落下天昇




 先生、ああ先生、どうかわたしを助けてください。わたしを、わたしたち親子をお救いください。お願いです。どうかお救いください。救ってくださるならばなんでもいたします。

 あの子は、息子には悪魔が憑いているのです。悪魔です。三つの目を持ち山羊の脚をした悪魔です。お分かりになりませんか。悪魔が息子に取り憑いているのです。ともすれば息子自身が悪魔になり果ててしまったのかもしれません。わたしには、もうなにがなんだかわからないのです。あれはわたしの息子ではありません。息子の皮をかぶった悪魔なのです。ああ先生、聴いてくださいますか。あの子の、息子の名前はみつるというのです。

 みつるは可愛い子です。親のわたしが言うのもなんですが、整った顔立ちをしています。まだ十歳になったばかりですが、横顔は子供と思えぬほどに大人びていて、それがちょっとほころぶと、どこか女性じみたうつくしさが薫るのです。あれは妻に似たのです。妻に似てうつくしい、いえ、可愛らしい子供でした。それにね、あの子は見目麗しいだけの人形ではなく、中身もそれに伴っているのです。あの子は頭が良く、なにをやらせても大抵ものにしてしまいました。
 ……子煩悩ですか。でもきっと一度ご覧になれば、私の言うことが親の贔屓目でないことはお分かりいただけるでしょう。そうです。あの子はきれいで賢い子供なのです。ただそれだけだったならば、わたしはどんなにか幸せだったでしょう。
 今となっては理解できます。あれは周りを欺くための演技だと。
 あの化け物はずっと、優秀な子供を演じていたんです。自分の正体を悟られないように。わたしたち夫婦を騙していたんだ。なぜだって? 悪魔はそのときを待ってたんですよ。復讐の、そのときを。……先生、あなたの目にも、わたしの方がいかれちまっているように見えるんでしょうなあ。それがやつの狙いなのです。そう思わせるための演技なのです。ことを成し遂げた後も平然と人間世界に戻れるように。おかげでこっちが狂人扱いだ。「お父さんがあんなふうになって可愛そうに」、と憐憫の目を向けられて、しおらしげにしてみせるその裏で、悪魔がねっとりとした笑みを浮かべていることを。あれは悪魔だ。わたしは狂ってなんかいない。おかしいのは、おかしいのは……


 ……話を元に戻しましょう。
 わたしはなにも、根拠なくあの子を悪魔だと言い立てているわけではありません。然るべき理由あってのことです。でなければわたしは本当に狂人ということになってしまう。
 あの子の様子が目に見えておかしくなったのは妻が死んでしばらくしてからでした。いえ、もっと妻が死んですぐだったのかもしれません。あのころはなにぶんわたしも妻を亡くしたことが衝撃で、息子にはあまり目を配ってやれなかったのです。ですから……妻?
 ええ、死にました。

 半年前のことです。事故、でした。住んでいたマンションの八階から転落死したのです。どうしてよりによってあんな……仕事中に警察から電話がありましてね。病院に駆けつけたころにはもう……即死でしたから。ひどいものです。墜落死体というものを見たことがありますか。顔から落ちて、いくらか修繕はされていても、とても生きていた頃の面影は……すみません、これくらいにさせてください。これ以上はわたしにとって酷です。
 自殺も、考えましたよ。わたしがではありません。妻の件です。しかしいくら思い返しても妻が死ぬような動機は見つからんのです。あれは本当に自信過剰といいますか、感情の起伏の激しい女でしたから、自分から死ぬくらいの動機があればヒステリーになって暴れ回るくらいのことはするでしょう。警察の調べではそんな形跡は一切なかったといいます。形跡とはつまり事件性、を示唆するようなものはなにも。現に流しには息子と昼食を食べた食器がそのままになっていました。

 あれは白昼堂々、宙に身を投げたのです。
 息子も部屋に置いたまま、あれは、妻は息子の前で身を投げたのです。……。ああ、違った。事故、でしたね。身を投げたという言い方は、ええ、ふさわしくない。しかしよりによってあんな……。


 いえ、世には奇妙な因果があるものだとそのとき初めて思いまして……。

 わたしたちには子供がいたんです、みつるの前にひとり、男の子が。生きていれば今頃は十三歳になっていたでしょうね。……ええ、その子も、やはり。あの子が生まれる前に死にました。
 あれは事故でした。
 妻が目を離した隙に、マンションのベランダから落ちて……。
 そうですよ。妻と、母親と同じ死に方です。墜落死したのです、ふたりとも。
 最初の子は……我が子とは、思えないような、その……ええ、容貌でしたよ。わたしにも妻にも似つかない、不器量な子供でした。でも可愛くなかったわけではないのです。本当です。血の通った我が子であることはきちんと証明されていましたし……ああ、いえ、念のために。今はすぐにそういうことが調べられるので。

 ……みつる、というのですよ。
 死んだ子の名前です。死んだみつるはさんずいの満と書きました。息子のみつるは美しい鶴と書くのです。同じ読み方にしたのは、妻のこだわりでした。容貌もなにも、ふたりはまったく反対の子供でしたがね、皮肉なことに。妻は今度こそ美しい子供であれと呪いをかけたのですよ。おかげでわたしは、どちらの子をみつると呼んでいるのか、今でもたまに曖昧で……。みつるは、死んだみつるは、可哀想な子供でした。

 生まれた子が自分に似つかぬ顔かたちだったことに、妻は心底絶望していました。ひどいものです。外にも遊びに連れて行かず、汚いものでも触るように扱って。腹を痛めて産んだ我が子に対する扱いとは思えなかった。幼い頃の容姿なんて成長すればいくらでも変わると妻には言い聞かせましたよ。それでも……それでも、平日あいつを家の中に閉じこめっきりにしておくのには閉口しましたが。そのことで妻とは何度も口論になりました。
 でもそんなあの子も落ちて死んでしまった。
 そして今度は妻がだ。あの子を厭うた妻自身が、あの子と同じように墜落死してしまった。
 そうですよ! 同じ、同じ死に方で……。なぜ、よりによってなぜあんな、あいつと同じ死に方を……!



 ……みつるは、息子はなにも言いませんでした。貝のように口をつぐんで、じっと押し黙っていました。病院に駆けつけたわたしを見るなりひしと抱きついて、あの子がいたからわたしはなんとか正気を保てていたのです。そういっても過言ではありません。あの子の存在に感謝しました。あの子が、みつるが生きていてくれたらそれでいいと。あのときは本心で思ったのです。
 ……ええ、本当に。
 でもあの子は悪魔でした。
 わたしが変化に気づけなかっただけで、ことはもっと前から起こっていたのかもしれません。しかしその変化すら最初は微々たるものでした。あの子のことです。みつるのことです。
 あの子は妻の死後、寂しいから一緒に寝てくれと、ひとりにしないでくれと、甘えたことを言うようになりました。前はそんなことを言う子ではなかったのに、母親を亡くしてあの子も動揺しているのだと、最初は気にも止めなかったのです。最初は、あの子が頼ってくるのに安心をしたくらいです。あの子もちゃんと子供だったのだなと。

 おかしいと感じるようになったのは、妻の死から一月がたった頃でした。みつるの甘えたがりは悪化していました。それも様子が妙なのです。
「ぼくのこと愛してる?」……繰り返しそう問うのです。「ぼくが可愛い?」とも。どうしたのかと訊きましたよ。でもどうもしないというのです。なにかの戯れか、と思いました。思いましたが……「おとうさんはぼくを落とさないよね?」……そう訊かれときは肝が冷えましたよ。

「おとうさんはぼくを落とさないよね?」

 おとうさんは、の部分を強調して息子は再度問いました。利発そうな目でじっとわたしの顔を見て、わたしの出方をじっとさぐっているのです。わたしは初めて息子が怖くなりました。だって、どうして息子がそんなことを訊くんですか? それも、落とす、だなんて。わたしが妻を殺したとでも思っているのか? わたしが問い詰めようとするとあの子はそっぽを向いて部屋の奥へ引っ込んでしまいました。
 ……それから、わたしは息子と距離を置くようになりました。なんだかそら寒い思いがしまして。それに、仕事が溜まっていたんです。妻を亡くして、いくらなんでもいつまでも休んでいるわけにもいきません。息子の方だって学校がありますし、いまは母親の死で混乱しているだけだ、家から離れれば母親のことを考えずに済むだろう、少しは落ち着くだろう……そう自分に言い聞かせました。


 そんなある日ですよ。
 朝、目が覚めると身体がガムテープで拘束されていました。全身をぐるぐる巻きで身動きひとつ自由になりません。まったく状況が飲み込めませんでした。寝ている間に強盗に押し入られたのか、息子は無事なのか――わたしの心配を余所に、あの子は「おはよう」などと暢気に姿を見せました。「朝ご飯食べる?」と。
 その姿にわたしがどれだけ愕然としたか。お分かりには、ならんでしょうなあ。あの子は笑っていましたよ。あんなに幸せそうな息子を見たのは初めてでした。妻が死ぬ前にも、そんな顔を見せたことはありませんでしたよ。それと同時に、これをやったのは息子なのだと嫌でも理解できました。
 わたしはそら恐ろしくなりました。いくら熟睡していたと言ってもこんなにされていれば気づかなかったはずはありません。薬を、盛られたのです。わたしは妻が死んで以来ずっと不眠がちで、薬を処方してもらっていましたから、きっと料理に混ぜて飲ませたのです。
 ガムテープはそのままに、会社と学校へ電話をかけさせられました。電話越しに助けを求めることも考えましたが、

「だっておとうさん、十歳の息子に監禁されていました、だなんて」

 ……信じてもらえないでしょう。わたしだって信じませんよ、自分の身に起こったことでなかったならね。
 とにかく、息子の意図がどこにあるのか全くわかりませんでした。息子はおかしくなってしまったのだと思いました。わたしはガムテープでぐるぐる巻きにされていて、芋虫のように転がっていることしかできません。あの子の意思一つでわたしをどうにでもできるのです。それがどれだけ恐ろしいことか、きっとお分かりにはならんでしょう。電話を置いた息子は、「今日は一日いっしょにいられるね」とはしゃぎました。……あの子はどうにかしてしまったのです。
 わたしは布団に転がされたままあの子を叱りました。しかし石にでも説教をしているような調子で、息子はきょとんとしているのです。しまいにふいとどこかへ行ってしまいました。いそいそと戻ってきた息子は、手にスパゲッティの皿を持っていました。わたしが腹を空かせているから怒鳴り散らしているとでも思ったのでしょうか。

 結局、ガムテープが取られたのは夜も遅くなってからでした。あの子は一日わたしの隣で本を読んだり、学校での他愛もない話をしていましたよ。楽しそうにね。『どうしてこんなことを』繰り返しの問いにも「ぼくのこと愛してる?」――始終その調子で埒があきません。わたしは怖くなりました。怒りより先に、無性に怖くなったのです。息子が、みつるのなにもかもが、怖くてたまらなくなりました。
 あの子はわたしの心を敏感に感じ取ったのでしょうね。
 わたしの前で泣き始めました。
 不思議なもので、さっきあんな恐ろしいことをされたというのに、我が子と思えばこそ、さめざめと泣く姿を見ていると、どうにもあの子が可哀想で、可哀想で仕方がありませんでした。
 あれは引きつけにの声に混じって、
「ぼくのこと、愛してないの?」
 ……いじましくそう訊くのですよ。めそめそ泣くのですよ。
 自分にもみつるを遠ざけていた負い目がありました。それがあの子を追いつめてしまった。あれは可哀想な子だ。嫌いなわけじゃないと答えてしまったのも親心でしょう。あの子は泣きながら、なら証拠を見せてくれと言いました。
 拘束を解いてくれるよう頼むと、あの子は真っ赤な目で応じました。

 ……殴ってでも叱るべきなのでしょうね。
 わたしの対応といえばまるで正反対でした。わたしはね、挙げた手をどうしても振りかぶる気になりませんでした。顔をおおうでもなく、涙をぽとぽと落とすあの子を見ていると、どうしてもできなかったのです。どうしようもなく可哀想だったのです。言い訳をするつもりではありませんが、あの子は妻に似て、可愛らしい子供でした。
 わたしはつい、引き寄せられるように、ふらふらと、女を慰めるように。みつるにキスをしました。みつるは、あの子は……長い睫毛の涙をそのままに、瞬かせると、わたしの顔をじっと見ました。それが不意にほころんで。
 みつるは勝利を勝ち取ったように、満足げに微笑みました。
 白い顔が外からの街灯にうつって死人の顔に見えました。
 ……わたしには、その顔が死んだみつるの顔に思われましたよ。


 その日からわたしは……。……。あの子は悪魔です。化け物です。あの子をあんなふうにしたのは悪魔なのです。あの子は子供とは思えない、妖艶さで、甲斐甲斐しく、愛しているか、可愛いか、落とさないかと訊くのです。
 わたしが狂っているのでしょうか? 正直におっしゃってくだすって構いません。どうかしているのはわたしの方なのでしょうか? 歪んでいるのはわたしの現実なのでしょうか? わたしはわたしなりに真実を述べたつもりです。その現実が歪んでいるならばわたしはどうしたらよいのでしょう。このままではどうにかなってしまいます、このままでは、落ちるのは……。わたしにはもうなにもわかりません。わたしがなにをしたというのでしょう? なんの因果でこのような仕打ちを受けるんでしょう。
 先生、どうかお救いください。どうか、どうか……


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