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「はあ?」
 思わず声が出た。「それ、どういうこと?」
「考えてごらんよ。現状で僕と君の利害は一致しているんだ。君は自分が目にしているものの正体を知りたい。そうなんだろう? まあそうだと仮定しようじゃないか。しかし、君には自分がなにを視ているのかを判断するための知識が欠けている」

 ぎしっ、とソファの背もたれがきしむ音がする。キッタくんの身体が影になって覆い被さる。両手をソファの背に置いて、キッタくんは後ろからぼくを覗き込んだ。

――そして一方、僕は残念ながら怪異を視ることはできない。さっきの『3333』号室の件でそれがよくわかったよ。僕では君のように幽霊や化け物の姿が見えないらしい。だが視えない分、そういうものへの興味関心は人一倍さ。そこで、だ」

 形の良い唇が、僕の真上でにんまりと吊り上がる。

「そこで取り引きなんだよ。いいかい? 内容は至ってシンプルだ。君は僕にその目で視たことを話す。なにをどうというのは追々話し合おうじゃないか。そしてその代わり、僕は君に知恵を貸してあげよう。必要なら君が『妖怪大百科』だの呼んだファイルもある。それがどれだけ君の助けになるかはわからないけどね、少なからず君の参考にはなるはずだ。僕もまた君の話を聞くことで得るものは大きい」
 キッタくんが声をひそめて言う。

「……悪くない、話だと思うがね」

 囁いて、その目が悪戯っぽく細められる。
「キッタくん、それって」
「ずっと喋っていたら喉が渇いたな」ぼくの言葉を遮り、キッタくんがソファの背から身を引いた。「コーヒーを淹れてくるよ。君もコーヒーでいいね? それでは少し待っていてくれ」
 とりつく島もなくそう告げて、キッタくんはくるりと背を向けた。ぼくはというと、この予想だにしない展開にただぽかんとして、部屋の奥に消えていくキッタくんの背を見送った。背もたれにどさっと崩れかかる。なんだか一気に力が抜けた。半分ソファからずり落ちるような格好で、ぼくは必死に頭を働かせる。


 ……いったいどこから仕組まれていたのだろう。
 キッタくんのことだ。『禁后』、つまりここに来て一番最初に話をしたあたりでもうすでに、こういうふうに話を持ってくることは予想ずくだったのだろうか。まさかさすがにそんなことはと思うが、完全には否定できないのがあのひとの恐ろしいところだ。

 あの人は危険だ。
 なぜか今になって確信が持てた。初めてキッタカタリに会ったとき、ぼくはキッタくんを人間ではないなにかだと疑った。結果的にその誤解は解かれたけれど、たぶん、今思えば半分は誤解じゃなかった。半分は正解だったのだ。根拠はないけど、そんな気がしてならない。
 だからキッタくんが持ち出した『取り引き』の語を聞いたとき、ぼくの頭に浮かんだのは『悪魔との契約』という言葉だった。よくお話で「お前の願いを叶えてやろう」なんて悪魔が出てくるじゃないか。それで万事願いが叶ったところで「さて契約の代金はお前の魂でお支払いいただこう」なんて言い出す悪魔。キッタくんのイメージは、口がうまくて意地悪く笑う、悪魔のイメージにぴったりだ。

 ――でも、とぼくは思う。
 一方で、彼女の言葉を拒みきれない自分がいるのも事実だ。キッタくんはぼくに知るべきだと言った。目を背けていてもなにも変わりはしない、とも。ぼくは正直、その言葉に揺れた。現実ではないものが視えるというぼくの言葉を飲み込んだ上で、その上で真っ向から否定されたのは初めてだ。それも今まで言われてきたのとは反対の、知るべきだという言葉。もしかするとぼくは期待しているのかもしれない。その言葉に今までの自分が打ち砕かれることを。そしていなくなった――いや、『いなくなったことにされた』兄のことを、他ならぬキッタカタリがなんとかしてくれるのではないか、なんて。そんな淡い『希望』を抱いている。
 そしてそれらと同じだけの――



「キッタくん」
 ぼくはコーヒーを手に戻ってきたキッタくんに声をかけた。
「訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「構わないよ。なんだい?」
 キッタくんがカップを置いて座るのを見届け、ぼくは意を決して尋ねた。
「キッタくんは『寺生まれのTさん』って知ってる?」
「それは君の『寺生まれのTくん』の由来になった人物のことかい?」
 ぼくは頷く。この時点でぼくの腹は決まっていた。案の定、キッタくんは口の端を上げ、すらすら答えた。
「もちろんさ。僕は最初、君こそがあの『寺生まれのTさん』だとばかり思っていたんだからね。彼の伝説は――あれはもう噂ではなく伝説だ――あらゆる形のものが残っている。怪異あるところにどこからともなく現われ、手から気を発して怪異を吹き飛ばしてしまう男の名、それが『寺生まれのTさん』だ。怪異から人々を救う、どこの誰ともわからないヒーローのような男。寺の生まれでイニシャルがTであること以外は不明で――
「兄かもしれない」

 ぼくはキッタくんの言葉を遮った。……自分から訊いておいてなんだけど、このまま延々と語らせるわけにはいかない。キッタくんの知識についてはよくわかった。でも今度はこっちの番、こっちが話す番なんだ。
「兄がいるんだ。さっき食堂で話したよね。五人兄弟の、一番上の兄。その兄が失踪して、もう何年も行方がわからない。その兄が、キッタくんの言う『寺生まれのTさん』なのかもしれない」
「……興味深いね」
 キッタくんは静かに言った。「そう考える根拠はあるのかい?」
「根拠はないよ。証拠もない。自分でも自信はないし。でも、だから――
 だから、とぼくは言う。

「ぼくの話を、聞いてくれないか」

 そう言って、ぼくはキッタくんに向かって手を差し出した。



 レストランでキッタくんは「パンドラの匣は匣の形をしていなくてもいい」と言った。元々は甕で、『禁后』では家で、秘密を閉じ込めていればそれでいいのだと言った。なら、人の形をしたパンドラの匣だってあるんじゃないか?
 わかっていても、開かずにはいられない。開けてはならない匣だとわかっていても、開けて後悔することがわかっていたとしても。それはまさしくパンドラの匣だ。ぼくにとっての『パンドラの匣』はキッタカタリに他ならない。ならばぼくをこうさせるものは、恐れと期待と、それからもう一つ。――それはぼくの『好奇心』だ。


 鳶色の目を少し細めて、悪魔はうつくしく微笑んだ。
「もちろんだとも」
 白い手が、ぼくの手を握った。ぼくよりもほんの少しだけ冷たい手に、力がこもる。『これでもう後戻りはできない』と、握った手の感触がその事実を示していた。かまうものか。意思づけるためにも、ぼくは手を強く握り返した。
「乾杯はコーヒーになるけどいいかな?」
 キッタくんはにっこり笑って自分のカップを持ち上げた。ぼくもそれに応える。――かつん、にぶい音を立ててカップがはじける。

「どうぞよろしく、寺坂次郎(テラサカジロウ)くん」
「こちらこそ……キッタカタリ、さん」

 そしてふたりでコーヒーを飲んだ。キッタくんの淹れてくれたコーヒーを、キッタくんの部屋で、キッタくんと一緒に、だ。その間、ぼくは信じるしかなかった。……『おいしいコーヒーを淹れる悪魔』がいないことを。




「パンドラは匣の贄」 了



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