カンテラには翅を畳んだ蝶を入れる。蝶が最後に見る夢を、燃やして明かりの火種に使うのだ。灯り屋の店主は専用の細長いピンセットで蝶をつまみ、慎重にカンテラの底へと横たえさせた。眠れる蝶が中央に来るように位置を調整し、ピンセットを置いてカンテラの蓋を閉める。ここが肝心だ。蓋を閉める音ですら、ときに蝶の眠りを妨げる。だかといって強い薬を使えば、蝶は夢の中で目覚めなくなってしまうから、頼むから静かにしていてくれ、決して声ひとつ、音ひとつたてないでくれと、と灯り屋は作業に取りかかる前に客たちに何度も念を押す。一度蓋を閉めてさえしまえばもう安心だ。カンテラの内部はさながら天蓋つきのベッド、蝶は翅を畳んだままそこを世界のすべてだと思いこんで、夢を見続ける。外からスイッチをひねる、と火花がはじけるような音が二度ほどして、内側からぼんやりと青い炎が浮かび上がる。同じ青でもモルフォならもっと明るいんだけどね、こいつはアゲハだから。店主が言い訳がましく。カンテラそのものの質が悪いのではなく、もう一つ上等なほうの火種を買えば、本来の性能を発揮するのだと言いたいらしい。
「構いませんよ」
 少年は店主が別の標本箱を開けようとする前に、カンテラを受け取った。
 たしかに、アオスジアゲハの火はせいぜい足下を照らすくらいの灯りでしかない。青い炎の中にむらっけのある黒いもやが混じっているせいで、全体が黒く縁取られているように揺れている。だが蝶の夢は一夜の夢。一度燃やしてしまった命を取り戻すことはできない。少年は礼とともに代金を置いた。一夜を越せるならそれで十分だろう。それに灯りがあるだけましだ。深い夜から浅い闇まで、暗がりの中を歩くのには慣れている。
 この火が尽きる前にここを出なくてはならない、消してもいけない、絶やしてもいけない。灯り屋の店主は釘を指すように言った。忘れてはならない、星のない夜に道しるべなく歩き続けることがどんなに恐ろしいか、知れば思うのだ、いっそ歩かぬほうがましではないかと、ある旅人は、
「心配はご無用です。親切にありがとう」
 放っておけば永遠に続きそうな話を、少年はやんわりと制止した。しかしねと灯り屋は名残惜しそうに言った。この少年を前にすると、多くのものが形は違えど似たような反応を取る。あるいはその容姿を、あるいはその知己を愛で、どうにか気を引きたがる。灯り屋は後者だった。ここに来る客はみな道具に必要以上の関心を持たない。カンテラの仕組みを好奇心たっぷりに知りたがったこの客を、灯りを持つものはみな行き先があって出て行くとはわかっていても、名残惜しまずにいられなかった。
「大事にしますよ、僕、大切にしますから。それよりもちょっと道を教えてください。このあたりでどこかひとの集まりそうなところはありますか。ほら、お祭りだったらあるでしょう、盆踊りの櫓だとか、出し物の舞台だとか。そういう目立つものがどこかにありませんか」
 少年はにっこりと笑った。
「やつは決まってそういうところに現れるのです」

 閑話休題。
 少年は祭りと謂う。祭りと言った。
 祭りとは云うが、そう呼んでやる以外に強いて呼ぶ名前もない。
 名づけてやる者が誰もないのだ。そしてまた、誰が始めるわけでもない。誰もが忘れ去った頃、忘れ去られた場所に、祭りの形で現れる。主催者はない。参加者たちはおのおの祭りの気配を感じ取ると好きに屋台を組み、めいめいに祭りに合わせた役割を演じる。あるものはただの一晩限りの祭りだといい、あるものは居を構えてから一度も旗を降ろしたことがないという。少年が立ち寄った灯り屋も、祭りの外に出たことはおろか、自らが商う蝶が野山の中をどのように羽ばたくのか、実は目にしたことがない。蝶はいつも採取籠に入った状態でまとめて仕入れている。しかしそれでも客に出す分には支障はない。動機を推理する心がなくても犯罪推理は可能であるし、灯り屋は灯り屋らしく祭りの火によくなじむ灯りを知っていたから、少年はどれだけ暗い道を歩くにも不自由することはなかった。
 さて、祭りだ。
 出自や来歴が不確かなのだから、参加するものたちもおおむねこれと同種の存在であることは想像に難くない。たとえば文字上にのみ名を残すものたち。音ばかりが伝わり実体のない獣。現代では解読するすべが失われ、誰にも顧みられることのなくなった、忘れられ、失われた、そうしたものたちこそふさわしい。だから彼らは死者といえば死者であり、生者といえば生者である。単純に心音の有無のみで判断するのであれば死者と生者の割合は半々で、足の有無や首の有無にしたって、心音の場合とさほど違いはない。世に一度も存在したことのないものは、たとえ生きていたとしても死んでいるようなものだろう。読まれることのない本文は存在しないも同じ。だからこの場においては生も死もどちらでも構わないし、なんだっていい。それで許される。ただ、彼らにも最低限の決まりのようなものがある。祭りの参加者たちはみな一様に面を身につける。
 面。
 面だ。
 面をかぶるのだ。
 お面と呼ぼうか、仮面と呼ぼうか。顔を隠せてさえいえれば形は問わない。面、仮面、マスク、フルフェイス・メット、被り物、フェイス・ペイント、カーニバルの白い半仮面! およそ面と呼べるものはすべてだ。祭りの参加者たちは仮面をかぶる。規律、というほど厳格なものではない。守っていなかったところで罰するものはもちろん、咎めるものも強制するものもない。どちらかといえばそれは仕組みだ。この名もない祭りが祭りとしてあるがための仕組み。祀られるもの、弔われるものが欠けて失われているがゆえの、あるいは自身で自身を祀り弔うための祭り。ものどもが面をまとうことで祭りは祭りとしてそこにあった。逆を返せば祭りを祭りとして成立させるために、彼らは面を身につけるのだ。
 もちろん、これも仮説だ。無数に存在する仮説の一つ。
 連中は好きな仮説を好きなように信じ、演じている。曰く、醜いものが美しく着飾り、美しいものが醜い仮面を身につける。曰く、顔のない連中が気兼ねなく楽しめるようにと礼儀として顔を隠す。曰く、お面屋の陰謀。曰く、理由なんてものはない。誰がそんなことを始めたのかもわからない。来歴も理由も発端も失われてしまったのだ、失われてしまった我々にはそういう曖昧さがちょうどいい、とは誰が言ったのだったか。まあこのくらいにしておこう。益体のない説明にもそろそろ飽きてきた頃合いだろう。
 とはいえ、さして語る話もない。
 少年が目的地に辿り着くまで、この物語は進展しない。彼の道中を冒険小説さながらに語ってもいいが、うまくはない。きっと退屈させるだけだ。けれども何も書かないでは進まないのも事実であるから、何から書こうか、少年、そうだな、この少年はといえば、灯り屋を出てから一刻、道を失ってしまったらしい。
 彼の面は兎だ。聡明にして俊敏、小柄にして愛らしい少年には似合いの、兎の面。
 白い耳をぴんと立てて、あたりを見回している。いくらこの少年が聡明であるといえども、建物自体がでたらめなのだから、道中で道を聞いてもさっぱり。道案内も適当なら、聞かれた側が自分のいる位置もろくに把握していないこともしばしばで、いったい上の階へ進んだら地下へ出て、建物から出るために別の建物を経由せねばならず、ここはどこやらどちらに進んでいるのやら。
 建物? ああ、その話はまだしていないのだったか。
 ここは建物の内側だ。とはいえ「建築物の内側だ」といえるかは微妙だ。建築物というのはつまりあれだろう、計画と計算に基づいて設計された構造物のこと。今いるこの場所の無秩序さとは正反対のものだ。迷宮であればまだいい。迷宮は侵入者の行く手を阻む目的の上で計算して作られたものだから、目的があれば果てもある。この場所にはそういった目的や意図はまるでない。空間と空間がでたらめに継ぎ合わされ、ただ無尽蔵に広がっている。こんなものに築き上げるの築を当てては、世の建築物と建築家たちが黙ってはいるまい。
 気になるならばこの少年がたどった道のりを見てみようか、全部を語るとくたびれるから、ほんの一部だけ。
 旅館らしき板の間の端、腰の高さの障子をくぐって一畳半の茶室。また障子、茶室、障子、茶室、障子でくぐったところに空間が開け、オフィスビルの長い廊下。突き当たりのエレベーターホールに左右三枚ずつ並んだ扉のうち、一枚が開く。赤い絨毯敷きのエレベーター。ランプの表示によればここは十二階の表示らしく、一階のボタンを押して下へ降りる。扉が開いた途端に湯気、硫黄の臭い、浴室だ。湯気の中、ため池のような浴槽に利用客の影がうっすらと見える。迷った末に、少年は下駄だけ脱いだ。浴衣は浴衣だ、見とがめられまい。ただ服のまま湯気の中を歩く不快さ。肌にはりつく湿気の重さにたまりかねたところに、場違いな木戸。湿気を含んで膨らんだ取っ手を苦労して横に引く、と、吹き抜ける風。細く長い高架下、おそらくは高架下だ、汽車だか電車だかの。おそらくはとつけるのは、ビルとビルの合間のごとき遥か頭上に、高架らしき天井が見えるからだ。少年はカンテラの青い炎を下に置き、下駄をはいて外へ出た。木戸を元通りに閉めることも忘れない。時おり遠雷にも似た、列車のようなものが通過する音が聞こえるが、それが本当に列車であるかどうかは確かめようがない。か細い通路照明に交じり、柱と柱の合間にぽつぽつと商店がある。目医者の看板、羽売りの看板、秘密屋の電灯頭、椅子たちの集会、客引きをよけて横道に入る、通りぬけて進む、途端に空間が広くひらけ、洞窟のごとき壁面に赤く鮮やかなぼんぼりが連なり、中央に仏像の御座、絢爛にして天井に届かんとするが通行人を睥睨するを横目に、少年は座禅客の後ろをぬけて中華街に飛びこんだ。さっきの高架下に比べればとりわけ賑やか。ただし天井が低いせいか、屋台によっては棚が半分通路にはみ出ている。面を持ち上げて器用に蕎麦をすする翁面の隣から横に折れる道を曲がり、冷凍室の床や壁に浴衣の手足が貼り付かないようにして早足で外に出ると、階段の上は地下の大書庫につながっている。少年は襟足の氷を手で払うと、兎の面をかぶり直し―もうこのくらいでいいだろう。
 ここは万事このとおりだ。計画性などまるでない。そもそもが建てたのではなく寄せ集めただけだから規則性があるはずもないのだ。そう、集めただけ。忘れたくない、忘れられたくないものを、感じた衝動のそのままに片っ端から蒐集して詰めこんだはいいが、それっきり忘れている、あるいは蒐集の速さに整理が追いついていないのだ。管理者がいるとすれば、そいつはひどく無節操で、物臭で、いい加減なのだろう。開かれることのないアルバム、参照されることのない覚え書き、弔われる名もなく朽ちるのを待つばかりの骨壺。思い出すものだけがこの場所に存在することができる。
 少年もまた、思い出した。
 回廊を上へ上へと蜘蛛の巣のごとく分岐する道のすみに、小さなバッジを拾いあげたときに。彼はそれを自分に宛てられたものだと感じた。バッジの表面にはなにか模様か文字が彫りこんであるようだが、削れて読むことができない。だがこれはきっと目印だ、落としたのではなくわざと残したのだ、少年にはそう感じられた。正確には、そのように感じたのは少年探偵であるところの少年だ。少年探偵である自分は知っていた。のっぴきならない事情で正確な情報を残せないときに、彼らは仲間にだけ伝わる手段で目印を残すことがある。彼ら? もちろん、少年探偵の仲間だ。少年探偵と同じような、探偵活動を行う少年少女ら。少年探偵である自分はそのことを知っていて、少年もまた記憶として思い出した。もしこれがなにかの目印であるとすれば、それを残したものはどちらへ向かったのか。少年は兎の面を持ち上げ、辺りをよく見回した。カンテラの灯りは回廊の底知れぬ吹き抜けを照らし尽くすにはあまりに心許なく、頼りがない。だがどうだろう、こうして立ち止まって耳を澄ますと、びょうびょうとうら寒い風に混じって聞こえる気がしないか。そうだ、聞こえる、たしかに聞こえる。
 鐘の音を。どこか遠くで鳴る、割れ錆びた音を。
「あれは、時計塔の、大時計の音じゃないかしら」
 少年探偵はたしかめるように呟いた。あの音と、それからこのバッジだ。どちらもそれぞれに導くものではある。少年は音のくる方角によく耳を澄ませた。彼は優れた少年探偵だ。闇雲に動いても音を見失うだけだと知っている。少年はバッジを腰に下げた巾着袋にしまうと、元きた回廊を下りはじめた。音は下から聞こえていた。

 さて、少年探偵がこの場所に辿り着くまでには、まだ時間がある。
 先ほども述べたとおり、この祭りに名前はない。名づけてやる者が誰もないのだ。そしてまた、誰が始めるわけでもない。だがこんな場所でも自然と、恒例というものが生まれてくる。歌舞音曲の類は国を問わず、多くのものが好むところであるには違いない。
 彼らは名前しか伝わらなかったものを口に運んでは飲みかわす。散逸した音曲を奏で、誰にも書き留められずに消えた詩を朗じる。誰も知らぬ国の言葉で話し、互いに通じあえぬのをわかってなお語るのを好む。未だ海に沈んだ密航船が腹に隠したままにした傾国の宝のこと。立てた武功の数々にそぐわず、ただの一度も歌われなかった英雄の最期。墓の場所を記した帳簿ごと焼け落ち、いまとなってはどこにも骨が見当たらぬ聖人の墓標に書かれていたという詩編について。語るうちに感極まって面の下で涙ぐむものもあるが、悔いて嘆くのは生者だけ、人の世にあらぬものは踊りに明かし、しめつぽいのはごかんべんさ、よ、からすな、からすな、とものものの間を縫って回る小面や大鬼により酒が注がれる。あちこちで喉を鳴らす音、掲げた杯が酌み交わされる、歓喜の声のめのめと響くさま、天に轟く高笑いは天狗面。憂いを解くものは酒と女というのは昔からあらぬるところで歌われてきたとおり、ならば杯をあおれと獅子頭が言う。いわば人の世は夢の内、歓楽が何ぞ愁憂に勝るものか。大声で呼ばう。
 興が乗ってくる頃合いで、だれか遊びでもと声が挙がる。続けて、おお、だれか遊びでも、それはいい、前回のこれこれはよかった、楽しいのがいい、悲しいのもいい、うんと残酷なのがいい、景気のいいのがいいね、おおい、だれかやらぬか、とざわめく声に応じて、舞台の周りに篝火の支度が進められる。段取りらしい段取りもなく始まるのは毎夜のことらしく、だれが最初の余興を務めるのかを決めるところまでで悶着あるのも珍しくない。そろそろ頃合いかと、全身に経文を巻き付けた廃仏毀釈の神の御使いが筮竹を鳴らすそのときに、
「ではわたくしが」
 と進みいでたる影に、ものどもはおおと歓待と期待の声を挙げ、篝火にあらわれし姿を見るや否や、眉をひそめ不意を突かれたような嘆息が大半。
 こたびの一番手を買って出たのは、黒い支那服の長身。
 ――ただ、この支那服には顔がない。その上、面もつけていない。
 きっと顔ばかりが世間に一人歩きしているのか、あるいは、失うべき顔など元から持たぬのだろう。顔がないのを責める我らではない。しかしこの場の条理を理解せぬものに、一番舞台を託すのか、まったく無礼ではないか。
 さざめく声ならぬ声にさらされて、支那服の長身はまったく堂々とした態度。
「余興をと聞いて来てみれば、どうにも歓迎されていないご様子ですなあ」
 年寄りにも若者にもとれる声で横柄に言う。
「わたくしの顔がそうも気になりますか。顔などそう重要なものでもありますまい。十も二十も四十も顔があれば、自分でもどれが自分の顔だったかなんて忘れてしまうのです。しかしみなさんがそうも気になるというのなら、どなたか顔をお貸しいただきましょう。オヤ、誰も貸してくださらない。ハハハハハ、ならばまったく仕方がないというもの。勝手にお借りするとしましょう」
 とするりと舞台に飛び乗る支那服の顔には、さきほどまで欠片も見られなかった万(まん)媚(ぴ)の面が据えられている。それを見るや、宴席の後ろのほうでギャッと叫び声。寄せられる視線に慌てて顔を覆う酔客がひとり。いったいいつの間にすり取ったのか、支那服の顔なしは離れた場所から、本人にも気づかれぬうちに観客から面を盗んだのだ。
「浮きたるくもの行くへをば、風の心に任すらん、だ」
 宮女の声でひとつ、聞こえたからにはもう遅い。引きずり下ろすにも、支那服は万媚の面を身につけすでに舞台の上に立っている。立たせたからには無粋はやらぬ。まったく型破りな登場に、しかしいったい何事を演じようものをとくと見よとくと見よとて、ものどもはただ好奇のまなざしでもって観客に徹するばかり。盲目の面をかかげた楽士たちだけが、張り切った様子で脇に控える。今宵はいかにいかようにいかなるものを語らえば。
 では、と。
 漆黒の支那服が篝火の舞台に立てば、さながら影法師。女面だけが宙に浮くと思いきや、思わぬ笑みの妖艶さ。若い娘のひとりが、喜びとともに舞台の上を悠々と舞台を歩く。服装も長身も何も変わっちゃいない。面としなやかな動き、指先の仕草、ただそれだけで、舞台上にうつくしい娘盛りが夢見て舞う、請われて舞う、蝶は止まり木から止まり木へ飛ぶ。
 そこに顰(しかみ)の面が現れる。もちろんこれも支那服の顔なし役者が二人一役で演じる。が、万媚が蝶であるなら顰は蜘蛛だ。長い長い蜘蛛のような黒い手足を引きずり、女王にかしづくように恭しく娘の手を取ると、くるりと回る。回った勢いのまま娘は倒れ、地面に倒れてバラバラになる。そう、バラバラにだ。石膏像が床に落ちてバラバラになるのと同じ。顰の蜘蛛は悲しむような、驚くような仕草で娘を地面に置くと、そのまま次の蝶を探しにいく。行く先々で出会った娘を、同じように台無しにしてしまう。あるときは魚の水槽に突き落とし、あるときは手足をもいで捨ててしまう。顰の蜘蛛にはどうやら天敵がいて、追われて逃げるようなそぶりを見せるのだが、姿の見えない天敵から逃げ回るさまは滑稽の一言。蜘蛛は逃げて逃げて最後に、崖の上に止まった美しい蝶に見とれてしまう。手を伸ばす。もう届く、もう届く、というところで、とん、と見えない手に押されてバランスを崩す。そして崖の下へ真っ逆さま。糸も届かぬ穴の底。突き出た岩に背中から串刺しになる。長い手足が痙攣して震え、絶命する。死した土蜘蛛、哀れ無残にや二目と見られず。
 ここまでがすべて、即興の楽のみで演じられる。
 いったい顔のないものが何をするつもりなのか見てやろうじゃないか、と腕組みふんぞりかえっていた連中も、途中からは腕組みも忘れて食い入るように見入ってしまった。顔のないということは、裏を返せば誰の顔にでもなれるということ。趣向は悪趣味であるが迫真。串刺しの胸から流れる血だまりまでありありと浮かぶ。
 拍手喝采!
 舞台に立った顔のない男――男と呼ぶ、ここでは仮に、彼と称する。もちろん格好のみを指しての話であるから女であっても彼女と称しても一向に問題はない――は、両腕を挙げて満足そうに喝采を浴びた。
 彼は元来、目立つのが好きなのだ。奇抜さでもって人々をアッと言わせるのが好きなのだ。ならば面をつけずに登場したのもあえてのこと。
 顔のない男は借り受けていた万媚の面を投げ返し、同じ手で観客の中の一人を指差した。指の先には蛇の面。周囲の視線が注がれる。途端、手のひらを返して招く仕草。よこせというのだ。差し出せというのだ。お貸し願おう。そうだろう。よって蛇は差し出す、今度は喜びと期待の手でもって。
 さて、続けざまに演じるは、悪事に耽溺する蜥蜴の犯罪遊戯。支那服の黒くしなやかな肢体を舞台に横たえ、ものものを睥睨する。面の奥に渦巻くのは死者の目。すべてを俯瞰して、見えぬはずのものを視る。ゆえにここにない天敵の手を取り、胸に触れさせ、唇のあと少しまで迫る。恋をしたのだ。乙女の恋を。不釣り合いと知りながら? いいや、純粋な悪なんてものを信じる彼女であればこそ、純粋な恋も成立しうるというもの。追われて追わせて、美しいものを美しいまま閉じこめて、自らも添い遂げようと身を寄せようとしたそのときに、いつのまにか恋しい天敵が腕の中から消え失せていることに気づくのだ。逃げ込んだ鐘の中、渦巻く炎はそのまま鱗の肌を焼きつくす。
 二幕目ともなれば趣向は明らかだろう。これはさながら悪人づくし。いつかここにあった稀代の悪党どもを演じて見せているのだ。おそらくは話の種にしか知らないような者たちの末路を、芸能舞台になぞらえて。顔のない顔であればこそ、相も変わらず、芸達者なこと。
 良し、良し。ゆかいゆかい。今度の幕が終わる頃には観客たちは、面の下の顔がないことなどどうでもよくなったと見え、面を脱ぐが早いかの大喝采。みなみな手を打って喜んだ。余興にはもうそろそろ、と下がろうとする腕を引っ張って、そうは言わずもう一幕、と差し出されたるは邯鄲男。砂上の楼閣、仮初めの愛。裏のない賛辞に気を良くして応えれば、間髪を入れずに次の面が差し出される。我も我もと押すそれを次々に受けかわし、変わり身の早さは昔取った杵柄か。百面相の呼び名をほしいままにするのも慣れたもの。
「今宵は、これにて」
 そう辞を申し述べるころには、みなみなすっかり酒が回ってできあがった様子。幕引きのかけ声と拍子木の音によって、この顔のない役者は再び面のない素顔をさらして、惜しみない賛辞をその身に浴びた。篝火が焚かれる舞台で舞い続けの身は疲労困憊なれど、倒れるのは許さぬと見え、気丈ひとつを芯にして恭しく辞儀をする。一番舞台を立派につとめたものには、十分な褒美が与えられるのが当然のこと。二者一対の獅子舞巫女が、両側から朱塗りの盃になみなみと酒を注いだ。浮世にあっては立派な名がついたのであろう、被り笠にもならんばかり名もなき大盃。巫女が勧めるにすすめられ、顔のない男はくたびれた様子を微塵もおもてに出さず、にっこりと笑んで盃を両手に持ちあげた。神便鬼毒の酒もかくや。傾けてあおり、喉を鳴らす。

 かくして少年探偵が、廃墟同然のホテルロビーから続く第三大伽藍は緑色の能舞台に辿り着くころには、この顔のない男はすっかり正体を失っていた。大の字に寝っ転がった顔は、カンテラの青い火の中で見ても赤らんでいるのがよくわかる。少年はため息をついた。
「まいったなあ。すっかり酔っぱらってら。そんなんじゃお釈迦様だって救っちゃくれまいよ。まったくしかたのない」
 そうつぶやいて浴衣の裾を払い、隣に腰をおろす。地面には舞台を囲むように濃朱の敷き布がめぐらせてあって、観客たちは銘々に自分の場所と決め込んだところを陣取っている。この顔のない男は、舞台の正面からやや外れた、下手側の舞台出入りに近いほうに場所をいただいていた。舞台上を少し離れて仰ぐような形で見られる良い席だが、これではまったくもって意味がない。少年は男の頬をぴしゃぴしゃと叩いた。焦点の合わぬ目がぼんやりとあたりを見回し、少年の頭の上で視線が止まった。
「やあ、あはは、誰だと思えば、子うさぎがむかえにきたぞ。きみもいっぱいいかがだい。遠慮するな。ぜんぶおれのおごりからな」
「子供に酒をすすめるやつがあるか」
「そうは言うが菊児童、出会ってからこの方、きみが年を取ったところなんて見たことがないぜ。不老長生の秘訣は菊の露ってんだから、少しくらい平気だろう。ね。そら」
 身を起こそうとするにぐらぐらと揺れるを見かね、少年探偵は腕を回して男の身体を支えてやった。懲りもせず猪口をたぐりよせようとするのを取りあげ、自分が持ってきていた透明のカップと無理やり入れ替える。伽藍の前に陣取った狐面の店番が、会場はワンドリンク制だなどと押しつけるので、受け取らざるを得なかったのだ。カップの中で、丸い氷がごろごろと転がる。青銅の鏡の甕につけ込んだ糖蜜を、炭酸水で割ったもの、だったか。酔い覚ましにはなるだろう。
 つめたいね、と男がすねた子供のように男が言う。
「どうせ氷なら、ブランデーでもついでくれよ」
「これ以上飲んだら歩けないでしょう。おぶってくなんて僕には無理だからな」
「つれないなあ」
「どっちが」
 少年は窮屈そうに面を持ち上げた。汗のにじんだおしろいの肌を、手うちわでぱたぱたとさせる。素のままでも少女然とした面持ちの少年は、くりくりとしたどんぐりまなこを、たしなめるように細めた。
「なにが現地で待ち合わせだ。どこが現地かも言わないんだから、ここまでたどりつくのに四半世紀も迷子になった気分だよ」
「きみはえらいねぇ。迷子になっても泣きやしない。案内もなしにたどりついて、さすがはぼくの一番弟子だ。えらいえらい」
 わざとなのか素なのか、ろれつが回っていない。歩けるほどまでに回復するには、もうしばらく時間が必要そうだ。ぼくの、じゃないだろ、と。少年は男を無理に立たせるのをあきらめて、肩の力を抜いた。ここまで来るのに歩き通しだったから、さすがに少しくたびれた。腰に下げた巾着袋の上から指でなぞり、硬貨にまじってややふくらみのある、丸いバッジの感触を確かめる。どうやらこれを置いたのはこの男ではないらしい。
 それならば、と思ったところで、鼓が鳴った。
 少年は音につられて顔を上げた。
 ちょうど場面転換にさしかかった頃らしい。鼓に遅れて笛が鳴った。鈴が鳴った。最後に鐘が鳴った。あかあかと火の粉を散らすかがり火の向こうに、演者と思しき黒衣の姿が立っていた。
 城郭風の大伽藍、壁のあちことに緑が這い、風のぬけるまま朽ちて穴だらけの七つの続き間、その一つ。少年が伽藍に到着したときにはすでに演目は始まっていたはずだ。だが捜し人のほうを優先して、何をやっているのかまでは目に入らなかったのだ。だが、今は違う。少年の目は舞台に立つ人物に――その女のひとに釘付けになっていた。ひとたび舞台に集中すれば、音も台詞として耳に入る、断片的に演目の内容が頭に入ってくる。
 覚えがあった。どころか、たしかに知っているぞという気がした。
 女か、役者か、演目か、あるいはそのいずれもか。
 だがどこか違和感がある。
 少年探偵たる少年はまじまじと舞台を見つめた。違和感。それは何に対する違和感なのか。何を知っていて、何を覚えているのか。考えを言葉にしようとしたとき、楽士の笛に立ち交じり、失われたはずの自分の名を呼ばれた気がして、少年は後ろを振り返った。





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