めたら坊やの身体になっているとはねぇ。いったいどんな魔術を使ったものやら。人体入れ替え術なんて、おれがご教授いただきたいくらいだよ。こんなことが簡単にできるなら、どんな犯罪だって思いのままだ。国一つ乗っ取るのだってたやすいじゃないか。ねえ?」
 話しながら、怪人の目線は自然と下へと下がっていた。自分がなまじ背の高いほうだから、他人を見上げて話すのは慣れていないに違いない。視線の先に相手の顔がないことにいまやっと気付いたとばかりに、あわてて顔を上げた。
「だから、おれを疑うのは筋違いってもんだよ」
 ……驚いてるってのは本当らしいな。
 少年は相手の足をちらりと見た。パジャマの足は少年と同じで裸足のままだ。案外、さっきまで眠っていたところをノックの音で起こされたのかもしれない。それに、もしもこの状況が怪人のたくらみによるものなら、ここですんなり捕まったのは不自然だ。それに、起きたときの自分の身体が、ただベッドで寝かされていただけたというのもおかしい。仮に他人と入れ替わって悪事を働こうというのなら、本物は閉じこめるなり拘束するなり、何か手を打っておくのが道理ではないか。
 ――つまるところ、こうなった原因は不明。お手上げということだ。
 ううん、とうなる。どうしたものか。いくらなんでも滅茶苦茶だ。
 それで、と声変わり前の声が割りこんだ。
「いつまでこうしているつもりだい。情熱的なのは構わないがねえ、そんなに強く握ったらあざをつけるよ」
 怪人はとげとげしい物言いで手首を揺らした。つられて少年の手も揺れる。少年はそこでやっと自分が、自分の偽者を逃がさぬようにと手首をつかんで、つかんだままだったことに気づいた。どうやら演技ではなく振りほどけないらしい。手首から先が白くなっている。
「ごめん、つい」
「ふん。まったく乱暴だなあ」
 解放されるや否や、怪人は大事そうに手首をさすった。
「おれだったらけっしてきみの身体をそんなふうに扱ったりするまいよ。普段のおれがいったいどれほどの慎重さで加減していると思っているんだ。あの先生にしてこの弟子ありというやつだな、まったく」
 そう不快たっぷりにねめつける目は、幼い顔に不釣り合いにふてぶてしい。
 ……僕《少年探偵》のイメージダウンにつながる前に、偽者は縄かなにかでぐるぐる巻きにしておいたほうがいいかもしれないな。
 そう少年は思った。まったく先が思いやられる。これはいったい何が起きているのか。関知していないところで何かが起こっているとしか思われない。
 だとすれば、いったいどこで、何が?




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